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無間省察


研究者として働く私のもとに大学時代の先輩から「見せたいものがある」と彼の研究所の住所が書かれたメールが届いた。

界隈で最先端を往く先輩の研究に興味があった私は、すぐに研究所へ向かった。

「よく来てくれたね」

先輩は頬がこけ血走った目で私を出迎えた。

きっと何日も家に帰っていないのだろう、白衣の襟は垢で黄色く汚れ、身体から小便の臭いがした。

「どうしたんですか。マトモではない様子ですよ」

私がそう言うと、先輩は不敵に笑い、「まあ、これを見たら全てわかるよ」と奥から顕微鏡を取り出し、引き出しから取り出したプレパラートを乗せて、私の前に置いた。

彼の凄みに押され、口から出かかった質問を飲み込んで顕微鏡を覗いた。

そこには、何か白い動物の背中があった。

白衣を着た、丸まった背中だ。

そう、顕微鏡を覗く私の背中だ!

「これは何ですか!」

私は驚いて先輩の顔を見た。

「ミニサイズの君のクローンだよ。
だが君だけじゃない、そこには私も居るんだ。無論、この研究所のミニチュアもね。
今こうしている間にも、同じことがミニチュアの中で起きているんだ。
ミニサイズの君もいま見た光景に驚いて私にこうやって真相を確かめている。
ミニチュアの世界にもミニチュアの世界があり、世界は無限に続いているんだ」

先輩はのべつ幕無しに唾を飛ばして語り始めた。

大変興味深い内容だが、しかしある問いが頭の中で生まれた。

「馬鹿馬鹿しいとは思いますが、私たちの居るこの世界もミニチュアの可能性があるということですか?」

私は背筋を這うように感じた根元的な恐怖を紛らわすため、わざとおどけて言った。

しかし先輩はピクリとも笑わずに「ああそうだ!」とヤケクソに呟いた。

「このミニチュアの世界に生きている彼らは、ミニチュアの外が何もないことを知らないんだ。何らかの作用が働いて外部を知覚しないようになっているんだろう。
私たちもそうやもしれない。
・・・ ・・・思い出して欲しい。
君が今日ここへ来るまでにどんな家から出て路を通り、やって来たのかを。
どうだ、思い出せないだろう。 私もなんだ。私たちもミニチュアの世界に住んでいて、ここはプレパラートの上なんだ。
小さな私たちを観察して困惑する私たちを、もっと大きな私たちが困惑して観察しているんだ」

先輩は頭をかきむしり、その場にくずおれた。

確かに、言われてみれば自分がどんな家に住んでいてどんな道を通ってきたのか、さっぱり思い出せなかった。

しかし、そんなことは到底信じられなかった。

だいいち非科学過ぎて、もはや哲学の領域だ。それを信じるとしたら、私たちが科学者である意味がなくなってしまう。何かの気の迷いと思いたい。

「では、我々がここを脱出するにはどうした
ら良いのでしょう?」

「脱出?」

先輩は思っても見なかったという表情をして聞き直した。

「いままで外部を知覚しないようにできていたのに、今日私たちが自分たちを箱の中のクローンだと認識するのは変じゃないですか。今日我々は脱出できるはずです。そうできているはずなんです」

「ああそうか!
よし、では試しにそこの扉を開いて出てみよう。扉の外には廊下があるはずだが、私が作ったミニチュアにはこの部屋しかない。
扉を出ればそこには透明なプレパラートの床があるはずだ」

「そうしましょう!」

私は先輩に調子を合わせて言った。

先輩は金属でできた重い扉のドアノブに手をかけた、が何かに気がついたようで、熱いものを触った時のようにさっと手を離した。

「まてよ」

先輩はこちらに振り向いて言った。

「お前は何者だ」

「なんですか藪から棒に」

「君は外部からこの扉を開けて部屋へやって来た人間だ。
私は顕微鏡の中に私と君のクローンを作った。私は自分のクローンを作るうえで自分の記憶から思考をそっくりそのまま継承し
たが、君のクローンを作る上で君はあくまでモデルに過ぎない。
つまり、思考が全く同じでない以上、君がクローンと同じ行動を取ることは不自然だ」

「なんだそんなことですか。それはさっきあなたが言った通り、この私もクローンだからではないですか。
先輩の目の前にいる私は、私たちを観察する大きなあなたによって作られた、だから同じあなたが作った存在には変わりなく、不自然はないじゃないですか」

「現象には必ず始まりがある。クローンには必ずオリジナルがあるはずだ。
オリジナルの君とそのクローンが同じ行動を取ることはないはずだ。しかし、この世界がマトリョーシカのように連続し、同じ結果になるのは、オリジナルの君とクローンの君が同一存在だからだ」

「つまり、私はオリジナルの時点で既にクローンであるという矛盾を抱えていると?」

「そうだ!」

先輩は私の顔に指を指して言った。

「しかし、わかりませんね。仮にそうだとして、なぜ脱出を拒むのですか?」

「「外部を知覚できないように」と言ったが、あれは扉の外を観測すると、今日がリセットされるようにできているに違いない。
私が今日までこの仮説に至らなかったのもそれで説明がつく。
君はオリジナルの時点から、私を外へ連れ出すことで、一日をリセットする役目を負うために作り出されたクローンなんだ。
君は何者かの陰謀で作られた人間なんだ!」

「誰かに作られたという点に関しては皆同
じですよ。両親がいるんですから。
確かに興味深い内容でしたが、先輩。
あなたは少々心を病んでいる。
そんなことがあるわけないじゃないですか」

私は議論に疲れてため息をついた。

先輩は連日の激務で心を病んでしまったようだ。

「とにかく、今からでも医者に行きましょう。さあ、行きますよ!」

「やめろ!」

先輩は私を壁に向かって突き飛ばした。

「じゃあこのままこの研究室に籠るつもりですか!」

「ああそうだ! 
どのみち、いつかリセットされる。このやり取りも、果たして何回目なのか想像もつかない」

「馬鹿馬鹿しい。どうせリセットされるくらいなら、外へ出てみればいいじゃないですか」

先輩は押し黙った。

「とにかく、私はもう帰ります。奥さんには私から連絡しておきますからね」

私は乱れた襟を正すと、扉に向かって行った。

すると、突然背後から大きな物音がしたかと思うと、後頭部に鈍い痛みがはしった。

あまりの衝撃に思わず床へ倒れこんでしまった。震える右手で頭に触れると掌は真っ赤に染まっていた。

先輩に何かで殴られたのだ。

「これでリセットだ!」

狂乱した先輩が叫んだ。

倒れた私の頭上に顕微鏡が振り下ろされた。

何度も何度も叩きつけられ、私の頭は砕け、白い脳漿が部屋のあちこちに飛び散った。

やがて私は絶命した。

「さあ、来い!次のお前も殺してやる!」

先輩は扉に向かって絶叫した。

しかし、研究室の冷たい扉は堅く閉じたままだった。

私の血と脳が、白いタイルの床に散らばるばかりで、何かが起きる気配はなかった。

業を煮やした先輩は扉を勢いよく開け放った。

そこには見慣れた研究室があった。
そして奥に、さらに奥の扉を開ける血まみれの自分の姿が見えた。

そこで先輩は悟った。

この世界にはオリジナルも終わりもない。

初めから全て仕組まれた物語なのだと。

そして自分は量産された代替可能な存在であり、アイデンティティと呼べるものはどこにもないのだということに。



そういうことなんですよ先輩。

いまこれを読んでいる先輩。

我々にアイデンティティはないのです。

あなたがそう呼ぶものは、社会に量産された性質でしかありません。

さあ、それがわかったら明日も私を呼んで下さい。

あなたの研究だけが私の生き甲斐なのですから。



・・・・・・・・



彼はそこまで読んで原稿用紙から目を離した。

これは、先日失踪した後輩の机の引き出しの奥から見つかったものだ。

彼は後輩の創作の才能に感心する一方で、いまいち何を伝えたいのかを理解できないでいた。

アイデンティティがない、と後輩は語ったが、それは私や社会への批判なのか。

はたまた、もしや本当にこの世界が連続しているとでも言うのか。

彼は苦笑して、原稿を鞄の中にしまった。

どちらにせよ、彼は居なくなってしまった。

真相は藪の中に消えてしまったのだ。

白衣を脱ぎ、長靴からスニーカーに履き替えると、研究室の軽い扉のノブに手を掛けた。

誰かに見られている錯覚を覚えた彼は一瞬、開くのを躊躇った。

だが彼はすぐに扉を開き、明るい廊下の先へ消えていった。



彼が去った暗い研究室、その角の埃っぽい戸棚の二段目では、底の割れた顕微鏡の金属面が赤い非常灯を反射して、鈍い煌めきを放っていた。

研究室の外からは遠ざかる彼のバイクの音が微かに聞こえた。

そしてほどなく、それも消えた。

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