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戦中幻夜

二階の窓辺にしんとつめたき街の靄を眺め、我はひとり、椿事を待った。

夜の寒さに悴ける手を揉み、素足に板張りの床の冷たさを感じ身震いして、すきま風の音をかすかに聞き、鼻を啜りつ、その瞬間を今か今かとそれを待つておると、やがて我が家の一階の瓦屋根のうへに雪がひらと音もなく落ちてきた。
おやと観察してみると、それは恰も雪のやうに眞白な色の一片の羽根だつた。
しかし耳を澄ませど鳥の啼く声なく、窓の前に屈んで夜空を仰ぎ見てその姿を探せど、そこには漆黒が月明かりにわずかに溶かされて、墨色となつた静かな夜空が広がるばかりだつた。

さうして、その羽根を"姿なき鳥"のものだと我は結論したのである。

その空想の応えと云わんばかりに、階下の小路でぼんやりと灯る街燈りのひとつが、あたかもマジックランタンの如く、靄の中で"きちがひ"ばりに輝きはじめた。

さうして我の瞳のうへへ、矢継ぎ早に、めくるめく幻の数数を写し出しはじめたのである・・・・・・。


・・・・・・空襲警報が鳴つた。
非常灯の赤い光が街を覆つた。
爆弾降る空のした、焼けた人人は逃げ場なく水を求めてあちこち走り惑つていた。

防空壕があつた。
暗い洞穴の奥から朝を待つ大人たちのヒソヒソ声がした。母なき赤子の泣く声がした。喧嘩をする猫の声がした。ミミズクが櫟の枝先で戦争の夜を嘆く声がした。

山間に木霊する汽笛の音は、遠い世界への旅愁を匂わせた。煤煙舞う灰色のプラットホームは集団疎開のただ中で、知らぬ間に幼子連れた夫婦が線路に飛び込み轢死した。
飛び散る肉にため息ついた駅員は、革靴の先で夫婦の首を溝へ蹴つて捨てた。

焼け跡に吹いた風が鳴つて、真言のように聞こえている。
降りしきる黒い雨が炎を諌め、嵐落雷が人人に眠る古代の記憶を熱く焦がした。
そうしてあらたかな自然の神聖を目撃した寺の坊主らは鐘を質に入れて米に変え、仏を溶かして刀に鋳つた。怨敵を殺すべく、僧侶は戒を捨て、刀を携え修羅道を進んでいつた。

平和を愛する蒼白い肌の書生の坊つちやんたちは学寮のまえで整列し、華奢な肩に重い背嚢を背負つて、細い腕の先に銃剣を携えて、書を捨てて、忌まわしき軍歌の内に死の夢を抱いていた。万歳合唱し、青春に散りゆく青年決死隊の彼らの顔のうえにはひとしく恐怖と至上の喜びがあつた。


エキゾチックな異国の藪の中には敵陣に突撃する兵隊たちの姿があつた。
なんと、そこに我の姿もあるではないか!
額から真黒な血をふき出し、ちぎれた脚が飛んでゆき、太陽の光に臓物を晒し死にゆく友人たちと共に、我はおおい笑つてクリスマスソングを謳つて駆けていつた!。

機銃掃射が肩を貫いて、衝撃で上体が大きくのけぞつた。飛び散つた仲間の肉片が身体中に勢ひよくぶつかつた。
それでも、我はただ死めがけて駆けてゆく。

嗚呼、それはなんと悲しき人生でせう。
嗚呼、しかしそれはなんと誉れ高き人生でせう。
嗚呼、さうだ。
この死の夢こそ、悲劇こそ、我の永遠の倦怠を拭い去り、敗北の栄光を約束するアポロンなのでせう。

「突撃ィ!!」

眼前で我らに指示を出していた若い兵隊がそのしなやかで美しい身体を九の字に曲げ、爆弾の炎の中に四散した。

「伍長は立派な兵士でありました!!故郷の恋人もきつと喜んでおられるでせう。ヨシ、我らも逝くぞ!!」

我の隊は彼の死に鼓舞され、一層決起してわあと駆けていつた。
みな勝てないとわかつている敵めがけて勇敢に走つていつた。
敵の戦車の砲身がぴかつと光るかと思うと、すさまじい速さで砲弾が隼のやうに飛んできた。
さあ、来い。
もうすぐだ。
すぐそこだ。
嗚呼お母様、お父様、兄妹、そして我が愛しき戀人よ。
人生半ばで夭逝致しますことを、お国の為と思いどうぞお嘆きなさりませぬやう。
我は貴殿方を御守りするために、魂を日輪の僕とするのです。どうか、我無きあとも凛とし道をお忘れなきやう。そして祖国繁栄の影に散りし、我らが花の勇姿に万雷の拍手を賜りとう存じます。

いざ、逝きます。
我の死はすぐそこに――――――。


――――――「真司!! ごはんよ降りてらっしゃい!!」

・・・・・・一階で煩く喚く母の呼び声に現実に帰つてくると、幻は跡形なく消えていた。
ふとぐるりを見渡せば、我の側には雨をしのぐ屋根があり、風を防ぐ壁があり、温かな寝台があり、書を読むための机があり、お洒落ができるだけの衣服があり、箪笥があり、食べ物があり、薬があり、・・・・・・。
我の生活のうへには安寧があつた。
そこには俗悪も血も臓物も、悲劇も、空腹も、死の恐怖さへない、純白の幸福が、平和の時代があつた。
時局はすでに終戦を迎え久しかつた。

もはやあのやうに我が死ぬことはない。
英雄になることはできない。
優美な死は果たせない。

これからはただ自らのためにのみ生き、一つの細胞が終わるやうな、自己責任の、個人としての、緩慢な、退屈な終わりしか我には約束されていなかつた。

それを知る我はいつも待つていた。
何か世界を根底から覆す椿事を。

しかしそれは結局訪れず、毎夜開く絵本なり、ギリシアの悲劇譚なりの物語の登場人物に没入する一時にしか叶わなかつた。

今日見たあの光景も、所詮はこれまでの空想が高じて生まれた幻に過ぎないことを我はどこかで知つていた。

空想は所詮、我の想像力の産物でしかない。ゆえに、そもそもどういう体験なのか知る術の無い"死"という現象を前にして、我の想像の枝は絶え、夢はいつも不完全なままで終わつて仕舞う。
死そのものこそ我が最も追いかけているものであるのに、シチュエイションが変わるばかりで肝心な結末はいつも御簾の奥に隠されたままなのだ。

ゆえに空想がただの手慰み以上に価値を持たぬことを近頃我は朧気に悟りつつあつた。

空想を空想と認識するこの頭脳さへいなければ、幻を現実と認めるやうな白痴であつたなら、あるいは真にあの夢を味わえるのだらうか?

けれども、悲しいかなこれから年月を経るごとに我は聡明になつてゆく。現実として、やがては夢見ることも難しくなるだらう。
幻を幻と認めつつ望むのは、それが叶わないといふ現実を認めるにひとしい。
成長した己の理性のナイフが感性を引き裂く痛みに、我は耐えられさうもないと思ふ。

我にできることは、椿事に拠つて現実が改変されることを待つことか、己の理性に引き裂かれる痛みに堪えつつ現実のうへに幻を重ねて見るかの二つに一つだつた。

物憂い頭で階段を降り、いつもの食卓についた。
居間のテレビでは、アイドルが下手な歌を歌つていた。
我の座る前では父が気難しい顔で味噌汁を啜つていた。
母は米びつを脇に置いて、我の茶碗に飯をよそつてゐる。
隣の妹は口元にご飯粒をつけて、何が嬉しいのか、しきりに学校のことを話してゐる。

これは幸福と呼ぶべき景色だつた。
きつとこれからも永遠に続くのだらう。

しかし、我にはどうしても幸福の実感がなかつた。
ただ退屈で、本当に取るに足らぬことだつた。
もう、こんな処にしか存在できぬかと思うと、ただどうしやうもなく惨めに思った。
果てしのない絶望にうちひしがれた。

妹の肉つきの良い、真白い肌の二の腕を眺めて思った。
死を運命づけられた集団の、あの典雅な静謐を、覚悟を決めた男たちの横顔と、傷だらけの肉体の美しさを我は一生かけても体験することができないのだ、と。

父と母の顔に浮かぶしみと、皺を眺め、そして食卓に充満する飯の香りを吸い込んで思った。
死を逃した我はひどく生臭ひ、どう仕様もなく重たい生をぶらさげたまま、資本主義の苦役に服する他にないのだ、と。

願わくば、椿事を。いや、またあの幻を。
ずつと戦中幻夜に酔つていたい。
でなければ堪えられない。
こんな世界に生きていたくない。
理性なぞくたばつてしまえばいい!

よそわれた味気ない飯を頬張りながら、障子の間に間に見える満月に、我はひそかに己の頭が本当に狂つて仕舞うことを、いつの日か狂人になることを切に願つた。




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