そこそこ終わっている人間と食事

そこそこ終わっている人間の食生活が完全終了しているということに関しては、以前書きました。しかし、私は、食事をすること自体は好きです。野菜に期待をしていないというだけで。冬場は寒く、夏場は暑いキッチンに滞在する時間が苦痛なだけで。火力の終わったコンロ1つを頼りに料理をするというのが果てしなく面倒なだけで。
食べられない物、というのも、実はそんなにありません。

ただ、昔はそうではありませんでした。私は母から、好き嫌いの多い子というレッテルを貼られ、その通りに生きていたのです。
当時の私には、それに抗うという発想がありませんでした。というか、そんな環境には置かれていませんでした。本当は母に好き嫌いが多く、大変に偏った食卓が展開されていたのです。母は生野菜をそれこそ虫のように食べる人で、私はその生野菜が苦手というだけで好き嫌いが多いといわれ、そう思い込んで過ごしたのでした。ここでも短所思い込みが、ネックとなったわけです。慎重な子どもだったので、外では、
「好き嫌いが多いのに食べられなかったらどうしよう」
という頭が働きます。結果、味の想像がつくもの以外は食べられませんでした。おかげで給食もほとんど残していたことしか覚えていません。勿論、そんな家庭での食事で味への想像力が育つわけもないので、食へのチャレンジ精神は全くない少女時代を生きてしまいました。


そのおかげで、というのもおかしな話な気がしますが、今は食べたことのないものを食べてみたいという欲求が強くあります。そもそも“何でも食べられる奴”と“どこでも寝られる奴”、そして”好きなものが多い奴”がこの世界で1番強いと考えているところがあるので、食べられるものが増えていくのが嬉しくてたまらないのです。
しかし、やはりひとりで食べたことのないものに挑戦するだけの気概はありません。そんなわけで、家では大体が華のない食事となってしまいます。今日も今から名前のない料理を作らなければならないので、本日はこの辺で終了とさせていただきます。

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