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しゃべる、しゃべる、しゃべる。

年をとると、日本人でもそうなるのだろうか。アメリカ人に多い現象なのか。

60代後半のお向かいさん夫婦が引っ越しすることになった。二人とも再婚でex-family(前の結婚から生じた家族。元夫元妻連れ子。)と友好に付き合い続けている。すでに引越し先に住んでいて、住んでいた家も売れている。昨日、最後に残った荷物を引っ越しトラックが取りに来て、その間うちに車を停めさせてほしいと頼まれ、私の用事がすんだら友達もきてるからおしゃべりに寄って、と言われた。

娘と夕食を済ませてから7時半ごろにワイン一本持ってお邪魔した。

おしゃべりな人だというのはわかっていた。すでにお酒が入っていたものあるだろう。でも7時半から10時までの3人会話のうち、99%は彼女一人でしゃべっていた、ってのは許されないだろう。そんなの「会話」じゃない。

屋根裏から出てきた、お父さんの「大学」時代のノート、百年前におばあさんが手作りした「絵本」を見せながらしゃべる、しゃべる。ご主人と二人で台所の改装をした。タイルの選択、カウンターのgranite(御影石)の色。「私の夢を実現させたこのキッチン。心から気に入ってくれる人じゃなかったら、譲れない(売りたくない)の」ギリシャ旅行で買った絵。古いお気に入りレコードのカバーを額に入れたもの。思い出いっぱいで捨てられないと言う。

そういう気持ち、そういう経験は誰にでもある。みんなが共感するトピックなのだから、そこで「会話」になるべきなのに、彼女は一人でしゃべっている。はっきりと発音するし話すスピードも適切だから聞きやすいけれど、息もつかずにだらだらとしゃべるから、こちらが一言はさむ余地がまるでない。あんまり話が長いから、途中でさえぎって質問したら、(これからそれを話すから)と手でストップかけられてしまった。話に区切りがつく瞬間があれば、それじゃあそろそろ失礼するね、と言い出せるのにそんな瞬間もない。

彼女に限った話ではなく、こういう人が驚くほどよくいる。

まるで自分を客観的に見れていない。自分だけがしゃべっているという現象に気づいているのかいないのか。気づいていても、知ったことかとしゃべり続けているのか。私には到底理解できない。

一般素養、教養がない、と思ってしまう。教養というのは大学に行けば身につくというものではない。生まれつきの頭が悪いのか。ちゃんと躾けられて育たなかったのか。夫や娘に対してもこうやってしゃべりまくるのだろうか。それとも家族がしゃべらせてくれないから、他人相手にしゃべりまくるのか。

いちいち話が長い、というのもある。さわりだけまず話して、相手の反応をみて、続けるかどうかという判断をするということがない。他人にとってはどうでもいいことだってあるのだ。そういう他人に対する「気遣い」がまるでない。要するに、自己中だ。

日本人の私は聞き上手だから、よくこういう人につかまってしまう。アメリカにはいろんな人がいるから、どんな価値観でどんな生活をしているのか、どんな人生を歩んできたのか興味がある。私が私という人に会ったら、どうして日本からアメリカにきたのか、から始まって、日本のこと、アメリカと日本の違い、アジア諸国に旅行したことはあるのかとか、いろんなことを私に聞きたい。なのに、聞かれたことがない。

お隣さんは英国人。50代のこの奥さんもしゃべる。彼女の人生も興味深い。中学から寄宿学校に入れられ、ご主人の仕事でドイツ、スイス、東南アジア、日本、アメリカ国内各地に住んだ経験がある。趣味の乗馬は週に一度。Pilatesで体を鍛えているし、うちと同じサイズの家なのにお掃除の人を雇わずに自分で掃除。床にタイルを貼ったり、壁紙の扱いやペンキ塗りもお手のモノ。夫が出ていってから、彼女には色々助けてもらった。

彼女もしゃべる。もう一人の隣人と3人で食事した時がすごかった。私ともう一人が持ち込むトピックのすべてを自分のものにしてしまう。あれも見事な技だと思わず呆れ感心してしまう。でもやっぱりいちおう家族以外の人との場で、自分の言動をまるで客観的に見れないのは社会人としてどうかと思う。この国にはそういう人が多すぎる。

誰だって話したい、自分の話を聞いてもらいたい。自分が得意にしていること楽しんでいること、最近見聞き知ったこと、ちょっと分からなくて気になっていること....。もしかして、彼女たちにもしゃべりまくる友達がいて、自分がしゃべる機会がないから、私に会う時にはそら自分の番がきたっと喜び勇んでしゃべりまくる、ということなのだろうか。

自分が嫌だと感じることは、人にはしない。他人の立場に立ってものを考えるように。私はそう教えられて育った。子供たちにもそう教えて育てたが、アメリカと日本は違うから、ものには限度があり、自分の領域を侵されないように、自分の我慢の限界は死守するように、とも言ってある。その辺のバランス感覚がうまく育ってくれているといいな、とつくづく思う。






ただただ好きで書いています。書いてお金をもらうようになったら、純粋に好きで書くのとは違ってくるのでしょうか。