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バイリンガル読書。(2)

高校生になると、学業と大学受験準備で忙しくなり、小さい頃たくさん本を読んでいた子の読書時間が激減する。Englishのクラスで自分の好きな本を自由に読める"free reading time"があるけれど焼け石に水。

ムスコの高校時代に、私は彼が中学時代に読んだ本を読みまくり、Percy Jacksonに惚れた。黒髪に碧眼。お父ちゃんは海の神ポセイドン、人間のお母ちゃんとの合いの子なのだが、Percyは知らないで問題児として育つ。Camp Half Bloodで、ポセイドンが自分の子だと認め宣言するシーンが感動的である。このシリーズを口に泡吹いて夢中になって読み、ムスコはその頃までに全シリーズを5回は読んでいたから、私があるシーンについて言及するとその詳細まで明確に覚えていて、二人で会話が盛り上がる。それがたまらなく楽しい。読書には語り合う相手が必要だ。読み終わって数年たったが、「またPercyに会いたくなってきたよ」というと「また読めばいい。だから僕は何度も読むんだ」ギリシャの神々の個性や能力が色鮮やかに描かれ、神なのに妙に人間臭くて、それがたまらない。

彼の好きなHarry Potterも読み始めたが、まだシリーズ3冊で止まっている。私はやっぱりPercyの方が好きだ。そしてこのPercyとの出会いが、今の私のギリシャ神話、さらにアレキサンダー大王から古代ローマへの興味へとつながっている。

そのうち、子供たちが高校で読む本は日本で一般教養として見聞きした数々の名著であることに気づいた私は、読めるかなと不安を抱えながらも挑戦することにした。....すると....読めるんですってば。あの頃の、英語の本が読めない劣等感に囚われる必要はもうなくなった。奥深くまで理解しているという自信はないけれど、受験問題を解くわけでなし、今の私が読んで感じたこと思ったことを大事にすればいいと納得して片っぱしから読んだ。Goodreadsに記録し感想を書き残す。子供たちに授業でどういう議論をしたかを聞く。私の記憶も同じだけれど、一文を解剖し尽くすあの国語の授業方式を思うに「もう本について話したくない」という彼らの気持ちはわからなくもない。

子供たちは二人とも「ライ麦畑」の良さはまるでわからず、ムスコは「カッコーの巣」ムスメはArthur Millerの"The Crucible(るつぼ)"に良い印象をもった。戯曲のThe Crucibleは、さっぱり登場人物の本心が読めず、わからなくてムスメに聞いたら「ママ、全然わかってない!私なんて2ヶ月くらいかけて読んだんだよ。薄い本だからって数日で読んで、わかるわけないじゃない!」とひどく怒られた。しょぼん。コーネル大学の大学院で英文学を学んだ友人に話すと、Millerの作品は読んだ時の年齢によってその時までの人生経験によって、いかようにも解釈できて、それが役者にとっての挑戦でもあり、だから素晴らしい戯曲なのだと説明してくれた。「でも確かに数日で読んでわかる本じゃないですね」そりゃそうだけどさ。再びしょぼん。"Death of a Salesman"なんて、高校生にはただ陰気で絶望的な小説としか印象に残らないようだが、私にはシーンの一つ一つの細部まで目に浮かび、そのシーンを息を呑んで見守る気分で読んだ。

本を読む前に映画を見るのは私的にはご法度だし、映画を見てから本は読みたくないけれど「カッコーの巣」の映画の出来は素晴らしいらしく、高校の授業でも最後に映画をみるというので、いずれと思っている。"Money Ball"はBrad Pittの映画で、大ファンな私は先に映画を見た後に、本があることを知った。その内容の深さに衝撃を受け、どんなにBrad Pittが好きでもだめだよ映画を先に見ちゃ、本の方を読まなきゃとやっぱり思った。著者のMichael Lewisが、かの"Liar's Poker"や"The Blind Side"も書いたと知ってさらに驚く。それ以来、新しい映画の予告が出ると、まず原作を探す。英会話を学ぶために土日とも映画館にこもり一日で3本立て続けてに見た私が、最後に映画を見たのはいつだろう、というくらい見なくなってしまった。

(続)


ただただ好きで書いています。書いてお金をもらうようになったら、純粋に好きで書くのとは違ってくるのでしょうか。