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バイリンガル読書。(1)

小さい頃から本がスキだ。特に歴史小説。司馬遼太郎と池波正太郎はお決まりの好きな作家で、私のAcura MDXには「柳生十兵衛」とフルネームがついている。

二十数年前にアメリカにきた時、英会話もカタコトだったし英語の本ところか書類を読むのはほんとうに一苦労だった。日本語で読めるのと同じレベルの英語の本が読めないことに苛立ち、かといって日本語の本を読んでいては英語が学べないという苦悩の中で、私は両言語の読書を捨てた。まず英会話に集中し、TVと映画にまみれ日本語をいっさい使わず順調に上達した。数年後にビジネススクールでMBAを取得する中、アメリカ人はじめ世界中の国々出身の仲間と一緒に勉強したことで、読むことも話すことも書くことにも自信がついた。

子供が生まれて、私は子供たちには本をすきになって欲しかったからせっせと絵本を読んできかせたし、一人で読めるようになってからは欲しいといわれるままに本を与えた。二人とも気に入った本があると私にも読んでくれと言った。ムスコの方がムスメよりも断然読書家だったけれど、彼がすきなジャンルが当時の私のレベルと噛み合わなかったか、彼が中学生の頃はいわれれば読んだけれどそれが私の読書熱を呼び戻しはしなかった。

ムスメはあまり読む方ではないが、気に入った本があると強く薦める傾向がある。"Flowers for Algernon (アルジャーノンに花束を)”が最初の一冊だった。「ママ、絶対に読むといい。読んで欲しいの。」要点とあらすじを上手に熱心に説明してくれたので読む気になった。あんな昔に書かれたとは思えないほど現代に通じる素晴らしい一冊だった。そして授業で使ったGoodreadsという読書アプリも、私の「記録魔」の部分に響き、このふたつが私の読書リバイバルの点火力になった。

アメリカの学校の一年は9月に始まる。数週間すると、Back to School Nightといって親が学校に呼ばれて子供と同じスケジュールで教室から教室へと移動し各教科の先生に会ってカリキュラムの説明を受ける日がある。Englishのクラスでは今年はこういう本を読みます、という話になるから、ふむふむとメモをとってムスメが読むタイミングで一緒に読む。中学の時はまだそうでもないが高校になったらまるで日本では枕草子や源氏物語であるようにシェークスピアやオデッセイが当然のように出てくる。夏目漱石のようにスタインベックが出てきて、「雪国」や「檸檬」のように"The Catcher in the Rye"(ライ麦畑でつかまえて)や"One Flew Over the Cuckoo's Nest”(カッコーの巣の上で)なんかを読む。

中学の頃に読む本は、同じ年齢の子が主人公で、家族問題や友達問題、発達障害そして最近ではLGBTQ系の苦悩があってそれを乗り越えていく系の小説が多い。その中で親や友達がどう関わるか、それが子供にとって適切かそれとも見当はずれか、と描かれていて、親である私にはとてもおもしろい。子供がどういう親だったらどこまで話すか、なんかもわかる。一見仲のいい友達が実は嫌な子で、親の知らないところでいじめがあったりする。読みながら、これって子供だけじゃなくて親も読むべきじゃない?と思った本が何冊もある。私はアメリカの学校で育ってないから、とりわけ子供がこんな学校環境にいるのか、と驚いたし文字通り勉強になった。

そのうち中学生向けの本では物足りなくなり、高校生向けの本に移行した。日本と違うのは、教科書に載っている抜粋を読むのではなく、本一冊を教科書とは別に与えられて、宿題で数章分ずつ読み(読まない子も当然いる)授業で議論する。一年に7-8冊ほど読むだろうか。「授業では幅広いジャンルの本を読むので、家ではどんなジャンルでもいいですから好きな本を読ませてください」と中学の先生も高校の先生も言うので、ムスコがHarry PotterだのThe Lord of the Rings, Percy Jacksonシリーズを何度も何度も読むのも、ムスメが恋愛ものばかり読むのもほおっておいた。

続。


ただただ好きで書いています。書いてお金をもらうようになったら、純粋に好きで書くのとは違ってくるのでしょうか。