目的達成に向かう行動基準が「そうあるべき正しさ」ではなく「自分が望むもの」になっている。
アメリカに住んで20年以上になるが、長いこと違和感のあったモノの正体がようやく形を成してきて、言葉で説明できるようになった。
アメリカは権利主張、個人主張の国だ。一見、世界のため、人類のために主張し活動しているように見えるが、「自分が恩恵を受ける」ことのできるゴールに向かって頑張っているに過ぎない。もちろん全員がそうだというのではないが、そういう人がほとんどだと思う。
学校関係、子供のスポーツクラブ関係。親は自分の子供の「提唱者」として学校にコーチに、進言する。「そのようなやり方は間違っている」「そうではなくて、こうあるべきだ」という主張ではなく、「自分の子供にとって不公平だ」という視点から始まる進言でしかない。
ただの小うるさい親ドモ、である。
言い換えれば、モノゴトがいかに間違っていても、自分の子供に直接の影響がない限り声をあげない、ことになる。
ちょっと考えてみてほしい。自分にとって不利だから不都合だからと声を上げるのは、自分のためでしかない。自己中心的な行為だから、私なら恥ずかしいと感じる。自分には何の不利益もないけれど、チームにとって社会にとって正しくない姿、あってはならない姿だと指摘し、変えていかなきゃいけない、と主張する場合、自己利益に基づいていない行為だからこそ、人は耳を傾けるのだ、と私は思う。
アメリカ人は、自分に関係がないのなら黙っていろ、という。
程度の差こそあれ、人間ならそういう傾向があるだろう。そして26歳の時に日本を離れた私が日本で社会人として暮らしたのは数年で、日本で子供を育てていない。だから私の美的正義感覚に合わないアメリカ人の行動に出くわすと、ちっアメリカ人だから、とつい思ってしまう可能性はある。それでも、あまりにも「自分の利害」のために、というのがあからさまなのだ。
ムスメの水泳コーチがしくじったことがある。同じ週末に二つのミートがあると発表した。
コーチが優先したいミートは、遠征。プールが汚い。決勝のみ。種目スケジュール不明。速いスイマーが多い。
もう一つのミートは、この近辺。予選決勝式。
とりあえず両方に登録しておいて競技種目スケジュールが発表になってから、最終的にどちらかを選べばいいとほとんどの親が思った。1日ずつどちらのミートにも行けばいいと思った親すらいた。この競技種目スケジュールは結構重要だ。泳ぎたい種目が立て続けに並んでいたら、十分な休憩が取れず、結果が出せない。
あまりに情報が足りないから、スイマーたちは直接コーチにどちらのミートに行くべきかと相談し始め、コーチはスイマー次第では特例扱いをした。親はそういう情報を他の親と共有する。
期日が近づくにつれて、コーチが「優先したい」ミートを続々とキャンセルする家族が出てきたので、コーチは慌てた。そして競技種目も発表になっていないのに「これ以上の変更は禁止」とやってしまったから大勢の親が怒った。あの子は変更してもらえたのに、なんでうちの子はダメなのか、と親たちの怒りが爆発した。
彼は想定しうる結果を考え切らずに行動することが多く、後になってにっちもさっちも行かなくなる。これも典型的なソレだ。
ムスメは「あのプールでは泳ぎたくない」と最初からキッパリと、コーチが優先しない方のミートを選んでいたから、私たちにはまるで影響がなかった。が、その後の騒動を見ていた私は、最初から明確に登録ルールを説明せず、種目スケジュールがわからないのにどちらかのミートを選べというのは無理難題だ、と進言した。
おそらく多くの親の怒り不満メールに対応していたであろう彼は、怒ったような返事を書いてきて、そこには捨て台詞のように、私の娘がどうしたいのか、ミートを変更したいのか、と聞いてきたから私はびっくりした。私は自分のムスメの利害で進言したのではない、親の立場に立てば今回のようなやり方では問題が生じる、ということを指摘しているのだと返事した。
どの親も自分の子供の「提唱者」としてだけ行動する、と彼は思っているわけだから、私の意図がまるで伝わらない。
そして、チームのトップスイマーの親も、もちろん何も言わない。彼女の娘には何の影響もないからだ。
親はボランティアに精を出してチームの運営に協力する。聞こえはいいのだが、これも所詮はボランティアすることで、いざという時に自分の子供に都合をつけてもらえることを期待しているに過ぎないとも言える。
こういう社会では、個人利益ではなく全体利益を考えて主張行動すると、余計なお節介とみられる。最低限のボランティアはするけれど、私はそれ以上に関わることをやめにした。
ウクライナ戦争への世界各国関わりがまさにコレと同じ図ではないか。ルールを一切無視して個人利益でウクライナに侵攻したプーチン。ウクライナに軍事支援をするだけの国益がないと、経済制裁と制限的軍事援助に止まる世界諸国。ウクライナ国民が処刑スタイルで殺され続けている。が、この場合の「全体利益」が核戦争を引き起こさないこと、だと定義したら、個人利益で行動していないということになるのだろうか。
いや、そうではないだろう。核戦争を言い訳にそれぞれの国益を優先しているようにしか見えない。のちにロシア人が真実を知った時、ウクライナを見つめる我々の目の前で、一つの国と国民がこの世から全滅した時(全滅しなかったとしても)我々は、同胞人類として行動しなかった事実とその結果を前に、その後の人生を、人類史をどう生きていくのだろう。
ただただ好きで書いています。書いてお金をもらうようになったら、純粋に好きで書くのとは違ってくるのでしょうか。