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時空とか距離を超えた、わたしとあなたの関係。

先日、ボストンから友達が一泊で遊びに来た。この前来た西海岸の彼女と同様、当時の私の「ウェブ日記」の読者。

そういう距離や時空を超えた不思議な出会いから始まった関係が、距離や時空を超えてよく続いている。

たぶん。私はいつも自分をさらけだすような文章を書いてきたから、相手は私のことをよくわかってくれてるという安心感だろうか。あそこまで自分を見せたのに、そんな私を好いてくれているという安心感。私の考え方に同感する人たち、である。

それは。ひっくり返せば、彼らも私のことをよくわかった上で、私と友達でいたいと思ってくれている、ということ。

不特定多数の人たちに向けて匿名で書いてるわけだけど、どれだけ「スキ」がついたかとか、実はあんまり私は気にしていない。

スキの数じゃなくて、誰が、どういう人がスキを押してくれてるかのほうが大事。
「フォロー」も同じ。フォローされていても読んでもらえてなければ、私にとってなんの意味もない。

本書けばいいのにってよく言われるけれど、そんなセンスとか筆力があるかどうかは別にして、なにせ締め切りに追われて書くというのが嫌いだから、そんなつもりはまるでないし、お金がからむと書くことが義務になって楽しくなくなるような気がする。

私の文章スタイルが好きとか、今日はなにがあったんだろうとか、そんな風に考えるんだなぁとか、私に「ハマって」くれる人がいたら、それでいい。それがいい。由。さん、よく笑ってるなぁとか、また怒ってるよとか。

私にとって書くっていう作業は、まず「吐き出して」自分の頭の中を整理して、次に整理した思考を共有したい、ということだと思っている。

そういうモードに入ったときに "Calm down" と言う奴がいるが、それ以上に不適切で最悪な言葉のかけ方はこの世に存在しない。落ち着けって言われて、落ち着くとでも思っているのだろうか。吐き出すという作業を途中で遮られたら、怒りは倍増する。怒っている対象への怒りに加えて、落ち着け、なんて言う奴への怒りも発生するから、手がつけられなくなる。

二人の子供たちも同意。

うちの子供たちは、私が大文字で F-word 連発の怒テキストを送ると、すぐには返事をしない。私が落ち着く頃を見計らってなのか、ちょっとしてからウンとかスンとかシンプルな返事がくる。そのタイミングたるや。もうその頃には私は note の下書きを書き始めてるか、頭がぐわーっと整理されて自分の中でほぼ決着がついている。

この件をムスコと話したのだが、怒っているときもあるけれど、自分の「こだわり」の部分を語るうちに熱が入って興奮してくる、ということも多い。ムスコがそのモードに入ると、私は黙って聞く。吐き出させているというよりも、私はただただ彼の思考回路が言語化されているのを楽しんでいる。たまに合いの手を入れるように質問すると、更に興奮して加熱する。

大抵、ムスメにとってはどうでもいいことだから、「黙ってればそのうち終わるのに、ママが余計な事言うから延々と続く」などと言う。そういうムスメも、うわーっとまくしたてる。私が口をはさむと(そんなことは言われなくてもわかってる)と言わんばかりの表情を見せるから、(そうだそうだ、ただ聞いてればいいんだった)と思う。

8月半ばにムスメを大学に入寮させて、ムスコと二人でここに戻ってきて二泊してから彼はボストンに帰っていったのだが、向かいあって夕食を食べてるとき、私はなにか小さなことに怒って興奮してしゃべっていた。ムスコは黙って聞いていたのだが、そのうち「ママは、そういう小さいことによくそこまで燃えるよなぁ」と笑いを噛み殺しながら言った。

そんな彼の表情をみて、思わず笑ってしまった。

いつのまにか、私と子供たちは同じように興奮や怒りを言葉にして、お互いにそれを受け入れるようになったらしい。

考えてみると、日本とアメリカの文化の違いからくる苛立ちや発見はアメリカ人である(でしかない)Ex. に話してもわかってもらえず相手にされないことが多かったように思う。だから私は怒りのはけ口を求め、理解されたいという想いを込めて、書き続けたのかもしれない。

生きている限り、私は観察し、感じて、考え続ける。
それを友達や子供たちに向かって言葉にする。
が。音として消えていく言葉と、形として残る文字。
書き直せる文字と、なんども言い直せない言葉。

きっと。まず言葉にする。
そして。文字にして、あなたに読んでもらう。
時空とか距離を超えて。



ただただ好きで書いています。書いてお金をもらうようになったら、純粋に好きで書くのとは違ってくるのでしょうか。