見出し画像

息子に対して、母である私が思うこと。

ムスコには手をやいた。初めての子で、ADHDであることが保育園のときから保育士さんの目には明確で、幼稚園の時に診断が出た。

さんざん泣かされた。医者の前でも泣いた。
ほんとに辛かった。
幼稚園でも小学校でも中学校でも先生からしょっちゅう呼び出されて文句を言われ、ひたすら頭をさげて協力した。母親の私が学校嫌いになった。
学校でも放課後のサッカーの練習でも、衝動的な行動が問題にならないように複数の薬の組み合わせやタイミングを調整をするのは私の役目だった。
そして、医者に「他の親御さんたちに講義してもらいたい」と言われるレベルまで極めた。

でも。「大丈夫。高校さえ無事に卒業すれば、大学や会社なら問題じゃなくなるから大丈夫」と、泣いている私にテイッシュを差し出した医者が言った通り、高校生くらいからだんだん落ち着きがでてきて、薬も徐々に減らして、23歳になるムスコはあと一息で薬から卒業する。

賢い、温かい、優しい、しっかりした男の子に育った。
ADHDにありがちな「先延ばし」にする癖もつかず、なんでもさっさと片付ける。

今できることは今やってしまいなさい。新しくやらなければならないことが、明日追加されるかもしれないんだから。

口を酸っぱくして言い続けた。

整理整頓が大好きで、キレイ好き。記憶力抜群。
話題が豊富で、誰とでも会話ができるのは、私に似ている。

どんな知識もムダになることはないのよ。人生には思いがけない出会いが待っていて、何か些細な会話がきっかけで関係が始まることがあるんだよ。

でも。ポケモンの進化過程だけは、アレだけは、ムダな知識だと思う。

中学3年生のときの理科の先生にとことん嫌われて、高校のコース選択で生物の特進コースに推薦してもらえなかった。絶対に理系に進む子だというのは明白すぎるほど明白だったから、私は先生の推薦を無視して直接学校区と高校に特進コースを申請した。成績が悪ければ普通コースに落とされるし、一度落とされたら、二度と特進コースには戻してもらえない。

生物も化学も物理もそのまま特進コースで進み、大学では生物工学専攻。
あの先生に、修士号の卒業証書を送りつけてやりたい。

そのムスコの就職が決まった。

6月には卒業していたのに、すぐにでも働いてほしいというオファーを断って、 Katyaと、そのあと父親とヨーロッパ旅行に行ってからでなければ働き始めないというあたりが、ちょっとボンボンだと思う。

が。そんな休暇はこれからしばらくはとれなくなるから、わからなくもない。

大学3年のインターンシップで得たスキルがニッチで、4年の時のインターンシップは会社のほうからアプローチされたのだが、修士を一年でとったあとの就職も、それが決めてだったらしい。

アメリカの労働市場は、コロナ禍で一気に収縮し、ロックダウンがゆるやかに解除された時には、もどってくると当てにしていた労働人口が減ってしまっていて、求職に対して二倍の募集があったそうだが、去年あたりからかなり就職転職困難な状況が続いている。大学生はインターンシップ先が見つからない。卒業しても就職先が見つからないから、修士博士に進まざるを得ない。修士号をとって、なんでそんな給料で雇われているの?!というようなケースもある。

5年間お小遣いをやりくりしたムスコは生活費にいくらかかるかをしっかり把握しているから、年収最低限いくら必要というのがわかっていた。そうやって選んでるからいつまでも決まらないんだ、とムスメは白けて見ていたが、経済的自立なしに真の独立なし、と唱え続けていた私の声が聞こえていたに違いない。

大学に入って一日中オヤツを食べまくっていた彼は、あるときオヤツにかかる経費の膨大さにおののき、こんなんじゃやっていけないと思って、オヤツを食べずに済む体にすべく、胃袋縮小作戦にでたそうな。まさに、私のムスコである。

経済的な理由であるところが、年齢相応でいいと母は思う。

旅行から戻って本格的に就職活動を始めたが、最悪の場合にあてにしていた職の空きが案の定なくなっていて、彼は就職市場の厳しさに直面する。インターンシップでつくったコネをいくら使っても、面接に呼ばれない。採用枠がないらしい。

ところが。ある日、リクルーターから連絡があって、すぐに面接。1週間以内に、一緒に働くことになる4名と30分ずつの面接に呼ばれ、感触がよかったので、これで採用されなかったら人間不信になる、と言っていたら、翌日に採用の連絡がきた。やはりニッチなスキルのおかげだった。

その採用通知を受けて、次の瞬間には私に報告してきた。誰よりも先に。


通勤に車が必要になって、先日二泊で取りにきた。基本は家でまったり。私の手料理と、"The Hobbit" 三部作と、"Spy x Family"の第一話。1時間ほど森の中を散歩。

ムスメとは違って、ずーっと一緒にいてずーっとしゃべっていられるから不思議。おそらく、ムスメよりも大人というか寛容で、いちいち私の言うことにピリピリと反応しないってことだろう。話題は尽きないし、ムスメみたいな食制限(乳糖不耐症とか豚肉食べないとか)がないから料理も楽。

ムスコが私に聞くこと、つまり「これどうするの?」みたいなことは、ムスメなら自分で調べてしまう。ムスメはそれを自立の一つだと思ってるのに対し、ムスコはママが知ってるんだったら教えてもらえばいいだけのこと、というような肩ひじ張った感じがない感じ。別の州に住んでいて車の登録プロセスなんかは州ごとに少しずつ違うので、サイトで調べるようにと言っておしまいにする。調べてあげることはしない。

そして。二人で昔を振り返った。
「何度同じことを言っても全然効果なかったけれど、あれってわざと無視してたの?」
「いや、毎朝学校いくときに『今日は怒られないようにちゃんとしよう』って思ってるんだけど、その肝心な瞬間にやっちゃうんだよ」

つまり。まさにADHDの衝動行為である。
かわいそうだったなぁと思うと同時に、私もほんと辛かったんだよ、と思う。

10歳くらいのとき、なにがあったのかまでは覚えてないが、ひどくひっぱたいたことがある。私はものすごく怒っていて、彼が抵抗できないくらい叩いた。翌朝、顔が腫れ上がって、ギョッとして、それでも私は謝らず、学校に送り出した。友達に聞かれて「ぶつかった」というような言い訳をしたらしい。担任から連絡があってもおかしくなかったと思う。

「あの件だけは、今でも心が痛む」と初めてムスコに謝った。ムスコは全然記憶にないといい、「そこまでママが怒るほど悪いことをしたんだろう」と笑って両腕を広げ、私を抱きしめてくれた。

二人でこんな会話をすることができて、ほんとによかった。

それにしても。彼らのもつ「私に怒られた」記憶と、私のもつ「私が怒った」記憶は一致しないことが多い。私が「後悔している」記憶を、彼らは共有していない。だから、気になっていることがあれば、さっさと謝ればいいし、謝ったほうがいいようだ。

そういえば。
私が小さい頃から恨み続けていると思いこんでいる母が言ったこと。

「死ぬ前に、あなたに謝らなければならないと思っているけれど、まだ謝れない」「あなたが生まれて、自分の自由を奪われたと感じて、可愛いと思えなかった」でも二人目の弟のときはもう育児に慣れていたから、べちゃべちゃにかわいがったのだという。

今それを私に向かって言う意味と意図は一体なんだろう。謝らなきゃいけないと思うのなら、謝ればいいではないか。

こういうところが、うちの母はとことん変なのである。

子育ての後悔は親であれば、必ずある。でも、それは子供を巻き込んで、「許し」を求めるようなことではなく、子供が「許す」ようなことでもなく、親である自分が抱えて生きるしかないと思う。が、その過程で「謝りたい」「謝るべきだ」と思うのなら、謝ればいい。まっすぐに謝れば、子供は受け止めてくれる。


"I am so fulfilled as a mom." 

ボストンに車で帰っていくムスコに向かって、思わず言った。

よくこんなにいい子に育ってくれた。もう心配ない。

私は母艦で、私にとって子どもたちはいつも海に向かって世界に向かって開いている港だし、彼らにとっても私は港で、世界中の海を航海する彼らが帰ってくる場所だと思う。家族だなぁ、と思う。




ただただ好きで書いています。書いてお金をもらうようになったら、純粋に好きで書くのとは違ってくるのでしょうか。