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社会人二年目にはじめての後輩ができた話

 五月病も鳴りを潜め、この春に社会人となった人は、ほんのすこしだけ仕事に慣れてきた頃だと思う。
 そんなことを考えていたらぼくも、新人時代のことを思い出した。
 といっても新卒一年目のことじゃない。初めて直属の後輩ができた二年目のことだ。

「……一日も早く仕事に慣れていきたいと思います。ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします!」

 どこかのサイトか教本に載っていそうなテンプレ挨拶をしたその新入社員は、県外の四大を卒業したばかりの女の子だった。

 ぼくは学生時代、万年帰宅部で、機械的に配置された委員会にも一度も顔を出さなかった。個別指導塾のアルバイトも管理の社員さん以外のメンバーと関わり合うことがなかった(いま思えば他のアルバイト同士は交流があったように思うけれど、そこを掘り下げると辛くなるので考えないことにする)。

 だからぼくにとって、その子が人生ではじめて、自分が関わり合いをもつ「後輩」となった。

 それは突然、上司から告げられた。

「あー、新人くぅん。君、あの子の教育係ね」
「私ですか!?」

「新人くん」というのは、まあ、当時のぼくのあだ名みたいなものだ。ぼくより上の先輩がたとは十個ちかく歳が離れていたので、いつまで経ってもペーペーに見えたのだろう。だから先輩がたの間では、二年目の当時でもまだ、その呼び名が使われていた。ぼくが苗字を呼んでもらえるようになるまでさらに数年かかるのだけど……それはまた別の話だ。

 とにかく、ぼくは新人の女性の教育係、ということになってしまったのだった。『新人くん』が新人教育なんてややこしい話だが、ぼくのせいじゃない。

 さて、右も左もわからない四月、学生生活とのギャップに苦しむ五月、雨続きで出勤が億劫になる六月……と、彼女は無断欠勤はもちろん病欠もなく出勤を続けていた。彼女は、彼女なりに一生懸命やっていたと思う。

 なにを教えても一発で覚えるどころか、その先まで見越して自分から動いていた……ということはなかった。なかったが、ぼくの拙い説明にも真剣な顔でメモを取り、わからないことは積極的に質問してくる。いつも明るく元気で、ボクに対してはややくだけてはいるものの、敬語も使っていた。あらゆることを一発で、というわけじゃないけれど、普通に物覚えも良いほうだったと思う。

 もちろん失敗もした。教わったことがすっぽり抜けてしまっていたり、間違った覚え方をしていたり。でも、職場の根幹を揺るがすほどの大きな失敗はないのでどうとでもなった(新卒一年目にそんな仕事を任せるわけがないのでまあ当たり前だが)。
そう。彼女は普通に、望ましい水準を満たした社員だった。

 そして彼女の教育係の役目を仰せつかったぼくはといえば――彼女にはそう見せないように努力していたが――ぼくもぼくなりに一生懸命だった。
 そもそもの話、ぼく自身が新卒二年目で、自分のやるべきことを必死で覚えながらなんとか仕事っぽいことをしている段階だ。
 そんなぼくが人生はじめて、自分と関係性を持った後輩の教育係に任命されたのである。
 しかも、女性だ。男子校出身で異性に免疫のないぼくが、女子後輩(造語)の教育などうまくできるわけがないじゃあないか。

 ……などと言い訳を積み重ねても教育係の大役は覆ることはない。会社は非情である。まあ、ぼくらが勤めていたのは従業員数のごくごく少ない中小企業だったから、みんな余裕がなかったのだ。「去年教わったことをそのまま教えてあげればそれでいいから」なんて言われてぼくが断ったら、「あなたに教わったことはろくに覚えてません」というのと同義だ。気の小さいぼくに、面と向かってそんなこと言えるはずがなかった。

 ただ間違ったことを教えてしまうのはマズいという発想は幸いにして当時のぼくにもあったから、教えたことと、これから教えることを項目ごとに先輩に共有するようにさせてもらった。これでもしなにかあったら先輩にも飛び火するぜ、などと黒いことを考えていたのは秘密だ。

 さてそんなわけで、いろいろと騙し騙し始まった彼女との先輩後輩関係だが、それはあくまで職場内だけの関係だった。
 始業時に顔を合わせ、自分の仕事をしながら彼女に仕事を教え、先に退社する彼女を見送り、溜まった作業をする。そんな毎日だ。
 世間では会社の先輩というと、後輩を飲みに連れていったり、そこの代金を奢ったりしているのではないだろうか? たぶん。知らないけど。

 先に述べたように部活動の経験がないせいか、それとも元来の人間性の問題か……とにかく、先輩だから敬う、みたいな感覚がぼくには欠如していたのだ(三十歳をこえたいまではそういうものだ、と理解してはいるが、感覚的には未だによくわからない)。
 だから(?)ごく稀にぼくが先輩から食事や飲みに誘われても平気な顔で断っていた。それが失礼なことだという感覚はなかったのだ(ぼくなんかと一緒に行っても絶対楽しくないのに声をかけてくれていい人だなあとは思っていた)。

 そんなぼくが、はじめての後輩を食事や飲みに誘うだろうか? 答えは当然否である。
 彼女が女性だったのもよくない。いくら後輩とはいえ年頃の男が女性を食事や飲みに誘うなんて、なんというかその、下心があるみたいではないか。いやぼくは聖人君子でも悟った賢者でもない。下心が無いわけじゃあない。むしろ売るほどあった。たぶんAmazonの倉庫がいっぱいになるくらい。

 でも、下心があったからこそ、それを悟られるのは絶対に避けたかった。下手に誘ってみて、うわ、こいつ下心がミエミエだよ……なんて思われたら死ぬ。死ぬしかない。そう思っていた。


 そんなぼくらの関係性にも転機が訪れた。
 それは、しぶとい残暑も秋雨とともにようやく去って、肌寒さを覚えはじめる時期だった。転機と天気をかけているわけじゃないよ、念のため。

 えーと。そのときぼくは職場で取得が推奨……というか事実上強制されていた、十一月の「日商簿記三級」の資格試験に向けて勉強をしていた。
 文系とはいえ、文学専攻だったぼくにとって簿記や会計は見知らぬ他人だ。ハードルも高かった。
 とはいえ実をいえば、日商簿記三級の勉強をするのははじめてではなかった。大学時代に一度、気まぐれに受け、ものの見事に落ちた苦い経験があった。

 だからこそぼくは、簿記三級の難易度を十分に認識していた。ネットでは簡単、高校生でも受かるなどと書かれているが、舐めていると普通に落ちるということを身をもって知っていたのである。今度こそ落ちるわけにはいかないと、自ずと勉強にも力が入るというものだ。
 しかしながら帰宅すると誘惑が多く、意志の弱いぼくは机に臨むことが難しかった。だからほんとうはダメなんだけれど、上司に許可を取って、十月の初めくらいから職場に残ってデスクで勉強をしていた(もちろん残業代は出ない)。

「あれっ、先輩。まだいらっしゃったんですね」

 フロアに響いた声に顔を上げれば、件の後輩がきょとんとした顔を浮かべていた。
 その日はたまたま、ぼく以外の同僚がみな退社していて、ぼく一人が残っていた。上司もある程度遅くまで残っていたのだけど、ぼくが仕事で最後の一人になるまで残ることも多かったので「施錠して帰りますよ」と伝えれば悪いね、よろしくと言い残して帰っていった。

 そっちこそ、こんな時間にどうしたのか聞けば、スマホがないことに気づいて慌てて戻ってきたらしい。不要な蛍光灯を消していたせいでやや薄暗いフロア、自席でごそごそやっていた彼女は「あった」と小さく声を上げた。

「帰りに落としたとかじゃなくてよかったね」
「いやほんとにそうです。あ~よかったぁ~」

 彼女はほっとしたように脱力すると、にへらと笑みを浮かべた。

「それに先輩がいてくれて助かりました。もし閉まっちゃってたら、明日までやきもきしなきゃいけないところでした」
「ははは、そりゃよかった」
「って、残って仕事してる先輩にそんな言いかた失礼ですよね!? すみません!」
「いやいや、そんなこと気にしないで。それに今日は仕事じゃないんだ」

 首を傾げる彼女に、開きっぱなしだった簿記の教本を表紙が見えるように持ち上げてみせた。

「あー、あー。二年以内に取れって言われてるんですよね……」

 げんなりしたように肩を落とす彼女に、自然と苦笑が漏れる。彼女もぼくの苦笑を見て、おかしそうに笑った。

 そのときぼくは、もうなんだか勉強する気分じゃなくなっていたので、施錠の仕方を教えがてら彼女と一緒に帰ろうかな、なんて思っていた。そう、これは指導だ。なにもやましいことはない。ただその場の流れ? 雰囲気? で「食事でも……」なんてこともあり得ないとは言い切れないな。もういい時間だし、そうなったら仕方ないな。うーんそうなったらどうしようか。どこかいい感じのお店ってあるのかな。ぜんぜん行ったことないからわからないや。こんなことなら先輩に誘われたときに一回くらい行っておけばよかったか……?

「……っとお邪魔しちゃいましたよね、ごめんなさい。その、勉強頑張ってください!」

 難しい顔で机に向かうフリをして不埒なことを考えていたら、彼女はぺこぺこと頭を下げながら踵を返してしまった。オーノー。でも去り際に、

「あと、いつもありがとうございます!」

 と言われたから、単純なぼくはもう少し頑張ろうと思ったのだった。


 そして数日後の昼休み。簿記の教本をぱらぱらめくりながら菓子パンとおにぎりを食べていたら、珍しく彼女が声をかけてきた(彼女はもっぱらランチを外で食べていたようだから、業務時間外に話すことはほとんどなかったのだ)。

「精が出ますねぇ」
「まあね」
「どうです? その、勉強の手応えっていうか、いけそう……ですか?」
「うーんどうだろう。範囲はひと通りやったし、過去問も九割で安定してきたからいけると思……い……たい……です」
「なんでだんだん自信なくなるんですか~」

 笑った彼女は、どこか悪戯っぽい口調で続ける。

「そういうときはですね、勝っても負けてもぱーっと飲んで忘れちゃえばいいんですよ! 大学で学びました!」

 見るからにアクティブな彼女は、大学でラクロスのサークルに入っていたらしい。大学でなにを学んだんだと思わないでもないが、ベクトルこそ違えどぼくだって似たようなものだったのでなにも言わなかった。

「いいね、そうしようかな」
「じゃあじゃあ、今度飲みに連れてってくださいよ! 考えてみたら私、先輩と飲みに行ったことないですし」
「あ……うん、いいよ。もちろん」

 彼女の言葉にぼくは当然のように動揺したけれど、それを表に出さないよう全力で抑え込んだ。そんなぼくの様子に気づいたかどうかはわからないけれど、彼女はノリを変えないまま会話を繋げてくる。

「ほんとですか! 絶対ですよ!? いつですか?」

 だからだろうか。柄にもない言葉が口をついて出てしまったのは。

「えっと。じゃあ、今日……とか?」
「えっ……?」

 真顔だった。
 その反応を受け、さーっと血の気が引いた。

「あっあっそ、その、し、社交辞令を真に受けてしまってごめんそういう『察する』みたいなのあんまりわからなくてごめんもしかして今日だけじゃなくてこういうこと何度かあったかな気づかなくてごめんもしおかしいことあったらぜんぜんその場で言ってくれていいからねごめん……」
「あああ違います違います! ちょっとびっくりしただけです!」

 テンパってパニクって言い訳にもならない言い訳を口走るぼくに、なぜか彼女も慌てたように言うと、ぐっと拳を握った。

「いきましょう! 今日!」
「えっ、いいの……?」
「いやそれはこっちの台詞ですっていうか」

 言葉を切った彼女は、なにか言いかけた挙げ句、ごにょごにょと小さな声で聞いてきた。

「これは行きたくないとかそういう理由からではないということを理解してほしいのですが、その……勉強は大丈夫ですか?」
「ぱーっと飲んで忘れちゃえばいいと思うんだよね。うん」

 言って、ぼくは笑った。彼女も声を上げて笑った。


 そしてその日の終業後、ぼくらは職場近くの居酒屋へ向かった。
 話題はもっぱら、仕事の愚痴や人間関係についてだった。著しくアルコールに弱いぼくが中ジョッキ半分も飲まないうちに真っ赤になって笑われたり、反対にガバガバ飲んでも顔色ひとつ変えない彼女に戦慄したりしたが、それだけだった。普通に、先輩と後輩の飲み会だ。たぶん。別になにもなかったから安心してほしい。いやなにかあると思っていたのはぼくだけか。

 彼女が帰る駅までは歩いて十分ほどだ。送っていこうと二人で歩く道すがら、彼女がぽつりと言った。

「ちょっと、寄り道していきませんか?」

 意図を推し量る暇もないまま、すぐそばにあった公園に入った。ぼくらはベンチの端と端に腰掛ける。昼間は親子連れや散歩をする高齢者で賑わっているであろう憩いの場も、この時間はしん、と静まりかえっていた。

「……ほんとうは、終わってから渡そうと思ってたんですけど」

 そう切り出した彼女がバッグから取り出したのは、綺麗にラッピングされた長方形の箱だった。開けていいか聞くと頷いたから、ぼくはトマトの皮剥きみたいな慎重さで丁寧に包装を解いた。
 出てきたのは高そうなボールペンだった。艶めく黒いボディに、ピンと接合部はシルバー。大人っぽく、趣味のいい品だ。

「それで、これは」
「その、合格のお祝い……的な、感じ、です。はい」
「あ、ありがとう。こんな良いもの貰っちゃって申し訳ないけど、でも嬉しいよ」

 だけど、どうしていま? そんな思いを込めて彼女を見れば、少し視線を泳がせたあと、絞り出すように言った。

「その、私。頑張ってるの、知ってます……!」

 575? なんて茶化せるような感じじゃなかった。
 無言で続きを促せば、彼女はぼくから視線を逸らし、足元を見つめながらぽつりぽつりと言った。

「私、知ってたんです。教育係の役目が負担になってることも。そもそも人と話すのがあんまり得意じゃないのも。それでも一生懸命どう言えばいいのか考えてくれてるのも。それから、私にいろいろ教えてくれて、夜にご自分の仕事をされてることも、気づいてたんです」
「それは、」
「それにですね」

 口を挟みかけた言葉を遮るように彼女は言う。

「そんな中で、お客さんから理不尽なクレームが来たり、上から理不尽な仕事が降りてきたり。ただでさえ負担になってるのに、ミスをした私のフォローもしてくれたり。簿記の勉強も頑張っていて。なのに『新人くん』なんて言われて。そう思ったら、『知ってますよ』『ほんとうにありがとうございます』って伝えなきゃって、居ても立っても居られなくなったんです」

 彼女の独白に、ぼくはしばしなにも言えなかった。
 細部は違えど、二年目三年目の社員なんてみんなこんな感じだろう。だからぼくは「そんなの、誰だって同じだよ」なんて笑い飛ばしてやるべきだったのだ。

 でも、そのときぼくは、口の中がやけに渇いて、喉が張り付くような不快感に顔をしかめたら、涙がぽろりと零れてしまった。そして、その一粒で張りつめていたものが決壊したように、あとからあとから勝手に溢れ出てきた。もうぼくは笑ってごまかすしかなかった。

「あ、れ? なんだこれ。あはは……」
「先輩は頑張ってます。知ってます、私」

 確かめるように言う彼女を前に、ボロボロと涙を流すぼく。傍から見れば……どう見えるだろうか? 別れ話か、それとも。ああだめだ。気を紛らわそうとしても、ちっとも止まらない。

「せめて、いまだけはこうさせてください」

 急に視界が塞がれたと思ったら、温もりに包まれた。呆けているうちにそばへ寄ってきた彼女に頭を抱きしめられたらしい。
 ぎゅっとされていると、暖かくて、柔らかくて、良い香りがする。これはまるで――

「思いっきり吐き出していいんですよ」
「うっ……ぐっ……!」

 背中越しに優しく声をかけられ、ぼくの喉からは声にならない声が漏れる。

 思えばぼくは、誰かに認められたかったんだと思う。
 学生時代から常に生きづらさを感じていたぼくは、こうして社会に出て、社会人として働いている。ただ人と話すだけでも恐怖を覚え、それでもなんとかこなしたあとはどっと疲労が襲ってくる。「他人と話す」たったそれだけのことでも、ぼくにとっては果てしない重労働だ。

 しかし「人と話せたね。偉いね」なんて、だれも褒めてはくれない。そんなことはできて当たり前、その上で仕事をして、結果を残さないと、社会人としては評価してもらえない。
 それは重々わかっていたから、ぼくの心は常にぴんと張りつめていた。苦手意識を極力殺し、がむしゃらに作業をこなし、とにかく早く一人前に、社会人として評価されなくては、それだけが目的であり、拠り所だった。

 そんなハリボテが、彼女には見破られていたのだ。
 ぼくはそれがどうしようもなく情けなくて、恥ずかしくて、それでいて……心底ほっとしたのだった。

「見てましたからね。それに、これからも見てますから……」

 ぼくの苦しさに気づいてくれた人がいる。見ていてくれる人がいる。それが、どれだけ心強かっただろうか。

 華奢な腕に抱かれ、優しく頭を撫でられる。それだけで安心感と幸福感が何重にも身を包んだ。
 ぼくは外だというのに少しうとうとしてしまって、その言葉が口元から自然と溢れていた。


「ママ…………」



 まあさすがに「ママ」は嘘だ。でも抱きしめてくれたのも嘘。限界だったぼくに優しい言葉をかけてくれたのはほんとうに嘘。ボールペンを貰ったのも嘘。飲みに行ったのも嘘。教育係に任命されたってことだけは嘘。後輩が女性だったってことも嘘。後輩ができたのも嘘。そもそも従業員数が十人ちょっとしかいない職場で毎年採用なんてしてなかった。職場で簿記の取得を推奨されてたのは本当。簿記三級は落ちた。



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