食べるということ、今とこれから。2020年の終わりに。
ずっと「食べること」に向き合ってきた人生だな、と思う。農学部に進学して、食に関わる仕事に就いて、プライベートの時間でも食べることについて考えている。
食べることを愛しているし、食べものがどうやってできるのかも知りたいし、おいしそうに食べている人を見るのも好きだ。
2020年、世界は一変した。そんな年の年末だから、自分の「食べること」についての思考を言語化するのにちょうどいいタイミングだと思って整理する。
食べるということについて
豪華な外食も好きだけれど、やっぱり根幹は「食べること=生きること」だと思っている。食べものが体を作るという、シンプルなことだ。
もし宝くじが10億円当たったとしても、毎日外食したいとは全く思わない。せいろで野菜と鶏肉を蒸したものとか、きのこと野菜をたっぷり入れた味噌汁とか、炊き立てのごはんとか、主にそういうものを食べていたい。
私は漫画が好きでよく読むのだけれど、好きな漫画家さんは「食べること」に対するスタンスが私と近しいな、と思う。
例えばバレーボール漫画の「ハイキュー!!」では、コーチが主人公たちに再三「ちゃんとした飯を食え」という。運動をしてぼろぼろの体を、食べることで修復して、筋肉をつけて、そうして強くなっていく。
シンプルな教えだけれど、強く共感する。食べることは、毎日を生きるうえでの土台だ。そして、食べることを大事にしている人はおのずと自分や人も大事にできるのではないか、とも思う。
先日、松陰神社前の饅頭やさん「鹿港」を訪れた。台湾の老舗のレシピで作る饅頭はフカフカで本当においしかった。絵本に出てくる、夢の食べもののような。
そんなお店の店主さんが台湾での修行時代について、こんなことをインタビューで話していた。
『振味珍(※修行先のお店)』の方たちは、まるで家族のように私を受け入れてくれて、なるべく早く習得できるようにと熱心に指導してくれたり、『お腹は空いてないか』と常に気にしてくれたり。とにかく愛情深かったですね。
そういえば、私が離婚でゴタゴタしていたころ、話を聞いて開口一番「まず、ちゃんとご飯は食べられている?」と言った友人を思い出した。
他者のお腹が空いていないか、と気にかけることは愛情そのものだと思う。そして、食べることを大事にできる人は人間のことも大事にできるはずだ。
だからこそ、食にかかわる仕事をする人に「善性」を求めてしまう
「食べること=生きること」と考えているから、食にかかわる仕事をする人に私はどうも「善性」を求めてしまうらしい。これは最近自覚したことだ。
以前、近所の飲食店の前を通りかかったとき、外に並んでいるお客に対して店員がとても失礼な態度だったのを見かけた。
それで「このお店には行かんとこ」と思ったのだが、つい最近またその店の前を通りがかったときに「コロナのせいでサラダバーは中止です!(原文ママ)」と書かれたチラシが貼ってあった。
このご時世で飲食店の方に心の余裕を求める方が酷だと自戒しつつ、それでもコロナ前のお客への態度と相まって「ここのごはんは食べたくない」とはっきり思ってしまったのだ。
芸能人やスポーツ選手の人間性には全く興味がないのだけれど、食にかかわる仕事の人には「善性」を求めてしまう。
かつて世間を騒がせた食肉偽装事件なども、つまるところ善性の問題だったのではないかと思う。
もちろんビジネスだからこそ利益追求は必然なのだが、体内に入れるものを作っている以上、善性とのバランスを崩してはいけない(まあどの仕事もそうだとは思うのだけれど)。
食べることで、つねにみずみずしい世界を味わえる
食べることは生きる上での土台である。
同時に、常に私をワクワクさせてくれるエンターテイメントでもある。
「この調味料の組み合わせ、意外だけれど素晴らしくおいしい!」
「こういう色のお皿に盛ると映えるのかあ」
「この調理法、おもしろいな」
「この店のメニューのラインナップ、最高」
「あら、もう新玉ねぎが出回っているのね」
「今年は葉物野菜が安いなあ…農家の方も大変だ」
「地理的に近い中華も韓国料理も辛いのに、和食には辛い料理があまり無いのはなぜだろう?」
食べもののおかげで、私はどれほど世界に対する解像度を高められたことか。
そして、訪れたことのない国に暮らす人々、会ったことのない農家の方についてほんの少し想像する時間が、どれだけ人間らしく豊かなものであるか。
食べるということは人間も動物も等しく行うことだけれど、食にこれほどまでさまざまな喜びを見いだせる豊かさ、想像力を以って遠くの誰かとつながれること、これは人間の特権だ。
食べることは、動物的な面を大いに内包しつつ、それでいて人間らしさを多分に含んだ行為だと思う。
(メモ)食べ方に工夫をする動物とかいるのかしら。今度調べてみる。
「みんなで食べるのがいいこと」という風潮への違和感
「個食=寂しいもの(「孤食」という表記も用いられたりする)」という固定概念みたいなものが、早く無くなればいいのにと思う。
一人でじっくり食べるからこそ気づく味わいもある。そして、誰かと共にする食事が幸福をもたらさないケースがある。
小食のあまり、人と食事を共にするたびにつらい思いをしている人を知っている。
無理に一緒に食事を摂ろうとすることで衝突を繰り返す家庭もある。「今日ごはん要るっていうから作って待っていたのに!冷めちゃったじゃない」というコミュニケーションはまさにそれだ。
親しい誰かとおいしいものを食べる時間は私にとっては無上の幸せだけれど、必ずしも誰にとっても・いつ何時も当てはまることではない。それを私は忘れずにいたい。
これからの「食べること」について
世界が激変する中でこれからの「食べること」がどうなっていくのか、自分なりに考えてみる。
①withコロナ時代は効率基軸の食から変化。「3つの欲求」のいずれかを満たす食べものが支持されるのでは?
コロナ以前は多様なライフスタイルに合わせて、食の個別化が進んできた。もっと言えば「効率」を基軸としたものが多かったと思う。
一度の食事でより効率的な栄養摂取を見込めるBASEフード、共働き世帯に向けたミールキット、ウーバーイーツ。タピオカも参入コストの低い効率的なビジネス。
withコロナ時代においては効率基軸ではなく
・「冒険したい」という欲求を満たす食べもの
・「失敗したくない」という欲求を満たす食べもの
・「誰かとつながりたい」という欲求を満たす食べもの
この3つが支持されるのではないかな、と思う。
上2つは矛盾するようだけれど。
🙌「冒険したい」欲求
海外旅行ができないことや経済不安により守りの選択をする人が、気軽にその欲求を食で満たすようになると思う。
外食でも、イタリアンとかフレンチではなくてポルトガル料理とかジョージア料理、中華料理ではなく中国料理など、馴染みのない料理を楽しむ人が増えるのではないか。
スーパーマーケットでも、新商品や少し珍しい海外の調味料に手を出してみたりとか。
現に、世界の料理を自宅で楽しむためのブースを設けたスーパーが登場している。
👻「失敗したくない欲求」
「正解のない時代だからこそ、食べものくらいは何も考えたくない。失敗してガッカリしたくない。」という思考の人が増えるのではないかと思う。
そうなると、「みんなが良いと言っているもの」や「自分が食べ慣れている、馴染みのもの」を選ぶ傾向が強くなるはずだ。
🤝「誰かとつながりたい欲求」
withコロナ時代において高まる誰かとつながりたい欲求は食にも大きく影響すると思う。
応援のつもりで馴染みのお店でテイクアウトしたり、外食産業のダメージにより困っている農家や漁師から直接購入することで「自分が誰かの役に立っている」と認識すること。
人気のチーズケーキをお取り寄せして「自分もこれ食べたよ!」と、話題の輪に入ること。
これら3つの欲求のうちどれか一つを満たす食べものが支持されると思う。さらに「冒険したい欲×つながる欲」または「失敗したくない欲×つながる欲」と、2つを満たすものは強力だ。
冒険したいと失敗したくない、は相反するものなので、これは人それぞれの性格や置かれた状況によってどちらかに寄るのだと思う。
②アフターコロナ時代は季節感を楽しむ食が台頭。お花見ブームが到来するのでは。
密だとか5人以上の食事は控えるだとか、そんなものがない世界にもどったら、お花見ブームがやって来るのではないかと思う。
季節の移ろいを感じながら、気心の知れた仲間たちと賑やかにごはんを食べる喜びに飢えている。
コロナ禍でキャンプやアウトドアに目覚めた人も多いだろうから、お花見のスタイルも変わるかもしれない。
出来合いのお惣菜を買ってくるのではなく、キャンプ用に買ったBBQ台やら小さいコンロやらを駆使して外で料理をしてお花見を楽しむ人もいるだろう。
お花見は春限定だから、秋冬に芋煮や外で鍋を楽しむ文化が広がるかもしれない。
江戸時代の浮世絵に、市井の人々がお花見を楽しむ様子を描いた作品がある。
美しい桜を背景にして、人々の脇にはごちそうがずらりと並び、屋外で熱燗を作る道具が鎮座する。私たちの祖先は昔から花より団子だったらしい。
数百年前の人々の楽しさが伝わってくるような絵だ。
季節を感じたり、大勢で飲み食いする機会に乏しいコロナ禍を脱して、浮世絵に描かれた夢のようなお花見を楽しめる日がいち早く訪れることを祈って。
そして、コロナ禍においても我々の命を支えたくさんの楽しみと幸福をもたらしてくれる「食」に関わる全ての人々にとって、2021年が「もうお腹いっぱい!」とうんざりするくらい良いことづくめの、ハッピーな1年になりますように!
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