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【人物史】玉座の革命家・ピョートル大帝

1.はじめに

ロシア人に「自国の歴史上、最も偉大な人物は誰か?」と聞いたときに、間違いなく一番多くの人が挙げるのが、ピョートル大帝です。ピョートルはロシアの近代化を開始し、ロシアをヨーロッパの大国となるよう富国強兵に務めました。その評価については、19世紀以来の長い論争がありますが、ピョートルの改革は「上からの革命」であったという意見もあります。今回は、ピョートル大帝と彼の「革命」について見ていきたいと思います。

ピョートル大帝(1672-1725)
ロシアの近代化と絶対主義化を強力に推し進めた。身長が203センチもあり、非常に大柄だったという

2.兵隊ごっこと外国人村

第三代ツァーリ・フョードルは病弱であり、わずか6年で死去します。フョードルには2人の弟がいました。アレクセイの前妻の子イヴァンと後妻の子ピョートルです。イヴァンは病弱で精神的にも発達が遅れており、わずか10歳ながら、頑健で大柄なピョートルがツァーリに即位することとなりました。

しかし、イヴァンの姉のソフィアは、銃兵隊を操って反乱を起こし、イヴァンを第一のツァーリとして即位させ、ピョートルをその共同統治者である第二のツァーリに格下げしました。そして、ソフィアは「摂政」として実権を握り、ピョートルとその母ナタリアをモスクワ郊外のプレオブラジェンスコエ村へ追いやりました。

摂政ソフィア(1657-1704)
寵臣ヴァシリー・ゴリツィンとともに統治にあたる。権力志向が強く、皇帝になる意思があったといわれる

プレオブラジェンスコエ村での生活は、ピョートルにとって有意義なものでした。ピョートルは、そこで同世代の仲間を集めて兵隊ごっこに励みました。この遊びはやがて本格化していき、「遊戯連隊」の軍事訓練では負傷者はもとより、死者まで出るほどでした。遊戯連隊は後にロシア軍の中核となるプレオブラジェンスキー連隊の基礎となり、さらに、後に大元帥としてピョートルの右腕となるアレクサンドル・メーンシコフとも、この遊びの中で出会いました。

アレクサンドル・メーンシコフ(1673-1729)
身分の低い下士官の息子だったが、ピョートルの目に留まり、後に大元帥へと昇進する。メーンシコフのように、ピョートルは身分に関係なく優秀な人材を登用していった

もうひとつ重要だったのは、近郊の「外国人村」での西欧人との親交でした。「外国人村」は、アレクセイの時代に、「聖なる都」を外部の望ましくない影響から守るために、モスクワ郊外に設立されました。ピョートルは、ここで後に軍事顧問となるパトリック・ゴードンなど、お雇い外国人となる人材と出会いました。さらに、「外国人村」での西欧人との交流によって、ピョートルは先進的な西欧の技術や思想への関心を高めました。

3.西欧への大使節団

ソフィアの摂政政治は7年に及びましたが、1689年に失脚し、修道院に幽閉されます。こうしてイヴァンとピョートルの立場が逆転しました。当初は母ナタリアが実権を握っていましたが、1694年に亡くなり、その2年後には兄イヴァンも亡くなったことから、本格的にピョートルの親政が始まりました。

イヴァン5世(1666-1696)
黙って儀式一切を担っていたイヴァンに対し、ピョートルは愛情を持っていたという

1697年、ピョートルは、ヨーロッパへ総勢250名の大使節団が派遣しました。その中には造船と航海を学ぶための35名の有志がおり、ピョートル自身も、「ピョートル・ミハイロフ」という偽名を名乗って密かに同行していました。使節団の目的は対オスマン帝国同盟を結ぶことでしたが、ピョートルの最大の関心は、先進的なヨーロッパ文明を自分の目で見て学ぶことでした。

使節団は、ケーニヒスベルク、ドレスデン、ウィーンなどに立ち寄りましたが、主要な滞在先は、当時の海洋大国の首都であるアムステルダムロンドンでした。ピョートルは工場、博物館、大学、政府諸機関などを見学する一方、10名の仲間とともに、東インド会社の造船所で船大工として働き、造船技術の習得に励みました。それだけでなく、900名におよぶ海事、建築、薬学の専門家を雇用し、タバコ、時計、磁石、地球儀、刀剣、ガウン、カツラ、棺桶、さらには黒人奴隷まで購入し、ロシアへと戻りました。

イギリスのデットフォードの造船所での様子。左のノコギリを持った人物がピョートル

帰国したピョートルは、翌日出迎えた大貴族たちの顎鬚を切り落とし、長いロシア服の裾を裁断し、その後勅令として髭剃りと洋服着用を強制しました。さらに、西欧諸国にならってユリウス暦を導入し、新年も9月ではなく1月に変更しました。

4.大北方戦争と国内改革

1689年から37年間に渡るピョートルの治世は、完全に平和だった1724年の1年間を除けば、戦火の絶えないものでした。その中でも最大のものは、20年以上にわたるスウェーデンとの大北方戦争です。三十年戦争以降、スウェーデンはスカンディナビア半島だけでなく、バルト海の制海権を握る「バルト海帝国」として君臨していました。ピョートルは、ロシアと同じくスウェーデンに領土を奪われた過去を持つポーランド、デンマークと「北方同盟」を結成し、1700年秋にスウェーデンとの戦争に突入しました。

大北方戦争前夜のスウェーデン。着色部分がスウェーデン領

若干18歳の国王カール12世が率いるスウェーデン軍に、開戦当初のナルヴァの戦いで、数で勝るはずのロシア軍は惨敗します。しかし、カールはロシアをそれ以上に追い詰めようとはせずに、ポーランドへと矛先を向けます。ロシアはいつでも倒せると踏んだのか、ロシアの冬将軍を恐れたのかは不明ですが、この判断は後に「カールの失敗」とよばれる大誤算となりました。

ナルヴァの戦い
もしスウェーデンがロシアに軍隊を進めていたら、近代の「大国ロシア」は存在しなかったといわれている

ピョートルは、スウェーデンとポーランドが戦っている間に態勢立て直しを図りました。1705年以降、徴兵令を発布し、毎年2万~3万人の兵士を確保しました。さらに、武器生産のために官営の製鉄企業を設立し、ウラル鉱山の開発を進めました。同時に、海軍向けの帆布、軍服用のラシャ布、網などを製造するために、モスクワ地方を中心に軽工業も発達しました。軍事費は国庫支出の9割を占めるようになったため、これを賄うために人頭税が導入されました。

5.「ロシア帝国」の誕生

戦争の画期となったのは、1709年のポルタヴァの会戦でした。ウクライナの要塞ポルタヴァにて、ロシア軍と、スウェーデン軍、そしてピョートルを裏切りスウェーデン側についたイヴァン・マゼッパ率いるコサック軍とが全面衝突しました。完全に立て直されたロシア軍に、長期の遠征で疲弊していたスウェーデン軍は全滅し、カール12世はオスマン帝国領へと逃れました。

ポルタヴァの戦い

ポルタヴァの戦い以降もさらに長い間戦争は続きましたが、スウェーデン軍が挽回することはありませんでした。1714年、スウェーデン海軍は「ハンゴー沖の海戦」で新生のバルト艦隊に敗北、さらに、1718年には戦いの最中にカールが流れ弾に当たり死亡しました。ロシア軍がスウェーデン本土への攻撃を開始すると、ようやく和平交渉が始まりました。

1721年、フィンランド南部の港町ニスタットで条約が締結されました。これにより、スウェーデンはバルト海南岸領土を全て失い、代わりにロシアがエストニア、リヴォニア、イングリアを手に入れ、バルト海への出口を確保しました。こうして「バルト海帝国」は解体され、ロシアが「北東ヨーロッパの強国」として台頭しました。

1709-1721年にかけての領土の変遷
黄緑の地に橙の斜線が引かれているところが、ロシア領となった範囲
By S. Bollmann - Hermann Kindler, Werner Hilgemann: dtv-Atlas zur Weltgeschichte. Lizenzausgabe für Bertelsmann Club HmbH und diverse Buchclubs. Deutscher Taschenbuch Verlag, München ohne Jahr. Band 1Geoffrey Barraclough [Hrsg.]: Atlas der Weltgeschichte. Bechtermünz Verlag, Augsburg 1997, ISBN 3-86047-178-3F. W. Putzgers Historischer Schul-Atlas. Ausgabe 1923. www.maproom.orgDr. Richard Andree: Droysens Allgemeiner Historischer Handatlas. www.maproom.orgKarl Spruner, Theodor Menke: Hand-Atlas für die Geschichte des Mittelalters und die neueren Zeit. 3. Auflage. Justus Perthes, Gotha1880. www.maproom.org, CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9436714

ニスタットの和平のお祝いは1か月以上続けられました。ピョートルは、元老院から「祖国の父」「大帝」そして「皇帝(インペラトール)」の称号を贈られました。こうしてロシアは「皇帝」が治める国「帝国(インペーリヤ)」を名乗るようになりました。

6.サンクト・ペテルブルクの建設

1703年、ナルヴァでの敗戦の後、ピョートルはネヴァ川河口の沼沢地に要塞を築き、それを基盤として新しい町の建設に入りました。そして、翌年9月には、この町をロシアの新首都とする構想を示しました。これが「サンクト・ペテルブルク」の起源です。

サンクト・ペテルブルクの都市計画図(1734年)

ペテルブルク建設は2つの段階に分けられます。第一段階は、吹きさらしの沼沢地の地盤を固める基礎工事の段階であり、全国から2万人を超える労働者が強制徴用されました。その大半は、悪天候と劣悪な衣食住のために、病気にかかるか、命を落としました。正確な死者数は不明ですが、6万~10万人におよぶという見解もあります。

基礎が完成すると、今度は人の移住の段階が始まりました。ここでも手段は強制であり、貴族高官、富裕な商人や職人たちの移住が命じられました。ピョートル末期には、ペテルブルクの人口は4万人に達しました。

町の建設と同時に、政府機関の移転も進められました。1712年、モスクワから宮廷が移転されました。伝統的で因習的なモスクワに何の未練もなかったピョートルは、「貴族会議」に代わって「元老院」を、「中央官庁(プリカース)」に代わって「参議会(コレギウム)」を、それぞれペテルブルクに設立しました。

ピョートル宮殿
ピョートルの夏の離宮で、ヴェルサイユ宮殿に触発されて建造した。1721年完成
By Alex 'Florstein' Fedorov, CC BY-SA 4.0,
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ペテルブルクは、当時のロシアの中では最もヨーロッパに近い都市であり、北辺にあって不便なアルハンゲリスクに代わる「ロシアのアムステルダム」として、外国貿易の中心的役割を果たすことになりました。スウェーデンとの和平が結ばれた1722年、ペテルブルク港に入港した外国商船はアルハンゲリスクを上回り、以降、国際貿易港として急速に成長していきます。

7.まとめ

最後に、ピョートル大帝の「革命」に対する評価に関する話をしたいと思います。同時代の人々は、その大半が「革命」に対して否定的でした。それは、戦争やペテルブルク建設にともなう課税、徴兵、徴用などの過酷な負担、そして強制的な西欧化政策のためでした。ある者は、ピョートルは「外国人村」にいる際にすり替えられた偽のツァーリだといい、またあるものは「アンチ・キリスト」であると罵りました。

しかし、ピョートル亡き後の人々が彼の事業を回顧したとき、大北方戦争での輝かしい勝利、その偉大な司令官ピョートルという別の評価が出てきました。ピョートルは貴族の将軍に任せず、自ら戦場を駆け回り、兵営では農民出身の兵士に対して横暴にふるまう貴族を諫めたという、「公正な君主」ピョートルという評価が、農民の間に広まったのです。こうしてピョートルは、現在に至るまでロシア最大の偉人となったのです。

サンクト・ペテルブルクにある「青銅の騎士」像
1782年、エカチェリーナ2世がピョートル大帝即位100周年を祝って建立した
By Lite - Own work, CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2211564

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様々な改革を行ったピョートルでしたが、唯一上手くいかなかったのが後継者問題でした。前妻の子アレクセイはピョートルと不仲で、度重なる対立の末、政権転覆を計画した罪で死刑宣告がされ、刑を待たずに獄死しました。後妻エカチェリーナとの間には息子が生まれましたが、わずか2歳で死去しました。男子後継者のいなくなったピョートルは、皇帝が望む者を継承者にできる「帝位継承法」を公布しましたが、後継者を指名する前に、1725年に52歳で亡くなりました。

男子継承者がいない中、皇妃エカチェリーナロシア史上初の女帝として即位します。以後18世紀を通して、女性が権力を握る女帝の時代を迎えました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

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ピョートル大帝の教会政策については、こちら

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