見出し画像

【ロシア連邦の歴史5】タンデムの時代

こんにちは、ニコライです。今回は【ロシア連邦の歴史】第5回目です。

前回の記事では、ロシア最大の国内紛争となったチェチェン紛争についてまとめました。ロシア憲法では連続3選が禁止されており、プーチンはこの規定に従い、任期満了後は大統領の座から離れることになりました。しかし、プーチンは側近のドミトリー・メドベージェフを後継者にするとともに、自身は首相の座にとどまり、権力を握り続けました。今回は2008年~2012年までの4年間、プーチンとメドベージェフによるタンデム(双頭)体制の時代について見ていきたいと思います。

1.後継者メドベージェフ

2007年末時点で、プーチンは87パーセントと非常に高い支持率を有しており、憲法を改正して3期目に突入するのではないか、という噂もありました。しかし、プーチン自身がこれを否定し、憲法に従い2期4年で大統領職から退くことを発表します。プーチンの後継者は誰なのかについては様々な予想が飛び交いましたが、指名されたのはリベラル派の代表格ドミトリー・メドベージェフでした。

ドミトリー・メドベージェフ(1965-)
ダボス会議でのメドベージェフ(2007年)。ちなみに、メドベージェフとは「蜂蜜(ミョド)を食べるもの」、すなわち熊の意。
By World Economic Forum from Cologny, Switzerland - World Economic Forum Annual Meeting Davos 2007, CC BY-SA 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3715460

メドベージェフは1965年のレニングラード生まれ。両親ともに大学教授であり、貧しい労働者階級の家庭に生まれたプーチンと対照的なインテリのボンボンでした。1987年にレニングラード大学法学部を卒業し、大学院に進学。同大学講師を務めながら、サンクト・ペテルブルク市役所でアルバイトとして働き始め、その際、当時副市長であったプーチンと知り合いました。1996年以降はプーチンの後を追ってモスクワに移り、以降、側近として政府中枢で働くようになっていました。

2008年3月に実施された大統領選挙では、共産党のゲンナジー・ジュガーノフ、自由民主党のウラジーミル・ジリノフスキーなどの対立候補を破り、メドベージェフが70パーセントを越える得票率で当選しました。大統領に就任した翌日、メドベージェフはプーチンを首相に任命することを発表しました。プーチンは下野するのではなく権力者としてとどまることとなり、以降のロシアの政治体制をメドベージェフ自身の言葉から「タンデム」(二頭引き馬車、二人乗り自転車などの意味)と呼びます。

大統領選挙勝利後の二人
By Kremlin.ru, CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5421703

2.「近代化」路線

ロシアの独自性を尊重する保守的な態度をとっていたプーチンとは異なり、リベラルな思想の持主であったメドベージェフは、欧米を模範としてロシアを改革する「近代化」路線を提唱しました。特に近代化優先分野とされたのがエネルギー、核技術、宇宙開発、医療技術、そしてITの5分野でした。

経済分野においては、メドベージェフは国家の経済への介入には否定的で、大統領教書の中で国営企業の民営化促進を主張しました。また、2009年にインターネット上で発表された論文「進め、ロシア!」においては、ロシア経済を天然資源依存の原始的なものと批判しており、経済の多角化イノベーション推進も目指す方針を示しました。

経済の近代化の一環として、メドベージェフの肝いりで発表されたのが、「ロシア版シリコンバレー」構想です。米国のIT産業の中心地であるシリコンバレーを見学したメドベージェフは、モスクワ郊外のスコルコヴォにITセンターを創設する計画を打ち出します。その内容は、総予算は1000億ルーブル、4万人規模の頭脳を集積して近代化優先5分野の研究開発を実施するもので、「近代化」路線の看板プログラムとなりました。

現在のスコルコヴォ(2022年)
現在ではロシア版グーグル「Yandex」をはじめ2000社以上が集まっており、中国企業の進出も盛んである。
By Skolkovo Innovation Center - https://sk.ru/news/hod-stroitelstva-innovacionnogo-centra-skolkovo-iyul-2022g/, CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=125474382

3.世界金融危機の影響

メドベージェフの大統領就任の数か月後、ロシア経済は大きな打撃を受けることとなります。2007年に発生したリーマン・ショックとそれに連鎖して発生した世界金融危機の影響が、ロシアにも押し寄せ始めたのです。2008年秋以降ルーブル高の下落は止まらなくなり、翌09年にはGDP成長率がマイナス7.8パーセントという、他のどの国も凌駕する大幅なマイナス成長となりました。

2009年の世界各国のGDP成長率
ちなみに、ロシア以上のマイナス成長となった数少ない国のひとつが、ウクライナであった。
By Gdp_real_growth_rate_2007_CIA_Factbook.PNG: Sbw01f, Kami888, Fleaman5000, Kami888derivative work: Mnmazur (talk) - Gdp_real_growth_rate_2007_CIA_Factbook.PNG, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10058473

ロシア経済がここまで大きなダメージを受けた理由は、その天然資源依存体質にあります。この時期のロシアの株価指数は、原油価格の下落と見事に連動して約70パーセントも低下しました。株式市場にこれほどダメージを受けた国はほかになく、ロシア経済がいかに石油・天然ガスに依存しており、多角化に失敗しているかが露呈しました。

しかし、ロシア経済はごく短期間のうちに持ち直すことができました。それは、エネルギー関連の外貨収入による1000億ドルを超える外貨準備高のおかげであり、2010年にはGDP成長率が再びプラス成長へと転じました。エネルギー依存のために大きな打撃を受けたロシア経済が、そのエネルギー産業の利益のおかげで危機を乗り越えることができたというのは、なんとも皮肉な話です。

4.米国との関係悪化

メドベージェフの大統領就任直後の2008年8月、ロシアは隣国ジョージアに侵攻しました。直接的なきっかけは、ジョージアが国内の分離主義地域である南オセチアに大規模侵攻を開始したことに対し、ロシアが南オセチアを支援し反撃に出たためでした。しかし、その裏には、親欧米派のサーカシビリ大統領ジョージアのNATO加盟について合意を取り付けたことに対し、ロシア側が強く反発したことにありました。

ジョージ・ブッシュ米大統領とサーカシビリ大統領(2005年)
ドイツやフランスの反対を押し切り、ブッシュ大統領は2008年のブカレストNATO首脳会議で、ジョージアとウクライナの将来的なNATO加盟を宣言した。

米国はジョージア側につき、ロシアによる侵攻を非難しました。ブッシュ政権末期から悪化していた米露関係はここにおいて一気に緊張が高まり、「新冷戦」と呼ばれるほどになりました。事態が変わるのは、2009年のバラク・オバマ政権の誕生によってです。メドベージェフとオバマは「米露関係のリセット」を提唱し、戦略核兵器削減条約(START)を更新するなど、両国の関係は表面的には改善が進んだように見えました。

オバマ大統領とメドベージェフ大統領(2010年)
両者は家族ぐるみで付き合うほど個人的に親しくなった。
By Kremlin.ru, CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9962238

しかし、2010年末から再び暗転していきます。そのきっかけとなったのが、中東で起こった一連の民主化革命、いわゆる「アラブの春」です。プーチン首相は「カラー革命」と同様に、これらも親露派政権の転覆を目指す欧米の陰謀と見なしました。特にNATOがリビアに軍事介入し、最高指導者であるカダフィが死亡したこと対し、プーチンは欧米を激しく非難しました。

5.プーチンの大統領復帰

事実上、首相に「降格」となったプーチンですが、タンデム期の彼の立場は大統領のときとほとんど変わらなかったといってもよいでしょう。本来、首相はモスクワ河畔の「ホワイトハウス」と呼ばれる首相官邸に勤務するものですが、首相となった後も、プーチンはノヴォ・オガリョーヴォの大統領公邸に居座り続けました。また、プーチンは大統領就任以来、「大統領とロシア国民とのテレビ対話」という番組に出演しており、タンデム期にはメドベージェフが出演するかと思いきや、番組名が「首相との対話」に変更されて相変わらずプーチンが出演し続けました。

「大統領とロシア国民とのテレビ対話」(2016年)
公共放送「第1チャンネル」で放送されている、ロシア全国から集められた200-300万件の質問の中から、プーチンが適当なものを選び、質問者と直接対話するという番組。プーチンはプロパガンダの手段として、テレビを最も重視している。
By Kremlin.ru, CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=48187804

ロシアにおける大統領と首相の役割分担は、前者が国内外政策全般、特に外交と国防を司り、後者は内政を司るというものでした。しかし、タンデム期のプーチン首相は社会経済分野のみならず、外交・国防にも口をはさむようになっていました。先述のリビアへのNATO軍事介入への批判に加え、2011年秋にはモンゴルや旧ソ連諸国による政治、経済、安全保障の統合を目指すユーラシア連合を提唱しました。

ユーラシア関税同盟
2010年に誕生した、旧ソ連構成国5ヶ国による経済連合で、ユーラシア連合はこれを基礎として発展させる構想。特に重要視されたのがウクライナの加盟可否であり、2011年以降、ロシアはウクライナへの圧力を強めた。
By Leftcry - This vector image includes elements that have been taken or adapted from this file:, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=36851814

こうしてみると、タンデム体制の舵取りをしているのは、大統領のメドベージェフではなく、首相のプーチンであるように見えます。両者の間では意見の相違や食い違いがありましたが、13歳も年下で、強固な支持基盤を持つわけでもなく、長年忠誠心を示してきたメドベージェフが、プーチンに逆らうのはありえないことでした。

2011年9月24日、プーチン首相は2012年大統領選挙への立候補を表明し、当選後は首相にメドベージェフを指名すると約束しました。両者の間での公職ポストのスワップ(交換)が行われることとなったのです。この発表は完全に二人の間だけで取り決められたらしく、大統領報道官のドミトリー・ペスコフですら、「この決定をそれが発表されたときに初めて知った」と述べています。こうして、プーチンは再び大統領に復帰することとなりました。

6.まとめ

リベラル派のメドベージェフが打ち出した「近代化」路線でしたが、現在に至るまで改革は思うように進んでいません。ロシア経済の中核をなしているエネルギー企業は、「プーチンのお友達」と呼ばれる側近集団が経営者を務めており、経済改革は彼らの利益を削ぐ可能性があったためです。今日まで、ロシア経済はメドベージェフが原始的と批判した資源依存体質のままとなっています。

タンデム期に明らかになったのは、現代ロシアでは憲法の規定よりもプーチンという個人の影響力がいかに大きな力を持っているのか、ということでした。憲法の上では大きな権力を有しているはずの大統領は、「部下」であるはずの首相と相談なしには何を決めることもできませんでした。ロシアはプーチンを中心とした統治体制「プーチノクラシー」であるといっても過言ではないのです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

◆◆◆◆◆

前回

次回


この記事が参加している募集

#世界史がすき

2,719件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?