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三線音楽の始祖、赤犬子

「赤犬子」
アカインコと読む。
沖縄の三線音楽の始祖とされている伝説上の人物と言われていたり、文献によっては赤犬子のモデルになった人物もいるようだ。
琉球王国時代に隣国と交流を深める役割を果たし、実在したような史料は無いものの、「おもろそうし」という古い歌集でも度々登場する。
沖縄県の読谷村は赤犬子が余生を暮らした場所であり終焉の地とされている。その終焉の地は、現在では拝所(赤犬子宮)として参拝できるようになっていてる。
また、毎年3月4日のさんしんの日には、この場所で奉納芸能が奉行されるくらい歌三線の聖地とされている場所だ。
歌三線の道を突き進んでいる私としては、一度は訪れたかった。

赤犬子宮は読谷村楚辺(そべ)地区にあり、県道から脇道に入り、どんどん進むと行き止まり、突然石段が現れる。その石段を登りきった先にあった。

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鳥居の前に立つと目の前には10畳ほどの拝所があり、その中央には観音扉が目をひく赤瓦屋根の拝殿が鎮座している。
太陽の光が優しく差し込み、美しく宮の隅々まで温めていた。

ずんずん進もうと思った矢先、ふと鳥居の柱に手書きの注意書きが目に入る。そこには「掃除をしてからお参りしてください。」とあり、ホウキとチリ取りがくくりつけてあった。
分刻みの予定の中に「拝所の掃除」の予定を入れていなかったが、三線の祖を前に無視するわけにもいかず、鳥居の周りの落ち葉をササッと掃き掃除だ。
これも歌三線上達のためなら容易いことである。

適当な、否、手早い掃除を終えて拝殿の前に立つ。
赤瓦の朱は夏空に明るさを増し、石で作られた観音開きの扉の向こうからは今にも赤犬子の歌と三線が聞こえてきてもおかしくない空気の振動を感じた。
私が毎日のように弾く三線の音はここから海を渡り、ずーっと響いて私のところにやって来たのだ。

私は「これからも歌三線を続けます。見守っていて下さい。」と手を合わせた。赤犬子に誓ってしまったからには死ぬまで歌三線と共に生きる。

どえらい事を宣言してしまったと我に帰る頃、ガヤガヤと人の動く音を感じて振り返ると、参拝者であろうか、数人の男性達が石段を上がる姿が見えた。翌日、琉球古典芸能コンクールの付き添いで琉球新報ホールを訪れると、彼らは袴姿で真剣に三線を弾いていた。その姿は赤犬子宮で見た時とは比べものにならないくらいに大きく見え、視線を上げて、今の実力を余すことなく出し切ることに集中していた。
それが今でも印象的に残っている。

実在するかしないか、分からなくとも赤犬子宮は歌三線の聖地なのである。

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