琉球伝統菓子にふれて・その②
再び本家新垣菓子店を訪れることが出来たのは、2年後のことだった。
店に入れば目の前には、ちんすこうや花ボールが並ぶショーケースがドンと待ちかまえている。
大人2人ほどが入れば狭さを感じる店先ながら、その無駄の無さに琉球から続く製法を守り貫く潔さはお取り寄せした菓子の味に通づる。
「昔からこればっかり作ってて、派手さはないんだけどね。これしか作れないから。家族だけでやってるから量も作れないしね。」と笑顔で接客してくれたのは私とそう変わらない年の女性であった。
家族経営の一端を担う女性の飾り気の一言は余計なものが入らない菓子たちそのものを象徴していた。
昨今、和菓子離れだの新食感次世代スイーツだの、日本初上陸スイーツだの、菓子を取り巻く環境は何かとうるさい。
老舗の菓子店も、味やパッケージ、ところによっては店構えもガラリと今風に新装して新規の顧客獲得に躍起になっているように見える。
新しい挑戦や変化は、時代を生きる必須テクニックであることは確かだ。
しかし新規顧客に媚びることとは、全く異なる。
残念なことだが、それが蔓延しているのが令和である。
反省すべきは私たち消費者だ。
だから自業自得である。
昔ながらを古くさいと毛嫌いし、キラキラした映えや未体験の味わいに酔った。
本家新垣菓子店の菓子は何も言わずに本質の忘れやすさを歴史と味で伝えていた。
私は本家新垣菓子店の方がおっしゃっていた「これしか作れないから」と言う一言が忘れられない。
改めて見事なちんすこうや花ボール、ちいるいこうを食べる。
琉球菓子たちは「これしか作れないんじゃない、これほど見事な菓子が作れる。これが本家新垣菓子店の仕事だぞ。」と代弁しているように思えて仕方なかった。
いつ年が過ぎようとも志は変わらずにまっすぐ進む。
この文章を書いている側では夫は何か言いたくて仕方がない様子である。
ちいるんこうの奥深さはそんなもんじゃない云々かんぬん。どうやら、ちいるんこうに並々ならぬ想いがあるようだ。
そういえば彼は、琉球王朝菓子の本やレシピを那覇の古本屋から取り寄せたり、図書館やインターネットでちいるんこうに関するを記事を食い入るように調べていた。
彼の訴えを要約するのであれば、「ちいるんこうは琉球の宝である。ちいるんこうを作る工程は非常に高い技術を要する。とても素晴らしい菓子である。何店舗かのちいるんこうを食べ、どの店も素晴らしい。ただ本家新垣菓子店のちんるんこうは頭一つ抜きん出ている。」ということだ。
正直に書くが、私はそこまで熱い思いはない。
しかし、本家新垣菓子店に学ぶ温故の向き合い方を時々思い出しては、新しいモノに飛び付こうとするフワフワする気持ちに気づく事が出来るようになった。
おわり