医者が病院を辞めた後③

いかなる問題も、その問題を生み出したのと同じレベルの意識では、解決することはできない。

アルバート・アインシュタイン

僕は今、医業としてはわずかに仕事を趣味として行っているにすぎません。
ほとんどは、物思いに耽ったり、運動や読書や勉強や散歩をしながら、人生のパートナーである鳥と過ごしています。

病院を辞めた後、どんなことに気づいたのか、お話ししていこうと思います。

今回語る、気づいたこととは、多くの問題はすでに解決がほぼ無理、ということです。

意味がわからないと思うので、言い換えると、

そんなに簡単に問題を解決するシンプルな方法があるなら、もうとっくに思いついてやっているということです。

医療現場では、膨大な数の問題がありますが、ほとんどは、プロジェクト、メカニズム、慣習、社会感情、利害関係、人員配置、資源、ルール、経済などがガチガチに組み上がってしまっています。

人間関係に例えると、ボタンの掛け違いみたいなものです。相手に言われた悪口は、遠い昔、自分が相手にとったぞんざいな態度があったからだったりしますが、その元を辿ると、相手が自分にした態度というふうにずっと続いていきます。

散らかった部屋に例えると、片付け、断捨離、掃除のどれか一つでもやろうとすると、そもそもものを一時的に置いておくスペースすらないので、他のどれかをやらないと進まなくなり、うまくいかない状態です。

ここで一つの医療でのシナリオを想像してみましょう。

ある稀な病気で困っている患者がいたとします。その病気は死に至る人「も」いるとします。

ある医者は、患者さんのために頑張りたいと思っています。そのために、小学生の時みんなが遊んでいる時算数の問題集を解いて、大学入試の面接で自分の意気込みを語り、医学部の試験を潜り抜けてきたんですから。

ところが、困ったことに、
この病気を持っている人が100人いたとして、100人とも同じ症状が出るわけではないことがわかりました。
中には症状が出ない人もいるのです。

ここで、医者は思います、
死にいたる人もいるわけで、その人を救うためには、早期発見したり、予防的な薬を投与したりして、発症の芽を摘み取ればいいのではないか。

早期発見する検査(スクリーニングと言います)を多くの人に受けてもらうことにしましたが、
稀な病気を発見するために、膨大なスクリーニングをすることになります。

検査が多すぎて、医療現場が疲弊してきました。医療費もかかってきました。

しかも、スクリーニング検査が陽性になった人は、次の精密検査を受けてもらうことになるわけですが、
その精密検査は完全に安全ではなくて、当たりどころが悪いと、重大な副作用で死んでしまうのです。

では、もっと検査の精度を上げられないかという研究をしようと思います。
そんなに全てを解決する検査方法は見つからないので、
複数の検査を組み合わせたり、点数化して病気のリスクを測ったりします。

でも、どこまで行っても、病気になる、ではないとは安全な方法で確実に断言できないという問題が残り続けます。

これではみんなが不安です。

ただし、精密検査を受けると、死んでしまう可能性があるからといって、一度始めたスクリーニング検査をやめるわけにはいきません。
だって、その検査で病気が早期発見され、長生きできる人もいるんですから!

一方で、個人の自由に任せるのもおかしな話、と叫び出す人もいます。
病気の知識のない人が受けないで、病気で苦しむかもしれないじゃないですか!

さてどうしたことでしょうか。医者は、病気で苦しむ患者さんみんなを救いたいと思ってきたのにです。

これも一つのシナリオですが、医療の問題ってこんな程度のものばかりです。
どうやったらうまい方法で解決できるか、ばっかり考えています。

そんなものは存在しません。

このアプローチでの解決はもう無理です。

もうそのレベルにはいません。

あったら、とっくに思いついているはずです。こんなに多くの人が取り組んでいるんだから。

この医者の思っている前提だったり、人々の思惑だったり、希望だったりをベースに、物事の解決方法を考えると、
指数関数的に、判断及び検討すべきポイントが増えていくことがわかると思います。つまりサブプロブレム(問題に付随する問題みたいな意味)が増殖していきます。

膨大に増えた懸案事項に埋め尽くされた後で、パンクし、問題が表面化して解決したいと思う頃には、マイナーチェンジでは解決できません。

で、実際に、ある時外科手術よろしく、荒療治に乗り出すとします。医師の残業規制のように、一律に基準を設定するとします。

じゃあ、残業の制限があると医療過疎地での救急医療は崩壊してしまうかも?研究の時間はどうなる?技能向上のための勉強の時間は?学会発表の時間は?生活のためのバイトの時間は?みたいに副作用が噴出します。

つまり、解決しようとして一部を無理に変更すると、予測不能な副作用が起こるかもしれず、身動きが取れない状態になりがちです。

元々のボタンのかけ違いは何だったのかと紐解いていくと、例えばこのシナリオでは、患者”全員”のためにという設定がそもそも現実にそぐわないのに、勝手に人間が考えて決めてしまったりしていますよね。ここです。

個体差も大きい全数サンプルに対して、一つの基準をクリアするように思い立つこと、さらに目的論的に色々行動すること自体が間違いなことが多い。

いちいち人為的に問題を定義したり、闇雲にスキームを作ったり、やたらと前提を作ったりしなければ、複雑になる前に問題が解決できたかもしれない、ということに僕は気づきました。

そもそも、そんなしょぼい設定は、忙しく余裕がない人間社会の中での発想なんだと思います。

途方もない時間があると、果たして現実として機能するかな?といったことまで必ず想像したくなるんです。

なぜか、多分ですが、時間があると時間感覚が変わってくるからだと思います。
ルーチンを朝から夕方までこなすと一昨日と三日前の区別がつきにくくなりますが、

毎日時間があると、自由に行動するので、1日1日が異なる感覚が強くなります。そうなると、明日も明後日も未来はいろんなところを旅するような感覚になり、自分という存在が過去から未来に強く連続しているように思えてくるんですよ。

話を戻すと、現実として機能しないものをやり始めたら、やがて自分に降りかかってくる想像がリアルにできてしまうじゃないですか。

複雑な事柄を、リアルワールドに対して判断力を完全に失った人間が、自分のできる範囲で非現実的にシンプルに考え始め、システムをデザインしでかすことで、後々、複雑性に飲まれてしまう。

散らかった部屋とおさらばするには、片付け、断捨離、掃除のどれをやるべきかをごちゃごちゃ考えるより、まず広い部屋に引っ越ししなくてはいけないのかもしれません。

続く