広島とガザを併置するのは正しいのか?
この記事の要約
ノーベル平和賞の受賞を知らされた会見の席で、日本被団協の代表委員はガザと広島が「重なりますよ」とコメントした。それに対して駐日イスラエル大使が反発し、ガザと広島の「比較」は「不適切」であると批判した。これはイスラエルによるガザ侵攻を正当化するプロパガンダなので、深く取りあわなくてもよい。
しかしながら、一方でガザと広島を併置するのは本当に正しいのだろうか、との問題は別個に取りあげなくてはならないだろう。(被団協代表委員に向かって批判を投げかけるのは正直心苦しいのだが)筆者にはこうした併置が正しいとは思えない。当時の広島では、強制徴用されてきた朝鮮人が軍需工場で働かせられており、彼らもまた原爆の被害に遭った。それに対してガザは、イスラエルにほぼ一方的に迫害されている土地である。そういった文脈を踏まえるのであれば、ガザと広島の併置は適切ではない。
なにより、こうした併置はともすると歴史の認識を誤らせ、まるで日本が全面的な被害者であるかのような意識につながりやすい。自国を全面的な被害者とみなすと、自国の加害の歴史をないものとして扱ってしまいかねない。
韓国の歴史家イム・ジヒョンは、こうした意識を「犠牲者意識ナショナリズム」と呼んでいる。彼はその一例として1962年に敢行された「広島-アウシュビッツ行進」を取りあげ、行進団が広島の原爆被害を世界に知らしめようとしていたはものの、一方でシンガポールで行われた日本軍による華僑虐殺の内実についてほとんど知らず、典型的な犠牲者意識ナショナリズムに捉われていたと指摘している。
被団協のノーベル平和賞を祝福するのはもちろん結構な話だ。しかしながら、そうした祝福が自国の被害の歴史ばかりに注目する一方で加害の歴史に目を向けない被害者意識のもとに行われるならば、あまり健全な話ではない。本稿は犠牲者意識ナショナリズムの危険性について分析しつつ、日本社会がこれについて警戒を怠っているのではないか、と警鐘を鳴らす目的で書かれたものである。
1.ノーベル平和賞をめぐって起きた事どもについて
1-1.被団協への平和賞授与はロシアやイスラエルへの牽制になるか?
周知のとおり、今年のノーベル平和賞は日本原水爆被害者団体協議会に授与された。
率直に言って、筆者は最初発表を聞いたときがっかりした。パレスチナの平和活動家、もしくはイスラエルの反体制活動家に送られないものかと(きっとありえないだろうとは薄々思いつつも)期待していたからだ。
今回の発表を受けて日本では、被団協にノーベル平和賞を送ることで間接的に核兵器を保有するイスラエルの牽制になり得る、との意見も聞かれた。しかしながら、筆者としてはそんな考え方は気休めにしかならないと思う。本当にイスラエルを牽制したいのであれば、紛争の当事者ではない日本の団体に授賞するのではなく、直接イスラエルで闘っている活動家にこそ送ったほうがいい。
それに、発表から一ヶ月ほど経った現在においてもパレスチナやレバノンなどで繰り広げられている戦闘が収まっていない事実を踏まえれば、間接的な牽制になんて大した効果はない。その点で言えば、BBCの報道どおり「議論を呼ぶ候補を避けた」結果被団協が受賞した、と考えたほうが自然だろう。
第一、被団協の受賞が本当にふさわしいものだと考えるのであれば、わざわざガザに触れる必要はない。核兵器廃絶に尽くしてきた被団協の功績を堂々と称揚するだけでいい(なんなら、被団協は以前から平和賞の候補になっていると噂されていたのだから遅きに失した、とむしろノーベル委員会を批判したっていいくらいだ)。
にもかかわらず、今回の受賞はイスラエルへの牽制になり得る、と申し訳程度につけ加える人は、実のところ物足りなさを感じているのではないだろうか? これだけ世界的に報道されている戦争や紛争が続いているのならば、当事国出身の活動家こそが受賞すべきだったのに、思わぬ形で日本の団体が受賞してしまった。そんな決まりの悪さをせめて和らげるために、この受賞は今の世界情勢にもきっと役立つはずだ、と無理な意味づけをしているのが本当のところなのではないだろうか?
1-2.被団協代表委員の感動的な言葉
筆者は発表後、そんな風に心のなかで毒づいていたのだが、あるニュースを見て考えが変わった。日本被団協代表委員の箕牧智之氏は受賞後のインタビューで、以下のように述べた。
正直に言って、筆者はこの言葉を聞いて救われた思いがした。もしも彼がこう言ってくれなければ筆者は、日本の団体が世界的な賞を受賞したという祝賀ムードのなかで居心地悪く過ごさなくてはいけなかっただろう。本当ならパレスチナの平和活動家こそ受賞すべきだったのに、と言葉を呑みこみつつ。
そんな中で箕牧氏が、ガザで懸命に活動している人が受賞すると予想していた、と言ってくれたおかげで、やっぱりそうだよな、と勝手ながらお墨つきをもらったような気分になった。
考えてみれば、箕牧氏は過去に広島で行われる平和記念式典にイスラエルの招待を取りやめるよう要請していた人でもあった。
これらの事実に鑑みて、筆者はやはり被団協に平和賞が送られてよかったのではないか、と考えを変えた。どうせノーベル委員会は腰抜けだから、パレスチナの活動家に平和賞を授与することはないだろう。それができないならばせめて、世界単位での平和実現を志している候補に平和賞が送られることで地道な一歩が刻まれたほうが良い。
もちろん、被団協が長年他の団体との分裂や軋轢に苦しみながらも核廃絶を訴えつづけてきたことはすばらしい。だが、現在進行形で暴力や弾圧に抵抗している人々に思いをはせながら、自分たちに与えられる栄誉は本当なら彼らにこそ与えられるべきだったのではないか、と平和実現を一国単位ではなく、世界単位で考えようとする姿勢はそれ以上にすばらしい。そんな風に考えなおさせられたからこそ、筆者は被団協の受賞を素直に喜ぶ気持ちになれた。
1-3.平和賞受賞に容喙してきたイスラエル大使
……が、その数日後に筆者は事態を考え直さざるを得なくなった。きっかけは、駐日イスラエル大使のギラッド・コーヘンが以下のようなツイートを投稿しているのを見たことだった。
先に言っておくが、こんなものはプロパガンダ以外の何物でもない戯言だ。また、先ほども取りあげたが、箕牧氏が率いる広島県被団協はイスラエルの記念式典への招待を取り下げるよう要請していた過去がある。それに対して私怨を抱いた末に意趣返しをした、とみなしても、さして的を外していないだろう。その程度の感情でしか動いていないような人間の意見になんて、間違っても筆者は賛同しない。
だが、筆者はこの投稿を見て思わず「あっ」と声を上げてしまった。きっとこの投稿がなければ筆者は、「ガザと80年前の日本の比較は、不適切かつ根拠に欠けてい」る可能性に気づかないままだっただろう。
厳密に言えば、箕牧氏は別にガザと日本の「比較」をしているわけではない。どちらがひどいとか、同じくらいひどいとか言った話をしているわけではなく、あくまでも「重なりますよ」と二つの出来事の併置をしているだけである――もっとも、そう捉えたとしてもなお問題は残る。
言うまでもない話だが、ガザと日本の併置が不適切なのは、この大使が言うようにハマースが極悪な存在である一方で日本が善良な存在であったからではない。実際は違って、日本こそが80年前の戦争においては極悪な存在だった。
当時の大日本帝国は朝鮮や台湾、満州など数多くの海外領土を支配する国だった。それに対して、現在のパレスチナはイスラエルに支配される側の国である。この事実だけを見ても、日本に落とされた原爆によって生まれた被害者を、ガザの被害者と併置することは、かならずしも不可能とは言わないが、注意を要すると言わざるをえない。
以上のことに思い当たって、筆者は盲点を突かれた気分になってしまったのだ。不倶戴天の敵に、自分の不明を思い知らされることほど嫌な体験はない。実に忌々しい話だが、認めるべき失態は認めなくてはならない。筆者は、広島にもガザの動向を見守りながら暮らしている人がいると知った喜びに捉われるあまり、「不適切」な「比較」を見過ごす過ちを犯していたのだ。そして、よりによってイスラエル大使のプロパガンダをきっかけにその錯誤を思い知らされるほどに迂闊だったのである。
2.広島とガザを併置するのは正しいのか?
2-1.イスラエル大使の投稿がプロパガンダである理由
そもそも、なぜ件のイスラエル大使の投稿はプロパガンダだと言えるのか。それは、彼が諸々の文脈を意図的に切り離しながらハマースを非難しているからだ。
コーヘンはハマースがガザの「市民を人間の盾にするという」罪を犯していると告発しているが、現実にはイスラエル軍こそがパレスチナ人を「人間の盾」にしている。
また、彼はハマースによって「女性や子どもを含む1,200人が殺害され、251人がガザへと拉致された」ことを指摘しているが、一方で「女性や子どもを含む」4万人以上のパレスチナ人がイスラエルの侵攻によって亡くなったことには触れていない。それ以外にも、イスラエルは2023年10月7日以前から多くのパレスチナ人を行政拘禁に処し、収容者に拷問を課している。
イスラエルがパレスチナ人に対して犯している罪に触れず、一方でハマースの暴挙をことさらに取りあげるのは、自国の侵攻を正当化しようとするプロパガンダ以外の何物でもない。我々は今回のガザ侵攻の文脈を知っているからこそ、イスラエル大使の欺瞞を軽々と見抜けるのである。
2-2.80年前の広島はどのような土地だったか?
現実に起きていることの背景を知ることは、かようなまでの効用を有しているのだが、ならば一方で我々は、日本の原爆被害の背景も見なくてはならないだろう。片方を効果的な手法で咎める一方で、もう一方を同じ手法で咎めないのは公平ではない。
公平でないだけでなく、ともすると我々は例のイスラエル大使と変わるところのないナショナリストになりかねない。ジョージ・オーウェルは、ナショナリストは他国が犯す悪行には目ざといくせに、自国が犯す悪行には鈍感になってしまうと述べている。
ならば我々は同じ穴の狢になってしまわないためにも、イスラエルの暴挙を知るだけでなく、当時の広島がいかなる土地だったかを知らなくてはならないだろう。なにより、それをあらかじめ知っておけば、広島とガザを併置することが果たして適切かどうかの検討はより捗るはずである。
そもそも、なぜ原子爆弾は広島に落とされたのだろうか? 一つには当時の広島が軍都だったことが挙げられる。
大日本帝国の版図拡大は、朝鮮や清などといった大陸にある諸国への侵略から始まるが、この際に重要な役割を果たしたのが当時竣工して間もなかった宇品港だった。大陸に向けて軍隊や物資を輸送する場所として恰好の位置にあった広島は、帝国の膨張にともなって一気に存在感を高めていく。日清戦争の際には大本営が置かれたこともあった。
その重要性は宇品港から広島港へと名前を変え、日中戦争や大東亜戦争に際しても変わることがなかった。特に後者の戦争末期にあっては他の軍事都市が空襲などで機能を麻痺させる中、(アメリカの策略のために)かろうじて空襲を免れていた広島は苦戦が続く大日本帝国軍を支える命綱ともいえる存在だった。
引用の最後にあるとおり、軍都広島で働いていた人々は日本人に限らない。強制的に徴用された朝鮮人も含まれていた。このような形で人員を集中させ、戦争継続にあたってなくてはならない役割を果たしていた経緯を踏まえるのであれば、広島という都市が罪なき存在であるとは到底言いきれない。そして、アメリカの原爆投下もまた、こうした軍都としての機能を破壊するのを一つの目的としていたことは認めなくてはならないだろう(注1)。
なにより、一説には14万人を超えるとされる原爆投下による死者のなかに、少なからぬ朝鮮人が含まれている事実を踏まえるのであれば、日本を全面的な被害者と見なすことはますます難しくなる。言うまでもないが、被爆者の中には強制徴用によって軍需工場で働かされていた朝鮮人もいた(また、朝鮮人と同様に見落とされがちな中国人被爆者がいることも忘れてはならない)。
京畿道原爆被害者協議会会長のパク・サンボク氏は、徴用工として広島で働かせられ被爆した父について以下のように証言している。
2-3.イスラエル侵攻以前のガザはどのような土地だったか?
これに対して、パレスチナはどうだろうか。
たしかに、今般のガザ侵攻がハマースによる民間人を標的としたテロをきっかけとしているのはゆるぎない事実だ。イスラエル大使はガザがハマースによって支配されていると述べているが、一方でパレスチナの人々がハマースを強く支持していることも疑いえない。
たとえば、今年の5月26日から6月1日にかけて行われた世論調査では、ハマースという組織や、彼らが打ち出す武装闘争の方針を支持する意見が多数を占めた。これは10月7日からほぼ一貫して見られる傾向である。
諸々の事実を考慮するのであれば、ガザもまた完全なる無罪の土地とは決して言いきれないのはたしかだ。
とはいえ、それは2023年10月7日以降の経緯しか考慮しないうえで下される拙速な判断に過ぎない。ガザの置かれた状況を見極めるためには、侵攻以前の文脈も踏まえる必要がある。
ガザが今日のようにフェンスや壁で封鎖されたのは2007年にさかのぼるが、以来人々は生き地獄ともいえる環境に置かれてきた。他国との関係どころか、もう一つの領土である西岸との連携すら絶たれた中でガザは限られた領土内のみで経済活動を行わなければいけないが、一方で産業を成り立たせるためには外からの物資に頼らなければならない。しかし、ガザへの物資の搬入はイスラエルによって厳しく制限されている。
こうした厳しい環境の中でどうにか産業を作り上げても、イスラエルから何度となく空爆されるせいで建物や工場はその都度破壊されてきた。ガザの経済は、まるで賽の河原で石を積み上げるような16年間を送ってきたのだ。
経済がまともに成り立たないのだから、ガザの失業率は極めて高い。ガザにまともな仕事がないのならば、出稼ぎに行くという手もなくはないが、これについてもイスラエルは検問所で厳しく出入りを制限しているため、封鎖後は「月平均1900人」程度しか出域できないという。フェンスや壁を乗り越えて不法侵入する例も少なからずあるが、それによってイスラエルに収監される人々も少なくない。
その結果、侵攻以前のガザの貧困率も高い水準を記録しつづけていた。安価なパンや砂糖、食用油などでカロリーを補わざるをえないので糖尿病罹患者も多い。水もイスラエルによって供給が絶たれているので、汚水や海水を呑まざるをえない人もいる。
劣悪な生活環境のなかで、ほとんどの住民は何かしら体調に異変をきたす病にかかっているが、医療体制もまた劣悪というほかない。
アメリカの政治経済学者サラ・ロイが「反開発」と形容するこうした閉塞的な状況のなかで、イスラエルへの武装闘争を一貫して標榜し、パレスチナの解放を主張するハマースに人々が希望を託すのは、いたって自然ではないだろうか? 国際社会がまともにイスラエルの横暴を制御できていない中で、生殺しの状況に置かれたパレスチナ人がせめてもの抵抗として武装闘争に活路を見出そうとするのは自然なのではないだろうか?
繰りかえしになるが、民間人を巻きこんだ上で人質を確保し、イスラエルとの交渉を策謀したハマースの手法は罪深い。だが、それ以上に罪深いのは、地域一帯をフェンスや壁で封鎖し、厳格な出入域管理やインフラの破壊などで人々を劣悪な生活環境のなかに閉じこめようとしたイスラエルの政治手法なのではないだろうか? 直截に言えば、イスラエルがガザをこのような状況に置かなければ今般の侵攻はなかったのではないだろうか?
そして、こういった背景がある中でイスラエルによって殺戮されていく人々と、アメリカの原爆によって殺戮された広島の人々を併置することは、本当に正しいのだろうか? 隣国から一方的に迫害されたあげく殺戮されていく人々と、侵略した隣国から連行してきた人々に戦争継続の片棒を担がせた上で殺戮された人々を併置することは、本当に正しいのだろうか? 筆者には、まるで正しいとは思えない。
2-4.被団協は大日本帝国の罪と向き合っている、が……
念のために付け加えなければならないが、被団協が大日本帝国の罪と向き合ってこなかったわけではない。というかむしろ逆で、日本においても韓国においても、そして北朝鮮においてもともすると等閑視されがちであった朝鮮人の原爆被害と真摯に向き合ってきた人々こそ、被団協なのである。
たとえば、日本被団協の代表委員を20年にわたって務めたこともある伊東壮は、早くから朝鮮人被爆者に同情を寄せた人だった。
また、12月に行われる予定のノーベル平和賞授賞式には31名の被爆者、および被爆2世が出席する予定だが、そこには韓国原爆被害者協会長のチョン・ウォンスル氏も含まれている。
ハンギョレ新聞はノーベル委員会が発表の際に朝鮮人被爆者に言及しなかったことを批判しているが、一方で被団協は朝鮮人もまた忘れてはならない被害者であるとの認識をしっかりと持っていると言えるだろう。
このように、日本被団協はそんじょそこらのナショナリストと違って、大日本帝国が犯した罪に正面から向き合っている団体である。したがって、日本の爆心地にいた子供とガザの子供を比較したことをもって、すぐさま日本の罪と向き合っていないと断じるのは早計にすぎる……というか、間違っていると断言してもいいだろう。
……それはそうなのだが、一方でやはり広島とガザを単純に併置するのは軽率だったとの印象もぬぐいきれない。もちろん、会見の映像を見ればわかるとおり、箕牧氏は予想外の受賞の報に接した驚きや嬉しさ、そして積年の苦労が報われたとの思いがないまぜになった結果だろうか、号泣するあまり途切れ途切れの言葉しか発せなくなっていた(率直にいって、筆者も彼の身振りに感動させられた)。そうした冷静でいられなくなった状態にあった人に対して、まるで違う二つの対象を不適切にも比較した、と難じるのは酷というほかない。
しかし、一方で感情がむき出しになるあまり、思考や発言をコントロールできなくなる状況においてこそ、人間の悪癖が露わになりやすいというのもまた否みがたい事実である。
誤解のないように言っておくが、筆者は箕牧氏の人間性を批判するつもりは一切ない。それどころか、彼の人間性には敬服している。だが、そんな敬意を寄せるべき人でさえも、ふっと油断すると捉われてしまう悪癖がこの世には存在するのである。あとでくわしく論じるが、それは誰しもが捉われうる悪癖であって、個人の問題に帰すことはおそらくできない、人類の宿痾とでもいうべき課題である。
では、その悪癖とは何か? 自国の被害と他国の被害を無批判に並べ、本当にそれらは併置できる対象なのか、との疑いを忘れ、いつしか両者の背後にあったはずの文脈さえも忘れることである。
自国の被害の記憶を思い起こしたうえで、現在進行形で起こっている他国の被害に共感を寄せる行為自体は批判されるべきではない。広島とガザでは多くの人々が亡くなったし、かろうじて生き残ったとしても人々は家屋や家族を失った。広島では原爆症に悩まされる人々がいたし、ガザでは飢餓に苛まれる人々が取り残されている。
それだけを見ると、両者は似ているように思える。だが、そうした表面上の要素だけを見ていては、その二つの場所がどうしてそうなったか、という文脈を切り捨ててしまう危険性が否めない。
広島をガザと近づけすぎてしまうと、まるで広島の人々を全面的な被害者かのようにみなすことになりかねないし、ひいては大日本帝国の罪を閑却してしまう。一方で、ガザを広島と近づけすぎてしまうと、まるでガザの人々はハマースを狂信的に支持しているかのようにみなすことになりかねないし、ひいてはそもそもの元凶であるイスラエルの罪を正しく見極められなくなってしまう。
異なる二つの対象を併置することで新たな認識が生まれるメリットはある。だが一方で、部分的にしか似通っていない対象を併置してしまうことで、それぞれの対象がもともと持っていた問題の検討を怠ってしまうのであれば、(その比較がたとえ善意に基づいているものであろうと)弊害は否めないだろう。
3.「犠牲者意識ナショナリズム」という悪癖
3-1.他国との類似を誇張するナショナリストの手口
先程筆者はオーウェルの「ナショナリズム覚書」を引いたが、そこでは「ナショナリストには、一連の事実の集まりの間に存在する類似性を無視する能力がある」と指摘されていた。
しかしながら、他にも注目すべきナショナリストの能力があるのを指摘しなければいけない。それは、「一連の事実の集まりの間に存在する類似性を」誇張する能力である。
たとえば、ガザ侵攻が始まって間もないころにイスラエルの首相ベンヤミン・ネタニヤフは、ハマースによる奇襲攻撃を日本が引き起こした真珠湾攻撃になぞらえている。
言うまでもないが、10月7日の攻撃と12月8日の攻撃は単に奇襲という類似点を持っているだけであって、パレスチナと大日本帝国、そしてイスラエルとアメリカはそれぞれ違う状況に置かれていたのだから、それらを併置するのは適切ではない。
しかし、ネタニヤフはそんなことは百も承知でこうした併置を行っているのだ。彼はこうした類似点をことさらに強調することで、自国の罪に注目を向けないようにする。あけすけに言えば、犠牲者であることを強調して自らの加害性を打ち消し、世間から同情を得ようとするのである(このケースで言えば、アメリカの被害の記憶に訴えることで支持をとりつけやすくするという狙いもあるだろう)。
3-2.『犠牲者意識ナショナリズム』の画期性
こうしたナショナリストの手口を様々な事例を挙げながら鋭く分析した本として、韓国の歴史家イム・ジヒョンが書いた『犠牲者意識ナショナリズム』が挙げられる。
『犠牲者意識ナショナリズム』が画期的な書たりえているのは、従来の自国を賛美するナショナリズムとはまた違った形態をとるナショナリズムが存在する、と指摘している点である。
ふつう、我々がナショナリズムと聞いて思い浮かべるのは、たとえば「日本スゴイ」番組に代表されるような自国の誇れる点を強調する言説であろう。ナショナリストはこうした優位性を誇張することによって、他国と比べてすごい点をたくさん持っているのだから皆もっと自国を愛するべきだ、と訴えかけるのだ。
それに対してイムが剔抉したのは、被害の記憶をもとに国民の統合をはかろうとするナショナリズム、つまり「犠牲者意識ナショナリズム」と名づけられる現象がある、という事実だ。
その一例として、日本の「被爆ナショナリズム」とでも呼べるだろう現象が挙げられる。我が国では「唯一の被爆国」という言葉がしばしば聞かれる。このフレーズは、原爆を投下された国として反省のもとに平和な国を作り上げよう、とのスローガンとセットで使われやすい。こうした紋切り型を繰りかえすことで、戦争を望まない平和な日本人、というアイデンティティを作り上げようとしているのだ。
なるほど、戦争において原爆を投下された国は日本だけである。しかしながら、被爆したのは日本人に限らない。先ほど挙げた朝鮮人被爆者もそうだし、第二次大戦中から戦後にかけて世界各地で行われた核実験によって被害に遭った人々も忘れてはいけない。こうした事実に目を向けず、あたかも日本人だけが被害者であるかのように語るのはまったく適切ではない。そうした盲点に気づかないまま日本の優位性(劣位性?)を誇張する人々は、オーウェルがいうところの、「一連の事実の集まりの間に存在する類似性を無視する能力がある」ナショナリストとして分類すべきであろう(その反省からか最近では「唯一の戦争被爆国」なるフレーズが使われることが多くなってきたが、こんな姑息な変更を加えた程度で日本を特別な国だとみなす意識から逃れられないのは言うまでもない)。
また、こうした犠牲者意識ナショナリズムは、みずからを全面的な被害者とみなすことで、自国の加害の歴史をともすると忘れてしまいがちになるために救いがたい。そして同様に救いがたいのは、自国の被害の記憶を、他国の被害の記憶と無批判に重ねあわせることで誤った連帯を作りだそうと画策するところにある。
被爆ナショナリズムこそ、そうした難点をあられもなくさらけ出した例だった。
『犠牲者意識ナショナリズム』のなかでイムは、1962年に敢行された「広島-アウシュビッツ平和行進」を取りあげている。日本山妙法寺の僧侶佐藤行通を代表とする4人の行進団は、1962年2月6日に広島を出発し、ベトナムやシンガポールなどの東南アジア、インド、パキスタン、イスラエルをはじめとした中東、ハンガリーやチェコスロバキアなどといった東ヨーロッパを経由した末にポーランドに向かう計画を立てた。
イムはこの行進団について、「世界平和を追求する」と標榜していたにもかかわらず、その実冷戦の論理にからめとられていたと指摘している。
ざっくりといえば、当時のポーランドは統一労働者党が支配する「東側」の国だった。そうした場所で原爆の被害を訴えかけるのであれば、「西側」のアメリカの罪をあげつらうことで「東側」のソ連を援護する、という宣伝効果はどうしても生まれてしまうだろう。
のみならず、この4人には、時代の制約に縛られていたという瑕瑾以上の問題があったとイムは述べる。それは、過去の出来事に疎いまま無神経に日本に侵略された経験のある国に足を踏み入れたところにあった。『犠牲者意識ナショナリズム』では行進の詳細について日本語の文献は参照されていないため、外面的な情報しか言及されていない。
が、我々は幸いにして行進した人々による体験記を読める環境にいるので、イムに代わって行進団がどんな意識で諸国を渡り歩いていたのかを見ていこう。
3-3.「広島-アウシュビッツ行進」の惨憺たる歴史認識
行進団は神戸港からフランスの大型客船に乗り、ベトナムを経由したあとシンガポールに向かった。彼らはタクシーの運転手が「キョツケ」や「バカヤロ」などといった「日本軍が占領していた当時」「よく日本人が使っていた言葉」を聞きながら、セイロン寺院にたどりつき、「一〇人ばかり」の新聞記者の出迎えをうけた。
シンガポールでは彼らがやってくる以前に、「日本軍の占領当時に虐殺された人々の遺骨が」「ビル建築のために土地をならして」いる過程で発掘されていた。
佐藤行通は、航空士官学校を首席で卒業した経歴を持つ人だ。関東軍の中尉として満州に赴任したこともあり、終戦の際には降伏に反対して決起を呼びかけるも満足に賛同者を集められず、宮城前で自決しようと思ったが死にきれずに結局出家して僧侶になった。
そんな「旧歴」を持つ人が広島の被害を世界に広めるために諸国を渡り歩く、と宣言しても、侵略された国であるシンガポールの人々が冷ややかな目を向けるのはもっともな話である。大体、なぜ彼の「旧歴がばれていたのだろう」、などと驚く無神経さにこそ驚かされる。彼らは佐藤の旧歴さえ「ばれてい」なければ、波風を立てず行進を済ませられるとでも考えていたのだろうか。
なにより、行進団が大東亜戦争時に起きた出来事についてほとんど知識を持っていないままシンガポールに乗りこんでいたことにも呆れさせられる。
要するに、彼らは「世界平和を追求する」とのお題目を掲げていたくせに、当時の日本の世間並の偏狭な歴史認識しか持たないまま、かつて大日本帝国が侵略した土地に足を踏み入れていたのである(一応、彼らの名誉のために言っておけば、『広島・アウシュビッツ』には日本軍の虐殺の過程が克明に書きこまれている。帰国後相当な調査を重ねたのだろう)。
その後、(おそらく当初の予定に反して)彼らは現地華僑の商工会議所の副会頭に案内されながら遺骨が出土したシグラップに向かい、発掘作業の様子を見に行っている。ここで佐藤は僧侶だけあって「ナムミョーホーレンゲキョー」と唱えながら死者を鎮魂しようと努めているが、一方で年若い他の3人は居心地の悪さを感じながら同席していたようだ。
たしかに佐藤と違って、他の3人の生年は1936年、1938年、1939年と紹介されており、戦争当時に幼少期を過ごした「戦後派」に属する。自らが戦争に携わったという実感のなさからか、彼らは以下のような不満すらぶつけている。
彼らは華僑虐殺の責任からどうにか逃れられまいかと頭をひねっているのだが、それはそれとして、この文章の趣旨は一応理解できなくはない。彼らは戦争中少年だったのだから、直接他国に侵略したり、外国人を殺害したりしたわけではない。責任があるのは彼らの「父や兄」世代に属する人々であって、本来ならば上の世代がきっちりと謝罪や賠償を済ませていれば行進団が気まずい思いをしなくて済んだはずなのである。
……しかしながら、それを言うのならば3人の若者にとっても広島の原爆は「直接自分たちに関係あること」ではないはずだ。3人の出身地は東京、函館、舞鶴と紹介されており、いずれも原爆被害を直接受けたわけでもないし、被爆者として差別を受けたわけでもない。戦争を直接体験していないことをもってシンガポールで起きた虐殺に責任を持っていないと主張するのならば、広島の名前を背負って行進する資格もないはずである。
言いかえれば、実際に戦争に加担していようが加担していまいが、自国の加害の歴史を忘れる一方で、自国の被害の歴史だけを強調するのは不可能なのだ。そうした基本的な事実に彼らはまるで気づいていない。
その後一応、彼らは表向きは虐殺の被害者たちを追悼し、帰国後日本に「慰霊供養の大塔」の建立を要請すると約束したことで、現地の人々から感謝されながらシンガポールを後にしている。行進団の働きかけがどの程度効果を発揮したのかは不明だが、その後1966年には日本とシンガポールとの間で戦後賠償協定が結ばれている。したがって、彼らも「戦後派」なりに一定の責任は果たしたといえるだろう。
だが、その後の記述を読むと、彼らの内心は決して悔悟に満ちたものではなかったのではないか、と疑わざるをえない。シンガポールからタイ、ビルマを経由し、飛行機に乗ってパキスタンを眺める中で、東南アジアとは全然違った風景に圧倒されつつ彼らは以下のような心境を抱いている。
わざわざ一文一文を取りあげる気にもなれない文章だ。要するに彼らは、自分たちが責められるのを厭う一方で、他人の罪を一方的にあげつらいたがるコスモポリタンを気取った、しかしその実ナショナリズムにからめとられている連中だったのである。
3-4.広島とアウシュヴィッツを併置するのは正しいのか?
以上のいきさつを見るだけでも行進団の瑕瑾は明らかだと思うが、まだ指摘していない問題点はある。それは、彼らが広島とアウシュヴィッツを無批判に併置していることだ。
『広島・アウシュビッツ』のまえがきには、以下のような文言が書きこまれている。
すでに見てきたとおり、実際には広島こそ朝鮮人を強制徴用し、原爆投下に巻きこんだ「戦争による非人道的行為」を行っていた場所だった。それを踏まえれば、大量の死者を記録したという共通点だけをもって二つの地名を並べることはできないはずなのだ。
にもかかわらず、行進団は何の疑問も持たずに広島とアウシュヴィッツは並べて語れる出来事だと決めつけながら旅している(注2)。興味深いことに、彼らは神戸港からベトナムへと渡る大型客船のなかでイスラエル出身の学生と出会っている。
『広島・アウシュビッツ』ではこの後「アメリカ青年」の話が続き、「イスラエルの青年」は二度と姿を現さなくなる。諸々の史実を踏まえれば、原爆投下は単に「戦闘行為」という言葉だけで済ませられる出来事ではないとも思われるが、それでもイスラエル人の主張の大枠は間違えていないだろう。
が、行進団は彼の言い分をまともに取りあわずに済ませている。たぶん、日本出身の4人は「何を言っているのかわからなかった」ような気分でいたからこそ、以後このイスラエル人に言及しなくなったのだろう。
のちに、彼らは「トルコ船」に乗ってイスラエルのハイファに到着する。ここではシンガポールの時と同様に、多くの人が待ち受けていた。
正確に言えば、イスラエルはナチスが政権を握るまえにパレスチナで入植活動を進めていたシオニストが基礎を作りあげた国で、収容所を生き延びた人々は後で合流したに過ぎない(注3)。
それはそれとして、イスラエルの記者たちが強い関心をもって彼らを出迎えている様子を「当然であろう」と受け止めているのは注目に値する。
間違いなく彼らはイスラエルから歓迎されていると考えている。なるほど、ユダヤ人が被った迫害を取りあげているのだから、イスラエル人がこの日本からの来客に注目するのは「当然」な話だ(注4)。だが一方で、イスラエルの人々は広島とアウシュヴィッツの併置を果たして「当然」のこととするだろうか?
行進団がここではじめてユダヤ人と出会ったのならともかく、神戸からベトナムへと向かう船のなかで彼らはほかならぬイスラエル人と出会い、広島とアウシュヴィッツの併置に対して異議を唱えられていた。ならばわずかながらでも、イスラエルの人々は果たして広島とアウシュヴィッツを併置することを受けいれてくれるだろうか、と危惧してもいいはずだ。
にもかかわらず、彼らはイスラエルが自分たちに注目することをなんの疑問も抱かず「当然であろう」と受け止めている。やはり、彼らは広島とアウシュヴィッツの併置についてまったく疑問を持っていないのだ。
最終的に、彼らは年をまたいだ末に1月にポーランドに到着し、同月27日の収容所解放を記念する式典に参加する。そこで団長の佐藤が宣言文を読み上げたところで、行進の過程を記録した『広島・アウシュビッツ』は筆がおかれる。
このように、『広島・アウシュビッツ』は徹頭徹尾広島とアウシュビッツを併置することを「当然」のものとして扱いつづけている。彼らは最後まで、その併置の疑わしさについて思い当たることがなかったのだ。
終わりに
ふたたび『犠牲者意識ナショナリズム』に戻ると、イムはこのように述べている。
「互いに違う記憶を併置した瞬間、特定の記憶を浮かび上がらせ、他方で別の記憶の影を薄くする記憶政治のメカニズムが知らず知らずのうちに作動する」――これこそ、「広島-アウシュビッツ行進」を説明するにあたって最も的確な表現だろう。
重要なのは、この「メカニズム」が「意識しているかどうかにかかわらず」「作動する」ことである。ネタニヤフのように、こうした犠牲者意識ナショナリズムを意識的に利用するナショナリストがのさばっているのはたしかだ。だが一方で、行進団が広島とアウシュビッツを併置することについてまったく疑問を抱いていないように、犠牲者意識ナショナリズムは無意識にも発露しうるものなのだ。
そしてこれもまた重要なことだが、傍目から見ている人々もまた、それをナショナリズムの出現だとはなかなか見抜けない。たとえば、自国を誇る連中を目の当たりにするとき、我々はそれをナショナリズムであると比較的容易に見抜くことができる。一方で、自国の被害の歴史を取りあげる人々を目の当たりにするとき、我々はそれをナショナリズムであるとはなかなか見なしづらい。
自分の功績を誇る者を見たときに人間はやっかみを覚えるが、それに対して、自分の被害を訴える者を見たときに人間はまず同情せざるをえない。ましてや、被害を訴える者にむけて反論しようなどという気には(よほど性格の悪い人間でないかぎり)なれない。だからこそ、犠牲者意識ナショナリズムに気づくのは難しいのかもしれない。
犠牲者意識ナショナリズムは、イムも述べるとおり「精巧な理論を積み上げた物語や感性に訴える装置といった手の込んだものなしに」育むことができる。一方で、それを批判するのは相当に難しい。
犠牲者意識ナショナリズムが取りあげる被害の歴史は往々にして真実であるため、それを否定するわけには行かない。たとえば、修正主義ナショナリストが正史を否定する場合には、我々は史料などを用いて反駁することができる。だが、犠牲者意識ナショナリズムの場合は意識の問題であるため、その批判は人々の心の在り様を変えさせることが求められる難事業となってしまう。
そして、こうした犠牲者意識ナショナリズムが最も厄介なのは、自国を誇りたがる従来型のナショナリストにも簡単に利用できる点だ。民衆の「純真な好奇心から行われる」記憶の併置が、権力者によって「緻密な政治的計算の産物」へと変化すると、我々はなおさらそれに対抗しづらくなってしまう。
断っておくが、筆者は異なる出来事を無批判に併置する人々を十把一絡げにナショナリストであると見なすつもりはない。たとえば、広島とガザの子供が「重なりますよ」と言ったくらいでその人をナショナリストとみなすのは、無理筋である。筆者はそんなレッテルを貼るつもりはない。
しかしながら、諸々の無批判に行われる併置を無批判に受け止めたままでいると、ナショナリズムにまで至りつくのはそう遠くないように思える。とくに行進団に見られたような被爆ナショナリズムは、そうした無批判が積み重なった末の結果ではないだろうか?
筆者は、原爆被害や大日本帝国時代の戦争犯罪を戦後日本社会がどのように受容したかについて、詳しいわけではない。なので憶測にならざるをえないのだが、ひょっとしたら、広島とアウシュヴィッツを併置した人々は、広島を全面的な被害者だと無批判にみなす世間の空気に包まれていたからこそ、無批判に併置を行うにいたったのではないだろうか? 全面的な被害者であれば世界中の全面的な被害者と連帯できるはずだ、などと軽々と考えたからこそ、広島とアウシュヴィッツをつなぐアイディアを思いついたのではないだろうか? 行進団の犠牲者意識ナショナリズムは個人の意識の問題で済ませられる話ではなく、ひょっとしたら日本の平均的な意識を反映したものではなかったか? そんな世間の空気にあてられた末に自分たちを全面的な被害者と考えていたからこそ、シンガポールの遺骨発掘の様子を見て言葉を失う羽目に陥ったのではないだろうか?
本稿で再三言及してきたオーウェルは、ナショナリズムは「思考習慣」であると述べている。
我々はナショナリズムと聞くと、観念的なものであると考えやすい。たとえば共産主義や自由主義などといったイデオロギーは、人々の一般的な思考とはかけ離れた思考体系であるため、自家薬籠中にするにはそれなりの訓練がいる。ナショナリズムもまたそうした諸々のイデオロギーと同様に観念的なものであるとみなされがちなため、本格的にナショナリストになるにあたっては意図的な思考の変革が必要だと思われている。
実際、ナショナリズムにはそういう面があるのも否めないが、一方でナショナリストになろうと思わずとも誰もが取りがちな、小さなナショナリスティックな行為があるのも事実だ。しかもそれは、ナショナリストを蔑んでいる(「トルストイやバーナード・ショー」のような)人でさえもついつい取ってしまう、人類の悪癖とでもいうべき「思考習慣」なのである。
オーウェルは他集団を「昆虫であるかの如く分類」し蔑むナショナリストの「思考習慣」を批判しているが、別にこうした「分類」自体はナショナリストでなくても行う(注5)。たとえば我々日本人には、筋金入りのナショナリストに限らずとも韓国人や中国人、アメリカ人やロシア人、イギリス人やドイツ人……を一緒くたにして「分類」する傾向がある。ナショナリズムへの一歩ともいうべき「思考習慣」は、人間の体の中に沁みついている悪癖なのだ。
そして、本稿で得られた知見を踏まえれば、ナショナリズムへと近づく「思考習慣」はこれだけに限らないだろう。自らを全面的な被害者とみなし、加害者としてふるまった過去を無視する「思考習慣」もまた備わっているはずだし、他集団の被害の歴史と自集団の被害の歴史を無批判に併置して誤った連帯を生み出そうとする「思考習慣」もまた備わっているはずなのである。
言うまでもないが、こうした「思考習慣」にもとづいた行動をとるのはナショナリストだけに限らない。ナショナリズムを警戒している人だって自国の加害の歴史を無視することはあるし、まるで異なった二つの歴史を無批判に併置することはある。この「思考習慣」を無批判に繰りかえしているうちに、(「広島-アウシュビッツ行進団」のように)人はたやすくナショナリストに近づきうるのである。
今回のイスラエル大使のプロパガンダについて、日本の世論はおおむね批判的に対応していた(被団協の平和賞受賞に反発する右派が、イスラエル大使を擁護するという珍妙な一幕もあったが)。筆者はイスラエルのプロパガンダに簡単にだまされない人々がこれだけいたと知って、それはそれで心強く感じた。しかし、一方で広島とガザを並べることが果たして本当に適切なのか、という疑問が提起されることは少なかった。
小熊英二にいたってはこんなコメントを寄せている。
これは言いかえれば、日本が祝賀ムードに酔いしれている中で興ざめするような話をしてくれるな、ということだろう。イスラエル大使がまぎれもない「愚か」者だからどうにか成立するコメントだが、筆者からすればこれもナショナリズムスレスレの態度のように思えてならない。
今回の平和賞が「日本」被団協に送られたものであって、受賞対象の中にそれ以外の国の被爆者が含まれていなかった、と気づいたメディアが韓国にしかなかった事実も思いあわせると、筆者としてはどうしても日本社会がナショナリズムに傾いているのではないか、と思わざるをえない。
一応、今回の平和賞を伝えるときに韓国の被爆者にコメントを求めるメディアはいた。しかし、そこで取りあげられるコメントはいずれも被団協の受賞を無条件に祝福するものばかりだった。露骨に言えば、「日本スゴイ」番組で見られるような、日本の成果を他国の人々が称賛するコメントしか日本のメディアは取りあげなかったのだ。
念のために言えば、筆者はすべてのナショナリズムを批判すべきであるとは思っていない。複数の人々を統合し、なんらかの共同体をつくるためには否が応でも何らかのイデオロギーが必要になるし、その点でナショナリズムは強力な手段であることは認めざるをえない。そして、これをうまく使えば、社会を劇的に変化させられるムーブメントを醸成しうる。
今回は被爆ナショナリズムの悪しき部分に言及せざるを得なかったが、これが戦後日本において重要な役割を果たしてきたのも事実だ。たとえば、戦後日本が紆余曲折を経ながらも今日まで核兵器保有に至らなかったのは、被爆ナショナリズムの一つの功績であるし、被団協のノーベル平和賞受賞もその結果と言えるだろう。
このように功の部分がある被爆ナショナリズムであるが、やはり一方で罪の部分があることは何度でも強調しなければならない。しかし、今回の平和賞受賞にまつわるあれこれの出来事を見るに、その罪の部分は見逃されているように思われてならない。
現在世間を覆っているナショナリスティックな空気に捉われているのは、右派だけではない。左派こそが犠牲者意識ナショナリズムに敏感になるべきなのに、抵抗するでもなく、むしろ嬉々として取りこまれに行っているのだ。
脚注
(注1)もっとも、だからといって筆者はアメリカの原爆投下は正当だったと考えるつもりも一切ない。本文中でも軽く触れたとおり、アメリカ軍は広島市を(近隣の呉市や福山市などと違って)意図的に空襲の対象から外していた。それは広島を被害のない状態に留めておくことで、原爆の威力を確かめるためだったとされている。言うなれば、広島はアメリカの実験対象だったのだ(原爆の投下目標が広島市の中心部だった事実を見ればそれは明らかだ)。
また、アメリカは戦後の仮想敵として想定していたソ連を牽制する意味で原爆を投下した、との見方もある。当時のアメリカとソ連は連合国として同盟関係にあったが、とはいえ自由主義を標榜するアメリカと社会主義を標榜するソ連はどう考えても食い合わせの悪い二国だった。あくまでも反ファシズムという一点だけでつながりあっていた両者は、戦争が終われば関係を悪くする可能性は高かった。そのため、アメリカは強力な兵器を持っていることを示し、ソ連の増長を抑えこもうとするために原爆を投下したのである――そして、こうしたビジョンのもとでは日本の死者は置き去りにされている。
たとえ広島の軍事機能を破壊する目的があったからといって、他の目的、すなわち原子爆弾のような人道に反する兵器を、どれだけの殺傷能力をもっているかを確認するために使用する目的の罪がなくなるわけではない。また、存在感を示しはじめている他の大国を牽制するために原爆を投下する目的の罪がなくなるわけではない。さらには、アメリカには戦後日本を占領する過程で被爆者をモルモット扱いしたという罪もある。
いたって簡単な話だが、大日本帝国が罪深い存在だったからと言って、アメリカの罪がなくなるわけでも軽くなるわけでもない。まさか勘違いする人はいないだろうが、筆者は日本とアメリカを「どっちもどっち」として両者の罪をうやむやにするつもりはない。筆者はあくまでも両方の罪を咎めるつもりでいる。
(注2)それにしてもまことに不思議なのは、「戦後派」の若者3人はともかくとして、以下のように「人となり」が紹介されている佐藤行通は、広島とアウシュヴィッツを併置することの錯誤について本当に気づいていなかったのか、ということである。
(注3)『広島・アウシュビッツ』は行進団の若者2人(加藤祐三、梶村慎吾)によって書かれたものであるため、多少の歴史知識の不足については目をつむる必要があるのかもしれない。
それに対して、団長を務めた佐藤行通はさすがに様々な政治運動に関与しているだけあって、イスラエルの歴史を正しく知っている。
また、「エルサレムの工科大学の学生」が、イスラエルは大虐殺の二の舞を演じないためには、自分の身を守るためには自分の力で闘わなければならず、四方八方をアラブ人に囲まれている中にあってはなおさら軍事力が必要だ、と威勢よく話しているのを見て、佐藤は以下のような感慨を抱いている。
(注4)犠牲者意識ナショナリズムを語るにあたってイスラエルは恰好の対象といえるのだが、行進団が1962年にこの国に渡っているのは奇縁を感じざるをえない。なぜかといえば、この年の6月にアドルフ・アイヒマンが処刑されているからである。
犠牲者意識ナショナリズムを育むにあたって、イスラエル政府はアイヒマン裁判を最大限に利用した。この裁判の様子はテレビ中継されていたのだが、検事が「アイヒマンを有罪にするには文書資料だけで十分だった」と振り返っているにもかかわらず、実際の法廷では収容所の生存者が「62回」に渡って証言台に立たされた。それは『犠牲者意識ナショナリズム』曰く、「事実を立証することより、犠牲者の痛みを効果的に伝え、裁判を見ている人たちの感情を動かすのが目的だった」。
アイヒマン裁判以前、イスラエル建国に先んじてパレスチナへと入植していたシオニストや彼らの子孫たちは、収容所の死者や生存者たちを侮蔑していた。パレスチナへと逃げようと思えばいつでも逃げられたにもかかわらず、ヨーロッパにこだわるあまりみすみすナチスに捕まった連中だと見なしていたのである。
それが、アイヒマン裁判の際に生存者が収容所の有様などを証言したことによって、イスラエル国民の意識は変わった。証言台に立った生存者たちを自分たちと重ねあわせながら、このような残虐な出来事から我が身を守るためには勇気をもって戦わなければならない、なによりイスラエルはこうした反ユダヤ主義から逃れるために建国されたのだ、我々は自分だけでなくほかのユダヤ人を守るためにもイスラエルの名を背負って戦わなければならない、との意識を持つようになった……実際には、ダヴィド・ベン=グリオンをはじめとするパレスチナのシオニストこそがハーヴァラ協定を通じてナチスと結託していたのだし、ヨーロッパで虐殺されていくユダヤ人に対して冷淡に振舞っていたのだが。
パレスチナのシオニストがヨーロッパの虐殺をリアルタイムでどう受け止めていたかについては以前書いたことがあるので、詳しくは上の記事を参照してもらうとして、行進団もまた、イスラエルの青年から以下のような話を聞きとっている。
こうした犠牲者意識ナショナリズムからは、加害の歴史が抜け落ちている。シオニストは建国のために、現地で暮らしていたアラブ人を虐殺し、追放した。それが原因で周囲のアラブ諸国から敵意を向けられているにもかかわらず、彼らの被害者意識はそれを捻じ曲げ、ナチス同様にアラブ諸国は反ユダヤ主義に捉われているからこそ我々に敵意を向けているのだ、と思い違いをしているのである。
そして、こうした意識に凝り固まった中で極東の人々がユダヤ人の被害の歴史に注目してくれている、と知らされれば、イスラエル人が行進団を歓迎するのは「当然」なのである。他国の人々が自国の成功の歴史に注目してくれていると知るときほど、ナショナリズムが刺激される瞬間はない。これと同様に、他国の人々が自民族の被害の歴史に注目してくれていると知るときほど、犠牲者意識ナショナリズムが刺激される瞬間はない。
1962年に起きた行進団とイスラエル人の邂逅は、二つの犠牲者意識ナショナリズムが出会った稀有な、かつグロテスクな瞬間なのだ。
(注5)ついでにいえば、オーウェルもまた彼の定義に照らしあわせれば、まぎれもないナショナリストだった。彼は「ガンディーを顧みて」というエッセイで以下のように述べている。
オーウェルはここで、ガンディーのサッティヤーグラハが上手くいったのは彼が大英帝国のような温和な国を相手にしていたからであって、ソ連のような「言論の自由や集会の権利のないところ」ではうまくいかなかっただろう、と述べている。
しかし、ソ連ほどひどくはないにせよ、大英帝国もインドを統治するにあたって横暴な手段をとった国だった。たとえば、植民地政府は1919年にローラット法を制定しているが、これは令状なしの逮捕、および裁判なしでの投獄を可能にした治安維持法だった。結局ガンディーを代表とする運動の激しい抵抗によってローラット法は廃止されるのだが、大英帝国はやりようによっては「政権に反対する人々が真夜中に行方不明になったまま消息が途絶えてしまうような国」に出来たのである。
こうした歴史にまるで言及しないでガンディーをくさそうとするオーウェルは、まぎれもなく「一連の事実の集まりの間に存在する類似性を無視する」ナショナリストに分類できる人だろう。