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父の遠隔介護の話。

寿命が尽きるか、金が尽きるか、それが問題だ」を読みながら、自分の父のことを思い出した。

私の父は60代で若年性認知症になり、3年前に癌で死んだ。

これを書くと、とても珍しい大変な経験をした人みたいに思われるかもしれないし、事実かなり珍しい経験をしたと思う。周りの人より20年くらい早く、介護の世界を知ることになった。

父のことを書くのは初めてだ。嘘くさくなりそうで書けなかった。
が、3年たつと色々記憶が抜けてきて、このままでは次の介護(母か義父母?)のときにせっかくの経験を活かせない!というゲンキンな考えから、覚えていることを書くことにした。
備忘録も兼ねているので、長文です。(プライベートなことに言及してるので、一部有料にしました)


遠隔介護

父は熊本でレストランを経営していた。
母とは別れて一人暮らししていたから、家族は私達子ども3人だった。

私たち姉弟はみんな、関東で家族を持って仕事もしている。
なんなら3人とも当時乳幼児を抱えて、フルタイム勤務。
日々てんやわんやである。
地域包括支援センターの人(めちゃくちゃいい人)も、「介護のために地元に…なんてとても言えないですね」と苦笑いだった。

昔から、酒の飲み過ぎで翌日の記憶を持たない人だった。
いい加減だけど面白く、芸能人でいうと高田純次みたいなテキトー面白おじさん。
どうしようもない人やね〜と長いこと放置してきたのだが、熊本地震からしばらくして、地元の友人が心配してメールしてくれた。
メニューの注文を間違えまくるし、熊本地震のことも殆ど覚えていないことを教えてくれた。
久しぶりに連絡する友達に、親が認知症じゃないかと聞くのは相当勇気がいったと思う。感謝しかない。

車の運転は嫌いだったのであっさり免許証は返納、車も廃車にしてくれた。レストランの買い出しは歩いていっていた。
健脚だったのは良かった。
地域包括支援センターの方に色々と説得してもらって、近くの病院で認知症検査をしたところ、グレーゾーンと言われた。短期記憶はかなり落ちているが脳の萎縮はそこまででもない。

入院して悪化した認知症

悪化したのは癌が見つかって、入院してからだと思う。
数年前に大腸がんでストーマになっていたが、今回は喉。
割と初期に近く、手術して放射線治療を受ければ治るはずだった。

しかし認知症と癌を併発していた父の入院は、そらもう大変だった。
なぜ自分が入院しているのかすぐ忘れる。店を閉めたことも忘れて帰ろうとする。看護師さんを困らせるし、医者にはキレる。
今まで仕事のお陰でかろうじて支えられてきた認知能力がみるみる落ちていた。

これ以上入院させられないと病院に言われ、別の病院に転院した。
このころ地域包括支援センターや病院から頻繁に電話が来て、病状の説明や検査、手続きのたびに何万も払って飛行機で熊本に帰った。
姉や弟と手分けして、子どもは義母や夫に頼んで。
当時娘は2歳、息子は小1。
控えめに言って地獄である。

家族信託

父の入院に伴い、お金を下ろす必要があったが、通常は本人不在だとお金は下ろせない。
「家族信託」というのをやれば、父の財産を子どもが管理する事ができるらしいと常連さんが調べて教えてくれた。
そしてこれまた常連さんの司法書士さんが手続きを請け負ってくれた。
当時診断的には認知症グレーゾーンだったため、手続きはできたが、通常認知症になると家族信託はできない。
成年後見人をたてるなど面倒な手続きがいるので、家族信託は早い段階でやっておくことをおすすめする。
今は分からないが、当時は家族信託の認知度が低く、銀行が専用の口座を作ってくれないなどの問題もあった。司法書士さんがこれも手取り足取り教えてくれた。感謝しか無い。

電話攻撃

父は入院してからどんどん老けていった。
直接会うと気合を入れて、いつもの父でいてくれるのだが、電話では「父が父でなくなる」時間が増えていった。
「店に帰りたい」「鍵はお前が持ってるのか」「俺を病院に閉じ込める気か」「店を売りやがって」「家を売った金を返せ」「俺を騙しやがって」「親不孝が」
これが仕事と子育てで忙しい日々に絶え間なくかかってくる。

「これ以上私達を苦しめないで、一人で死ね!」と言ったことさえある。子どもたちがいる場で言ってしまった。
言った後、号泣したが後悔だったか怒りだったのか、もう覚えていない。

どのタイミングだったか忘れたが、耐えられなくなって着信拒否した。
どうせ電話したこともすぐ忘れるんだからと。

お金の問題

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