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イラスト名建築ぶらり旅 with 宮沢洋&ヘリテージビジネスラボ⑩

元祖・カプセル建築、再生を繰り返して輝く

今回の行き先 日本庭園 有楽苑(うらくえん)
「国宝茶室 如庵(じょあん)」

取材協力/名古屋鉄道株式会社

この連載の「名建築」は幅広い。前々回が商業ビル(三愛ドリームセンター)、前回が地下鉄の駅舎(銀座駅)と来て、今回は茶室である。訪れたのは愛知県犬山市の「日本庭園 有楽苑」にある国宝茶室「如庵」。日本に3つしかない国宝茶室の1つだ。

なぜ如庵に行くことになったのかというと、如庵のある有楽苑の現況調査と修景計画に、この連載のガイド役である西澤崇雄さん(日建設計エンジニアリング部門 サスティナブルデザイングループ ヘリテージビジネスラボ)が関わったからだ。
 
茶室というと、茶道をやっていない人には、縁遠い施設かもしれない。「良しあしが分からない」という声も聞こえてきそうだ。実は、筆者もその1人だ。しかし、断言する。この如庵は、「現代建築に興味がある人」と「歴史好きの人」は、必ずハマる建築だ。

織田信長の弟、有楽斎の波乱の人生

如庵は、茶の湯の草創期に織田有楽斎(うらくさい)が建てた茶室だ。織田有楽斎は、あの織田信長の弟だ。ほら、それだけで興味が沸いてくるだろう。
 
有楽斎の人生は、大河ドラマの主人公になりそうなほどに波乱万丈なのだが、この記事の本題は如庵なので、ハイスピードで振り返っておこう。
 
有楽斎の本当の名前は、織田長益(ながます)。1547年に織田信秀の十一男として生まれた。三男の信長とは13歳離れた異母兄弟だ。幼少期から病気がちで性格も大人しく、武勇を期待されずに育った。ただ、読書好きで教養が深かったため、信長には可愛がられたという。やがて、有名な「長篠の戦い」や「甲州征伐」などで、甥の織田信忠(信長の長男)に仕えて見事な参謀ぶりを発揮。武将としても評価を高める。
 
ところが、1582年に「本能寺の変」が起こると人生が一変する。長益(有楽斎)はこのとき、本能寺に近い妙覚寺に滞在していた。信長が明智光秀の謀反で亡くなったことを知ると、信忠とともに明智光秀を討つために二条城へ向かう。しかし、信忠も明智光秀軍に包囲されて自刃(じじん)。長益は岐阜へ逃亡する。
 
その後は、甥の織田信雄(のぶかつ、信長の次男)に仕え、1584年の「小牧・長久手の戦い」で徳川家康側につき参戦。徳川家康と豊臣秀吉の講和に際しては折衝役を務める。
 
今度は豊臣秀吉に仕えるも、甥・信雄が豊臣秀吉と徐々に対立し、領地没収となる。長益は、豊臣秀吉に臣従することを表明。このころ、剃髪して「有楽斎」と名乗るようになる。
 
ふうっ。なんて壮絶な人生……。「もう争いは懲り懲り」という気持ちが分かる。

それでもまだ政争から離れることはできず、豊臣秀吉の死去後、1600年の「関ヶ原の戦い」では徳川家康側に属して武功を挙げ、三万石を獲得。1618年、子どもたちに領地を贈与したあと、京都で念願の隠居生活に入る。
 
ちなみに、東京の「有楽町」という地名は、慶長年間(1596~1615年)に有楽斎の屋敷がこの辺りにあり、その後は空き地となっていたところを人々が「有楽の原、有楽原」と呼んでいたことに由来するといわれる(諸説あり)。

有楽が建てた「如庵」も波乱の運命をたどる

ここで、ようやく「如庵」の登場である。有楽斎は京都で隠居生活を送りながら、建仁寺の子院・正伝院を再興した。有楽斎は茶人・千利休の門弟として茶道を学んでおり、正伝院内に自分好みの茶室を建てた。それが如庵だ、
 
如庵は、利休がつくった草庵茶室(草ぶきの簡素な茶室)とは趣を異にしていた。屋根はこけら(木の薄板を重ねたもの)ぶきの入母屋づくりで、内部は二畳半台目(丸畳二畳+半畳一畳+台目畳一畳)の茶室と三畳の水屋から成る。茶道口から客座へ給仕をしやすくする「筋違いの囲い」や、窓の外側に竹を並べた「有楽窓」が有名だ。

この如庵、産みの親の有楽斎と同じように波乱の運命をたどる。
 
如庵は創建から明治維新まで200年以上、正伝院内にあった。1873年(明治6年)、京都府は正伝院の敷地に窮民産業所をつくることを決め、如庵とその付属施設は売却対象に。一時期は、京都市祇園町の有志らが所有者となり、「有楽館」と名付けて保存公開していたが、1908に再び全館売却となる。すると、複数の資産家が購入の意を示し、三井家が買い取る。
 
文化・芸術に精通していた三井高棟(三井総領家10代、1857~1948年)が中心となり、有楽館の諸施設の中でも特に重要な「如庵」「書院」「露地」を東京今井町(現・港区六本木)の三井本邸に移築した。三井本邸に移築整備されると、文化財としての評価が高まり、1936年(昭和11年)には国宝に指定される。それを機に、三井高棟は、神奈川県大磯に建設していた「城山荘」に如庵を移築することを計画する。城山荘は3万8000坪という広大な敷地の別荘だ。
 
三井高棟が移築を決意したのは、東京の密集地では震災や火災などで消失する危険性があり、それを避けるためだったといわれる。実際、移築完了(1938年)から7年後の東京大空襲で、今井町の三井邸は焼失した。城山荘への移築がなければ如庵は存在しなかったわけだ。

3度目の大移動は、建築家・堀口捨己が監修

終戦、財閥解体などを経て、大磯の城山荘は1970年に三井家の所有から離れることになる。同時に城山荘内の如庵や書院も所有者が代わり、名古屋鉄道の管理の下、愛知県犬山市に移築される。
 
移築に当たっては、有楽苑と同じく犬山市にある「博物館明治村」(1965年開村)も候補に挙がったという。しかし、「明治の建物ではない」などの理由から、「名鉄犬山ホテル」(1965年開業)に隣接する敷地内に移された。移築は1972年に完了し、庭園を含め「有楽苑」となった。ホテルを設計したのは建築家の小坂秀雄(1912~2000年)だが、如庵の移築や有楽苑の整備は、建築家の堀口捨己(1895~1984年)が実行委員長となって先導した。
 
この連載をずっとお読みいただいている方はお分かりだろう。堀口捨己は名古屋市昭和区の料亭「八勝館(はっしょうかん) 御幸の間」を設計した建築家だ。

令和の改修で庭園はさっぱり、書院はがっちり

如庵は京都→六本木→大磯→犬山と大移動し、その度に再整備されているわけだ。そして有楽苑開園から50年目の2022年、犬山の地で再び新たな息吹を与えられた。
 
まず、隣接するホテルの建物が建て替わった。1965年完成の名鉄犬山ホテルは老朽化のため、2019年8月に閉館・建て替えとなり、跡地に2022年3月1日、「ホテルインディゴ犬山有楽苑」がオープンした。設計は観光企画設計社。所有者は名古屋鉄道のままだが、ホテルインディゴを世界各地で展開するインターコンチネンタル ホテルズグループに運営を委託した。
 
ホテルの建て替えと時を同じくして、有楽苑の修景が行われた。「修景」というとピンと来ないかもしれないが、要は伸びすぎていた樹木を剪定してさっぱりさせたのだ。この現況調査と修景計画の作成を日建設計が担当した。日建設計は、1972年当時の庭園の状況を知る作庭家の野村勘治さんの協力を得ながら、調査と計画作成を進めた。連載のガイド役である西澤崇雄さんはその当事者だ。作業は、庭園を3Dスキャンすることからスタートしたという。なんて今っぽいやり方。

写真1 庭園ビフォーアフター(修景前:上段、修景剪定後:下段)

そうして庭園は見事に生まれ変わった。なぜ「見事に」と言えるかというと、筆者は10年ほど前、ここに取材に来たことがあるからだ。そのときは、庭園の樹木が育ち過ぎていて全体が薄暗く、正直、堀口捨己が整備した庭園がいいのか悪いのかよく分からなった。今は、南側の丘の上に見える犬山城を堀口が意識していたということがよく分かる。
 
如庵とつながる「旧正伝院書院」(国指定重要文化財)は、大地震にも耐えられるように補強が施された。といっても、誰も気付かないであろう1階床下部分での補強だ。屋根替えが実施され、劣化が目立っていた部材は丁寧に補修された。これらは、博物館明治村の建築担当建築技師を務める奥野裕樹さんらが中心となって進めた。
 

写真2 旧正伝院書院
写真3 書院 上ノ間(写真提供:名古屋鉄道株式会社)
写真4 旧正伝院書院床下補強

そして、書院の南東側にある如庵へ。

如庵の建物はがっしりできており、今回は屋根替えのほか、傷んだ部材の補修だけで済んだ。筆者が10年前に来たときと基本は変わらないが、庭園の植栽がすっきりしたので、室内が明るくなった印象だ。

写真5 如庵外観
写真6 如庵内部(写真提供:名古屋鉄道株式会社)

如庵の魅力について書き出すと、前後編の大作になってしまうので、それは公式サイトを見ていただくか、実物を見に足を運んでいただきたい。有楽苑内はホテルの宿泊者以外でも散策でき、如庵の中も外からのぞき見ることができる。不定期(およそ月に1度程度)に、如庵内部の見学会も開催している。
 
ホテルの名前「ホテルインディゴ犬山有楽苑」に、「有楽苑」が入ったこともうれしい。今までは、名鉄のホテルにある「知る人ぞ知る茶室」だったが、今は「ホテルインディゴに行けば有楽苑がある」ということがよく分かる。まずは「知られる」ことが、ヘリテージ活用への大きな一歩だ。
 
令和の有楽苑再整備を担当した名古屋鉄道(株)グループ事業部文化事業担当チーフの長谷優太さんは、「先輩世代から大切に受け継がれてきた如庵と有楽苑を次の世代につなげることができて、ほっとしている。以前に見たことがあるという方にも、きれいになった庭園をぜひ見てほしい」と話す。

中銀カプセルタワーの住戸は茶室を思わせる

実は最近、あるニュースを聞いて、如庵のことを思い出していた。すると、この連載で「如庵を見に行きませんか」という話が来て、びっくりした。
 
あるニュースというのは、建築家の黒川紀章が設計した「中銀カプセルタワービル」(東京・銀座)の解体だ。2022年4月から解体工事が始まっている。なぜ中銀カプセルタワービルから如庵を思い出したのか。
 
中銀カプセルタワービルのカプセル住戸に入ったことがある人は、共感してくれると思う。あの内部空間は、「茶室」を連想させるのだ。壁や天井に手が届きそうな大きさもそうだし、印象的な丸窓も、茶室の窓のようだ。
 
中銀カプセルタワービルは解体され、姿を消す。だが、保存活用を求めていた有志らにより、カプセルの一部を取り外して美術館へ寄贈したり、宿泊施設に転用したりする計画が進んでいるという。これは大移動を繰り返しながら別の地で輝き続ける如庵を想像させるではないか。如庵の産みの親である織田有楽斎の住まいが、銀座に近い有楽町にあったということにも何かの縁を感じる。
 
あくまで妄想だが、取り外されたカプセルの1つが、「書院に併設された茶室」にならないかなあと、実物の如庵を見て思ったのであった。

■建築概要
日本庭園 有楽苑および如庵
所在地:犬山市犬山御門先1番地
完成:1972年(如庵の完成は1618年ごろ)
庭園監修:堀口捨己
庭園修景完成:2022年
庭園修景設計:日建設計、野村勘治(協力)
庭園修景施工:岩間造園株式会社

■有楽苑見学案内
営業時間:9:30~17:00(最終入苑16:30)
定休日:水曜
入苑料:大人1200円、小人600円
交通: 名鉄・犬山遊園駅西口より徒歩約8分
公式サイト:https://www.meitetsu.co.jp/urakuen/


取材・イラスト・文:宮沢洋(みやざわひろし)
画文家、編集者、BUNGA NET編集長
1967年東京生まれ。1990年早稲田大学政治経済学部卒業、日経BP社入社。建築専門誌「日経アーキテクチュア」編集部に配属。2016~19年、日経アーキテクチュア編集長。2020年4月から磯達雄とOffice Bungaを共同主宰。著書に「隈研吾建築図鑑」、「誰も知らない日建設計」、「昭和モダン建築巡礼」※、「プレモダン建築巡礼」※、「絶品・日本の歴史建築」※(※は磯達雄との共著)など

西澤 崇雄
日建設計エンジニアリング部門 サスティナブルデザイングループ ヘリテージビジネスラボ
アソシエイト ファシリティコンサルタント/博士(工学)
1992年、名古屋大学修士課程を経て、日建設計入社。専門は構造設計、耐震工学。
担当した構造設計建物に、愛知県庁本庁舎の免震レトロフィット、愛知県警本部の免震レトロフィットなどがあり、現在工事中の京都市本庁舎整備では、新築と免震レトロフィットが一体的に整備される複雑な建物の設計を担当している。歴史的価値の高い建物の免震レトロフィットに多く携わった経験を活かし、構造設計の実務を担当しながら、2016年よりヘリテージビジネスのチームを率いて活動を行っている。



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