⑬デヴィッド・ゲフィン この世で一番リッチなゲイ!(前編)
ハリウッドのムービー&ミュージックシーンとゲイカルチャーの関係史を語るときに、必ずおさえておかないといけない人物がいます。まずはジュディ・ガーランド。LGBTQ+コミュニティのアライの先駆者であり、彼女の死が「ストーンウォールの反乱」を起こしたなんて話があるくらいで。娘婿のピーター・アレン(歌手)、そして元夫のヴィンセント・ミネリ(映画監督)やマーク・ヘロン(俳優)がゲイだったけれど、他のゲイたちのバックグラウンドを辿っていくと結構な確率でジュディ・ガーランドとどこかで出会っていたりしましてね。たとえば、コスチュームデザイナーのボブ・マッキー先生の場合、パートナーであるレイ・アガーヤンが彼女の冠番組「ザ・ジュディ・ガーランド・ショー」の衣装担当をつとめていたし、今日お話しするデヴィッド・ゲフィンは下積み時代にこの番組のスタッフとして働いていたそう。
それから忘れてはいけないのがシェール姐さん。言うまでもなく、ゲイに愛されつづける存在であり、ゲイたちの才能を自分の仕事に活かした(デズモンド・チャイルドの楽曲、ボブ・マッキーの衣装)わけで、ゲイカルチャー史とは切っても切り離せない人。下の動画はアメリカの人気を博したシットコム「ウィル&グレイス」の一幕。ゲイのキャラクターであるジャックが本物のシェールをドラァグクイーンだと思ってからかうシーンですが、ゲイという人種と姐さんの相関、掛け合わせの妙をうまく顕わしてますw
そんな彼女がソニー・ボノ(姐さんは「ソニー&シェール」というデュオとして60年代に一世風靡してます)と別れた後に交際していた男がこのデヴィッド・ゲフィンなんだけど、なんとまあゲフィンはゲイだったんです。
いまやゲフィン・レコードの創業者、ドリームワークスSKGの共同設立者として広く名が知られ、ハリウッドのエンタメ界において一代でかなりの財を成したデヴィッド・ゲフィン。なんでも世界で最もお金持ちなゲイらしい(彼に続くのはジョルジョ・アルマーニ、ペイパル創業者のピーター・ティール、あとはAppleのティム・クック)。そんな大富豪ゲフィンはどんな人生を歩んで来たのでしょうか。ビジネスマンとして、音楽を愛する者として、そして誰かを愛する一人の男として。
ブルックリンのブルーカラー
1943年2月21日生まれ。米・ニューヨーク出身。アントニオ猪木、加藤茶、関口宏あたりと同い年ですね。来年が傘寿ですか。
ユダヤ系の貧しい移民の子として生まれたデヴィッド少年。ニューヨークタイムズの記事によると、母はウクライナ出身、父はまったく金を稼がない男だったそう。一家は母親がコルセットを作って得る僅かな収入でやりくりをしていました。
ゲフィンは高校を卒業した17歳の時、UCLAに進学した兄ミッチェルが住むロサンゼルスへ旅立ちます。東海岸から西海岸へ。憧れの世界、そこではブルックリンにはない燦燦とした日の光が輝いていました。コンピューターが登場する遥か昔、当時の計算機はパンチカードマシーンという装置が普及していたのですが、ゲフィンはそこの工場で職を得ます。
が、病床に伏す父の介護に倦む母からすぐにブルックリンへと舞戻されてしまいます。父はその直ぐに亡くなります。やがてテキサス大へ進学したゲフィン、なんと最初の学期の終わりを待たずして退学!破天荒人生のはじまりはじまりーって感じ。ね。そしてまたロサンゼルスへと向かったのです。
1963年、20歳となったゲフィンはロサンゼルスにある「CBSテレビジョンシティ」(テレビ番組スタジオ)の雑用係となります。最初の仕事はジュディ・ガーランドの冠番組、「ザ・ジュディ・ガーランド・ショー」でした。その日、ゲストとして出演していたバーブラ・ストライサンドとエセル・マーマン(「ショウほど素敵な商売は無い」が有名な女優)にギャラを渡すなんていう機会があったようです。
「ザ・ジュディ・ガーランド・ショー」のこのエピソードだね。
このエピソードが収録されたのは63年10月の初め。それから1か月半後の1963年11月22日ですが、この日ジョン・F・ケネディ大統領がテキサス州ダラスをパレード中に暗殺されました。そのニュースは当時ゲフィンが携わっていたトーク番組の収録スタジオにも舞い込んできました。ホストはアート・リンクレター。リンクレターはそのまま収録の続行を決定したのでゲフィンは苛立っていましたが、そのとき現場で誰かが場違いな歓声をあげたそう。なぜかゲフィンは気を荒げ、その男に突進。即日クビになりました。さっそく食い扶持を失ったゲフィン、故郷ブルックリンにまた戻ります。
郵便係からタレント・エージェントへ
次に目指したのはタレント・エージェントという仕事でした。CBSテレビジョンシティで雑用ばかりを任されていたゲフィン。きらびやかなスターたちと彼らを取り巻くショービジネス。エンターテインメントに多額の資金が注ぎ込まれていた時代でした。野心の強いゲフィンは「こんな下っ端の仕事じゃ物足りない」と思ったのでしょう。ゲフィンは、当時の有力なタレント・エージェンシーであったアシュリー・フェイマス社に面接を受けますが、そこで「うちでは大学を出ていない人を採用していない」と一蹴されてしまいます。
「こんちくしょー、自分の経歴が問題だったら、こうするしかないべ!」と思い立ったゲフィン。次にハリウッドの主要な芸能事務所であったウィリアム・モリス・エージェンシーに履歴書を出すのですが、まず自分はフィル・スペクターのいとこであると大見得を切り(実際ゲフィンはいとこではないものの、兄ミッチェルの結婚相手の姉がフィル・スペクターと付き合ってたとかなんとかで)、さらに自分がUCLAの卒業生であるとあからさまな経歴詐称をしたのです。やってんなぁー、兄貴。
そして64年6月、21歳のゲフィンはウィリアム・モリス・エージェンシーに見事入社し、ニューヨークの事務所で郵便係として働き始めます。しかし「経歴詐称でクビになったやつがいる」と噂を聞きつけたゲフィンは、他の人よりも1時間早く出社し、UCLAから「デヴィッド・ゲフィンという卒業生はおりません」という手紙が届いていないかを毎日念入りに確認していたそうです。実際UCLAからは「デヴィッド・ゲフィンという卒業生はおりません」といった内容の手紙が届き(!)、ゲフィンはその手紙の中身を改ざんし、自分がUCLAの卒業生だという内容に書き換え、ロサンゼルスの消印が付くように当地に住む兄ミッチェルに送りなおしてもらい、巧みに切り抜けたわけです。
さて、1960年代後半のアメリカ西海岸はヒッピーの全盛を迎えていました。カウンターカルチャー・ムーヴメントの影響は、かの地の音楽シーンにも色濃くあらわれ、ウェストコースト・サウンドといわれるカテゴリが誕生します。きっかけは64年に「エド・サリヴァン・ショー」にザ・ビートルズが出演したこと。彼らを先陣とするブリティッシュ・インベイジョンの波が押し寄せ、エレキギターのサウンドが瞬く間にカリフォルニア中に響き渡るようになりました。ウェストコースト・サウンドを代表するグループは、ザ・バーズ、ママス&パパス、ザ・ビーチ・ボーイズ、バッファロー・スプリングフィールドなど。アメリカの音楽の中心地といえば、それまではブリル・ビルディングの本拠であるニューヨークなどの東海岸でしたが、次第にその地位は西海岸へと譲り渡され、有力なレコードカンパニーやスタジオが作られていくのです。
ビートルズに憧れたデヴィッド・クロスビーらLAのミュージシャンがザ・バーズを結成(64年)し、そのデヴィッド・クロスビーの影響でジョージ・ハリスンがシタール(インドの楽器)を始め、ビートルズのアルバム『ラバー・ソウル(65年)』に繋がりました。さらに、ザ・ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンは、ビートルズの『ラバー・ソウル』を何度も何度も聞き込み、そうしてロック史に残る名盤『ペット・サウンズ(66年)』が生まれます。そして大西洋を越えて『ペット・サウンズ』はビートルズのプロデューサーのジョージ・マーティンの元に渡り、アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(66年)』として相聞歌的な形に帰結していくのです。一方、ニール・ヤング、スティーヴン・スティルスらがバッファロー・スプリングフィールドを結成したのが66年のことでした。ここに挙げた当時のスターたちは、やがてゲフィンとつながることになるので覚えていてね。
かたやニューヨークのゲフィン。ベトナム戦争真っ只中のその時代、なんと陸軍に招集されてしまうことに。当時のアメリカの兵役制度はドラフトシステムが採用されており、戦争に駆り出されるかどうかは抽選で決まるといったものでした。徴兵検査の問診票にあった「ホモセクシュアルの傾向があるか」という問いに堂々とチェックを付けたゲフィンは、「社会不適合者」の烙印を押されるも、見事に兵役を逃れます。なんとなく三島由紀夫パイセンの影がちらつくエピソードですわ(パイセンは太平洋戦争での徴兵を逃れるため、筋骨隆々たる男が大勢いるところだと自分の身体のひ弱さが目立って徴兵されないかもしれない、という考えでわざわざ東京から田舎に出て行って徴兵検査に行ったとか)。
ちなみに勤め先のウィリアム・モリス・エージェンシーではメキメキと出世街道を邁進。テレビ部門を担当し、のちにウィリアム・モリス社の名誉会長となるルー・ワイスの部下となります。
同僚にはエリオット・ロバーツがいました。後にゲフィンにとって重要なビジネスパートナーになる男です。1967年、ロバーツはカナダ出身のフォークシンガーのバフィ・セントメリー(知らなったけどウィル・ジェニングスと一緒に「愛と青春の旅立ち」を書いた人なんだって)に促され、グリニッジ・ヴィレッジのコーヒーハウスでフォークを歌っていたジョニ・ミッチェル(当時24歳)を見に行ったそうです。いまとなってはグラミー特別功労賞を授賞した大御所ですが、当時はまだまだ過小評価される、いちシンガーソングライターでした。
ジョニ・ミッチェルの才能にたちまち惚れ込んだロバーツは、彼女のマネジメントを買って出て、すぐさまロサンゼルスのローレルキャニオンへ――そう、ウエストコースト・ロックの歌手らが多く住んでいた場所へ移ります。ロバーツはリプリーズ・レコードとジョニ・ミッチェルの契約を早々に結び、バーズを脱退していたデヴィッド・クロスビーのプロデュースでファーストアルバムを出すこととなりました。のちに、ミッチェルもクロスビーも、ゲフィンの創設するレコードに移籍することになりますが、そこに至るまでにもっと話さなければいけないことがあります。
ジョニ・ミッチェルの名曲"Both Sides Now"(邦題:青春の光と影)
2000年に再録音したオーケストラ・バージョンがすごく好き。映画『ラヴ・アクチュアリー』でも使われていて、このシーンで絶対エマ・トンプソンにもらい泣きする。
ローラ・ニーロ
1967年、エリオット・ロバーツがジョニ・ミッチェルを見い出したのと時同じくして、デヴィッド・ゲフィンはある若い女性歌手の存在を知りました。テレビ業界でエージェントとして日々奮闘していたゲフィン。スティーヴ・ビンダーという当時の敏腕TVプロデューサーに夕食に招かれ、そこでゲフィンは、自分は今、音楽畑に興味があるんだとビンダーに伝えます。それを聞いたビンダー、自身がプロデュースする番組「スティーヴ・アレン・ショー」に出演させようと思っていたローラ・ニーロという歌手のレコードを彼に聞かせます。ニーロの曲はゲフィンの胸を打ちました。そして、彼女をスーパースターにのし上げたい、と意を固めました。
ゲフィンはローラ・ニーロに接近しますが、彼女は未成年の時にレコード会社と締結した不当な契約に不満を持っており、ゲフィンとニーロは、彼女の曲が生み出す利益が正当に彼女の手元に(そしてマネージャーとなったゲフィンのところにも)入るように、当時のマネジメント会社に訴えを起こします。並行してニーロが新たに書く曲の版権を管理する「ツナ・フィッシュ・ミュージック」を設立。さらにゲフィンは、親交のあったCBSレコードの社長クライヴ・デイヴィスからオーディションの機会を得、ニーロはレコーディングの契約を得ます。そして68年にリリースされたのが、隠れた名盤としてその界隈で高い評価を得ているアルバム『イーライと13番目の懺悔』です。ゲイレジェンドのひとり、デズモンド・チャイルド先輩は10代でこのアルバムの洗礼を受け、音楽の道を志します(そして代理母出産でもうけた息子にもニーロという名前をつけます!つながるね~ゲイの数珠繋ぎ)。
1968年にはウィリアム・モリス社を退職したゲフィン、おなじく芸能エージェンシーであるアシュリー・フェイマス社に転職(そう、以前履歴書がはじかれた会社)します。ちなみに、その頃のアシュリー・フェイマス社はスティーヴ・ロスという葬儀業・駐車場経営業をおこなう実業家に買収されていたわけですが、このロスという男、当時資金難にあったワーナー・ブラザース=セブン・アーツ社まで触手を伸ばし、映画産業そして音楽産業にも参入、タイムワーナー社という巨大メディアコングロマリットを一代で形成した、かなりのやり手です。
さらに時同じくして(忙しいなこりゃまた)、ロサンゼルスのローレルキャニオンでも事件が起こっていました。元バーズのデヴィッド・クロスビー、元バッファロー・スプリングフィールドのスティーヴ・ナッシュ、そしてホリーズ(イギリスのバンド)を脱退しようとしていたグラハム・ナッシュの3人が奇跡のバンド、クロスビー、スティルス&ナッシュ(以下CSN)を結成しようとしていたのです。そしてマネージャーとして白羽の矢が立ってのが、エリオット・ロバーツでした。しかし、自分には荷が重すぎる!!と、仕事のできる元同僚のゲフィンをニューヨークから呼び寄せます。
夢のスーパーバンドでしたが、当人たちの意思とは別に、それぞれのレコード会社との契約はどうすんのよ、という問題が起こったのです。つまり、スティルスはアトランティック・レコード所属で、ナッシュはコロムビア傘下のエピック・レコードに所属していて(クロスビーもバーズ時代はコロムビア所属だったが既に契約は消滅)、その整理を一手に引き受けたのがゲフィンでした。策士であるゲフィン先輩(このときまだ26歳の若造よ)は、アトランティックの社長アーメット・アーティガンを仕向け、コロムビアの社長クライヴ・デイヴィスと交渉をさせ、所属アーティストのトレード(皮肉にも出されたのは元バッファロー・スプリングフィールドのリッチー・フューレイでした)に落ち着き、結果CNSはアトランティック・レコードからアルバムを出すことになります。69年のことでした。
69年と言えばそう、ウッドストック・フェスティバル。そのほかにゲフィンの年表でこの年はもう、盛りだくさんなんですね。
▼アシュリー・フェイマスを退社(1年も持ちませんでした)。独立して、エリオット・ロバーツと会社を設立。
▼CSNにはニール・ヤングが加入して、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング(CSN&Y)というレジェンドバンドへと更に進化。ウッドストックに出演。
▼ローラ・ニーロの版権を管理する「ツナ・フィッシュ・ミュージック」をクライヴ・デイヴィスのCBSに450万ドルで売却。ニーロとゲフィンで半分ずつ分けることになっていたので、これでもう億万長者になった。
▼ジュディ・ガーランドが6月22日に亡くなり、27日にニューヨークで葬儀。その翌日未明に「ストーンウォールの反乱」が起こる。
アサイラム・レコードの立ち上げ
1970年、ゲフィンは27歳となりました。彼がその年に設立するアサイラム・レコードについてまとめた書籍「アサイラム・レコードとその時代
」(CDジャーナル編集部、音楽出版社、2006年)から、ゲフィンがレーベルを立ち上げるまでの経緯を引用します。
ゲフィンは当初、ジャクソン・ブラウンをコロムビアかアトランティックと契約させようとして、両社の社長(デイヴィス、アーティガン)のところにブラウンを連れていくも思うような結果が実らず、結果的に「アサイラム」という名(避難民という意味)のレーベルを立ち上げたわけです。ビジネスパートナーはもちろんエリオット・ロバーツ。そうしてウェスト・ハリウッドのサンセット大通りにアサイラム・レコードの本拠が置かれたのが71年で、伝説のアーティストがここから数多く生まれます。
第1号アーティストがジャクソン・ブラウンかと思いきや、レコードとして一発目に出されたのは、知る人ぞ知るジュディ・シルのセルフタイトルアルバムだ。"Jesus Was A Crossmaker"という(CSNのグラハム・ナッシュがプロデュースした)名曲が収められている。この曲は僕の好きな映画『エリザベスタウン』(キャメロン・クロウ監督)でも流れる(なんとナッシュ脱退後にホリーズがこの曲をカバーしたんだけど、そのバージョンが使われてる)。
ところでローラ・ニーロはどこいった、と思ったかもしんないけど、彼女はアサイラムでゲフィンと音楽を作ることはなかったんですよね、実は。コロムビア・レコードでデイヴィスと再契約しちゃうんです。裁判起こしたり、面倒見たり、ニーロのためにかなりの世話をしてきたゲフィンですが、いとも簡単に彼女は巣立っていきました。ゲフィンは泣いて泣いて泣きまくったそうですよ。
そしてアサイラム・レコードの立役者として忘れちゃいけないのが、イーグルスです。ジャクソン・ブラウンの紹介で、ゲフィンはグレン・フライ(ブラウンとフライは同じアパートに住んでいて、さらにJ・D・サウザーも同居人だったらしい)に出会います。フライはその頃、リンダ・ロンシュタットのバックバンドとして活動をしていましたがそこでドン・ヘンリーと知り合いイーグルスが生まれました。72年春、デビュー曲"Take It Easy"がリリースされ大ヒット。ジャクソン・ブラウンの"Doctor My Eyes"も全米ビルボードチャート8位という快挙を成し遂げていた頃です。おっと、ちょっと待てよ、50年前の曲なの?!
その後、ジョニ・ミッチェルもアサイラムへ移籍。72年にアサイラム・レコードをスティーヴ・ロス率いるワーナーに700万ドルで売却。会社としてのアサイラムはその後、東海岸のレーベルの雄だったエレクトラと統合され「エレクトラ/アサイラム」という社名になりますが、エレクトラの代表だったジャック・ホルツマンが退任すると代わりにゲフィンがエレクトラ/アサイラムのトップに君臨することに。ワーナー傘下の「エレクトラ/アサイラム」ですが、同じグループにはモー・オースティン率いる「リプリーズ」(ジミヘンやニール・ヤングらが所属)、アーティガン率いる「アトランティック」(ツェッペリン等の英国ロックシーンのアーティストから、アレサ・フランクリン、ロバータ・フラックといったR&B勢、そしてダスティ姐さんもいた)があり、ワーナー・コミュニケーションズは音楽部門だけでも相当な額の利益を生み出していました。業界の中心にいたゲフィンは相変わらず忙しく、オフィスの電話がひっきりなしに鳴っていたようです。
ジョニ・ミッチェルがゲフィンのことを題材に作った曲があります。「パリの自由人」という曲です。
まあ、ゲフィン先生はどちらかというと、音楽を心から愛していたというよりも、お金儲けがうまかったんだろうなと。大好きなものだって、こんなに忙しくなっちゃうと嫌いになっちゃうでしょ。30歳にして富豪の域に達していたし、あとはどう人生を楽しく生きるかってことだね。ちなみに恋愛はどうかというとね、うまくいってなかったんですよー、これがー。
30代前半(1973~1978)
アサイラムには次々と「亡命者」がやってきて、売れっ子のリンダ・ロンシュタットから、ボブ・ディランといった大御所らがレーベルからアルバムを出しました。
73年、ゲフィンはエリオット・ロバーツ、ルー・アドラー(音楽プロデューサー)らと共にウェスト・ハリウッドのストリップ・クラブを買い取り、「ロキシー」というナイトクラブを開業しました。
ロキシーがオープンしたその日、ゲフィンはシェール姐さんと出会います。姐さんは当時まだソニー・ボノと夫婦関係にありましたが、二人の仲は既に修復が難しい状況になっていました。そんな中、一目でシェール姐さんに恋したゲフィン(「俺は女が好きだ、女を抱ける」とまだ思っていた)は連絡先を渡し、デートに誘ったそう。
ふたりはベッドを共にする関係となりますが、75年にソニーとの離婚が成立してすぐシェールはグレッグ・オールマンと結婚してしまうのです。フラれたゲフィンの落ち込みようと言ったら、もう大変だったそうです。
一方で、仕事上では音楽業界から退いていくことに。ワーナーの親玉スティーヴ・ロスがゲフィンを映画部門の副社長に指名。ゲフィン無きアサイラム・レコードはそれでも快進撃を続け、76年にイーグルスがアルバム『ホテル・カリフォルニア』をリリースし大ヒットを記録。しかし大変なことが起きました。翌77年、34歳のゲフィンはある日医者にかかります。そしてなんと膀胱がんを宣告されてしまいます。
シェールにフラれるわ、自分のキャリアを確立した音楽業界の一線からも身をひいて、さらに大病を患っていることを知るわで、ゲフィンにとっては暗黒時代の30代半ば。そして「俺は本当に女が好きなのか?」というセクシュアリティと向き合う時間が出来て・・・(後編に続く)。
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