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僕とあいつの奇妙な教員生活 第三話 「正義と悪」

なんか、違うよなぁ。この空気。

プロローグ
第一話 「居眠り」
第一話 裏 「本田拓郎の満悦」
第二話 「完璧」
第二話 裏 「野田浩人の落胆」

第三話 「正義と悪」


「で、結局、みんなはあいさつをする、あいさつをしない、どっちがいい」

僕は、そう彼らに問いかけた。

あいさつをするほうがいいに決まってる。

道徳の教科書の物語を読み、約30分かけてあいさつについて話し合って、あいさつはやっぱりした方がいいでしょって感じる。今日はそんな授業だ。

「あいさつするほう――」
僕は右手を挙げて、彼らの方を見る。

のそのそと手を挙げる子ども達。


もちろん全員手を挙げる――、あれ? 全員じゃない。


後ろの席の真ん中。

机に伏せるように背を曲げ、つまらなそうにえんぴつをいじっている。
前髪が目までかかっている黒髪ショートボブの女の子。雨宮さん。
非常におとなしく、普段から明るい子ではない。

話を、聞いていなかったか……

いつも彼女は心ここに在らずというような様子で、えんぴつをいじっている。


「もう一回聞くよ。あいさつする方がいいなってひと」

彼女はこちらにチラリと目線をよこし、気だるそうにすこし体を起こして、手の代わりにえんぴつをちょこっとあげてみせた。

これで全員が手を挙げた。

「オッケー、じゃあふりかえり書こうか」

いつも通りの終わりかた。
彼らにつけてほしい価値観を入れていく。

教育ってそういうもの。
日本政府がつけたい力や考え方とやらを教え込んでいくために教育がある。
それが「教育する」ってやつでしょ。
上司が言うこと聞かない部下のことを「あいつは教育が必要だ!」っていうじゃん。

でも……  なんだかなぁ……


下を向く顔。
動かないえんぴつ。
おもりがついているのかと思うくらい上がらない手。

この気だるい雰囲気。

活発とは正反対の状況に、モヤモヤする。
自分の小学校の頃も、こんな感じだったか。

なんか、違うよなぁ。

彼らが真面目に学習の振り返りを書いているかを確認しながら、机と机の間を歩いていく。

先ほどの雨宮さんの態度が気になる。
ノートをのぞきに行く。

彼女は僕が近づいてくるのを察知したのか、消しゴムでゴシゴシと何かを消し始めた。そして、僕が机に辿り着く前に、どかっと筆箱をノートの上に置いた。

「振り返り、かけた?」

「いや、まだです」
彼女は僕を一目見ることもなく、ツンとした態度で心のシャッターをおろした。

何を書いていたのだろうか――

僕もそれ以上何も言わず、通り過ぎた。
高学年女子の扱い方はまだよくわかってない。
距離感はあっていいものだと思っているが、彼女達の態度から僕との間に壁があるのはなんとなくわかってきた。



放課後



「道徳ってうまくいかないっすよね。うまくいった試しがない」

「わかるわかる。特にあのクラスは難しいでしょ」
そう言ってうなずいてくれるのは、5年生の担任の大池先生。
昨年彼らを担任している。
おそらく50歳手前のいろんな意味で " かなり大きめ " な女性だ。

「いい子もいるけど、すれた子もいるからね。全然発表しないでしょ? 道徳とか特にね」

そう言いながら、右隣の席に座った。控えめに言ってもかなり大柄な彼女の質量に椅子が金切り声をあげる。彼女の机の上には書類やファイル、回覧用のバインダーなどが山積みになっている。いかにも暑そうで、首筋には汗が垂れているのに、熱いコーヒーをすすっているのはなぜだろう。

「クーラーの中で飲むあついコーヒーがいいのよ」
僕の視線に気づいたのか、彼女は聞かれてもないのに答えた。
そして、僕がその言葉に反応するよりも先に語り始めた。

「去年はしんどかった。私の言うことは、全然聞かないの。なんか暖簾に腕押しって感じで。無気力な子も多いし、無視する子もいたわ。道徳なんて、全然発言しなかった。結局、何が原因かはよくわかんなかったけど」

「そうだったんですか。全然知らなかったです……」

「私って大雑把だし、すぐ忘れちゃうから、職員室に来る頃にはもうどうでもよくなってたのかもね!  でもね、ふと車に乗ってる時とかに思い出すの。それでわかるのよ。ストレス感じてたんだなって」

だんだんとトーンダウンしていくその明るい声の奥には表には決して出てこない押し込められた暗い何かを感じた。
先輩教員のことが少し心配になってしまい、失礼と思いながらも聞いてしまった。

「今年は、大丈夫なんですか……?」

「今年? 今年は最高よ! いうこと聞くし? キビキビ動くし! そういうストレスはないわね!」と彼女は笑顔を作ってみせた。

「そっすか……」

「とりあえずまぁ、そういう授業の相談とか気軽にできたらいいのにね。みんな自分の仕事で手一杯でさ。ろくに空き時間もないじゃん?」と目の前に積まれた仕事の山を差しながら、おどけてみせた。

「そういうなんでも相談屋とか、チャチャっと解決スーパーマン!みたいな人がいればいいのにね」

「何でも屋か。いたら教えてほしいっすね。まぁそんな人はこの辺うろうろしてない……」

ん? まてよ。
いつでもこの辺をうろうろしている何でも屋。

「……いるかもしれない。いや、いますね……」

「え?」

「うろうろしてて、なんでも聞けるやつ……    あ、いや!なんでもないっす! 冗談! はは」

大池先生は鏡をみるガマガエルのように目を丸くしてこちらを見ていたが、「だよね」と大きな口でニヤッと笑ってまたコーヒーをすすった。

「ちょっと、上に行ってきます。遅くなるかもしれないんで、出るときまた連絡ください」

「はいはーい」




教室


秋分の日も過ぎ、日が落ちる時刻が少しずつ早くなり、最近ではこの時間にはすでに黄色になり始めた空を見上げながら教室へ向かう。

「誰が何でも屋だ」

僕が教室の鍵を開けた時には、すでにおっさんは足を組んで一番後ろの雨宮さんの机の上に座っていた。膝に頬杖をつき、ふてくされている。
子どものようにふくれているこの茶色のスーツのおっさんが学校の精霊だというのだから驚きだ。
いや絶対違う。少なくとも精霊なんて高尚なものではないと思う。

「いやだって、なんでも教えてくれるんでしょ。 助けてくれるんでしょ? じゃあ教えてよ、学校の精霊さん」

「人に物を頼むときは……」

「はいはい。オネガイシマスー」

「……ちっ」
おっさんはめんどくさそうにため息をついた。
「で。 何を聞きたい」

「え? 聞いてなかったの?」

「話さなければいけないことが多すぎる」

「あぁ…そうですか。長くなるのはちょっとなぁ……もう6時くるから手短にね?  ……あぁ、ごめんごめん! ごめんってー」

こちらに鋭い視線を向け、教室の後ろの壁に消えようとするおっさんを急いでひきとめた。

「お前は本当に……    礼儀を知らない……」
おっさんはこちらに背を向けたまま、腰に手を当ててため息をついた。

「まぁまぁそう言わずに。おっさんってなんか身内って感じがするんだもん。悪い気はしないでしょ?」

もう一度、はあとため息をついて、気を取り直したのか、おっさんはまた雨宮さんの机の上にどかっと腰掛けた。
そして、腕を組んで話し始めた。
「お前の " あの " 道徳。素晴らしかったな」

「え?  そ、そう?  俺的にはうまくいってない感じが……」
唐突にほめられて顔がアツくなった。

「あぁ……   まったくもって反吐が出る」

「おーい!   僕の期待を返して!」

「お前、あれが良い時間だったって、ほんのちょっとでも思ったのか」
おっさんは眉をひそめ、明らかな軽蔑のまなざしを向けた。

その目は、さすがにちょっと傷つく。
「……いや。そうじゃないから、ここにいるんだよ…」

「そうか。それなら、まだマシだな……  お前、この女の子のノート、見たのか」
おっさんは教室の後ろの僕のオフィス机に積まれたノートを指さして言う。この、という指示語が表しているのは、雨宮さんのことだろう。

まだだけど、と僕はしぶしぶ机まで行って積まれたノートの束から彼女のものを探す。

あった。
小さな丸っこい字で「雨宮凛」と書いてあるノートを開き、今日の最新の書き込みを見る。

ふりかえりには何も書かれていなかった。

正確には、書いてある文が荒々しく消されている。しかし、おそらく下敷きを敷かずに書いたであろうノートには、鉛筆が通った道筋がはっきりと残っている。

「あいさつなんて―― 、く、くそくらえ!? はあ!?」
はっきりと " くそくらえ " と書いてある。

あの雨宮さんがこんなことを……
驚きとショックが入り混じり、胸の奥からふつふつと怒りが湧き上がってくる。
やってきたことを全否定されたかのような、お前のことを認めるわけがないと宣言されたような――、なんとも言えないこの胸の痛み。

僕は今、はっきりと彼女を敵と認めた。

他の子達のノートの振り返りも見てみると、そこには「あいさつはだいじ」「あいさつしたほうがいい」「あいさつしないとダメ」など、通り一辺倒なことが書かれている。

「他の奴らの言葉も、どこまで本音なんだろうな?」
明らかに煽りにきているその言い方に苛立ちを覚えながら、僕はノートを閉じた。

席を見回し、彼らの様子を思い出す。
気だるそうな姿勢。消極的な態度。
今はもう、クラスの子ども全員が僕の敵になったように感じる。

いや、裏切られたのか。仮面の下で僕を笑っていた?
僕がいなくなった教室で、こそこそと僕の悪口を言っている姿が思い浮かぶ。
彼らは僕を、どう見ている――。

「この教室はな、本音を言っちゃいけない教室なんだよ」

どういうことだよ、と聞き返しながら僕は自分の椅子にドスンと座った。

「その言葉の通りだ。お前が本音を言わせない。そんな空気を作っている」

本音を言わせない――。
その言葉が意味することはなんとなくわかる。
つまり、僕が彼らを好き勝手にはさせないということだ。

「それの何が間違ってる? 本音と建前ってあるだろ。学校は一つの社会だ。社会は本音ばかり言っても生きていけないんだよ。それに本音で傷つく繊細な子もいるんだ」

おっさんはうつむいたまま、ふふと小馬鹿にするように笑い、「数年社会人やっただけの青二才が何をいうか」と吐き捨てるように言った。

「その社会とやらが間違っていると、疑ったことはないのか。そのあり方自体が息苦しいと、思ったことはないのか」

「本音を言い出せないから、どうにもならなくて苦しい。人間関係はつまらない。上っ面だけ合わせとけばいい。でも仮面をかぶって生きるのはつらい。今だってそんな大人が大半だ……。そしてこの子達がそんな大人になり、そんな社会を作り上げていくんじゃないのか。それがお前の教師としての使命か」

「お前がしている " 道徳 " とやらはただの価値観の押し付けだ。自分が納得できないことにうんうんと頷かせ、それを当たり前だと躾けることが教育だと? 笑わせるなよ」
おっさんの声は段々と熱を帯びてきた。僕は黙って叩かれるだけのサンドバックになっていた。

「お前は彼らを、他人の意見にうんうんとうなずくだけの人形にしたいのか」

さすがに耳が痛い。自分を守るために、弱々しくも弁明した。
「それは、さすがに望んでない…… できることなら、幸せに生きてほしいとは思ってるよ」

「それなら今お前がすべきことは、価値観を押し付けることではない」

おっさんの言っていることはもっともだ。
しかし、納得いかない部分もある。

「じゃあどうすればいいんだよ。あいさつなんてくそくらえ!なんて思ってる子に対して、教師はどう接すればいいんだよ」

僕の必死の反抗に、おっさんは冷めた目でため息交じりに言葉を返す。

「まず、どうこうしようってのが間違いだと気づけバカモン。お前が彼らを変えるんじゃない。変わるかどうか選ぶのはあくまで子どもたちだ。教師にできるのは複数の選択肢をフラットに見せること。あいさつするのもいい、しないのもいいってな。そこから何を選ぶかは個人の自由だ。自分で選ぶことが重要なんだ」

「いや、それはあまりにも乱暴だろ。仮にも僕は教師だ。社会で生きていくために必要な価値観をつけさせないといけないとは思ってる。あいさつはした方がいい。その意見には賛成できない……」

「喜多朗のくせに、なかなかまともなことを言うじゃないか」
おっさんは感心したようにわざとらしく目を向いた。

そ、それほどでも、と僕が頭をかいていると、おっさんは立ち上がって黒板に向かって歩いていき、両手をポケットにつっこんで黒板の数歩手前で立ち止まった。おそらく日直が消さずに帰ったであろう道徳の授業の書き残しを見つめた。そして、ゆっくりと、穏やかな声で話し始めた。

「その社会を生きていくために必要な価値観ってやつ。それが本当に必要なのか、お前は考えたことはあるのか」

は、何を言っているんだと僕がポカンと言葉を失っていると、おっさんは右手をポケットからぬき、黒板の右下の " あいさつは大事 " と書かれたまとめの文を指さした。

「あいさつをしなければ、生きていけないのか。あいさつしなければ、仲間ではないのか。あいさつがどうしてもできないものは、悪なのか。この世界から排除され、生きていくことはできないのか」

僕は思わず口をつぐんだ。
ここで下手なことをいうと揚げ足をとられることは分かっていたから。

言い返さないのか、とおっさんは残念そうにこちらをチラリと見て、右手をポケットに戻して話をつづけた。

「前にも話しただろう。価値観っていうのは人それぞれ違う。何を大切にするかも、生き方によってちがう」

「人に押し付けられた価値観で生きることは、つらい。自分で選んでいないからな。うまくいかなかったら人のせい。環境のせい。先生のせい。親のせい。社会のせいになる」

「あいさつをしないことを勧めているのではない」
おっさんは、僕の反抗的な視線を背中越しに察知したのか、いち早く付け足した。

「本人が望んでいるかどうかが一番大切だと言っている。だからこそ選ぶのは彼らだ。そこを間違えると、いつだって押し付けられる価値観にうんざりして、この教室みたいに消極的になるわけだ。この子達が過ごしてきた日々は、そんなことばかりだったのだろう。そしてその生き方でこれからも生きていくんだ……」
そういうと、おっさんは黙り込んだ。
子ども達のことを考えているのだろうか。

僕は少し考えてから慎重に言葉を選んで聞いた。
「言ってることはなんとなく分かったよ。けれどそれで選んだ道が、僕らから見てきっとうまくいかないだろうってときも、見逃していいのかよ。子どもを正しく導くのが教師の役目なんじゃないのか」

おっさんは、「正しく、か……」と何かを思い出すようにポツリとつぶやいて、一番前の机に黒板の方を向いたまま腰掛けた。そして背中越しに話し始めた。

「あいさつすることは正しい。しないことは正しくない。つまり、悪だ。ってことか?」

「いや、悪とまでは言ってないけど――、あいさつしないことは悪いことって捉える人もいるでしょ。まぁ……僕も含めて」

「同じじゃないか。" あく "も、" わるい "も。つまり、正しい行い、良い行為から外れた行為を悪と呼んでいるだけだ」

「そして正義をもってして、その悪を排除しようとするんだろ。勝手に作り上げられた悪はどうすりゃいいんだ。僕は正義執行されるために生まれたの?ってな。さぁ、悪があるから正義が生まれるのか。正義のために悪がつくられるのか。どっちなんだろうな」
おっさんはバカバカしいと言わんばかりに嘲笑った。

その言葉に、僕はいやがおうでも考えさせられた。

僕はさっき、彼女を敵と捉えた。
僕は正義で、彼女は悪。
僕の正しさに当てはまらない彼女を悪だと決めつけて――。

「例えば、授業中静かに座って過ごせることが正しく良い姿ならば、立ち歩く子は悪い子になるだろう。でも立ち歩く子は、積極的に話し合いたいだけかもしれない。その方が理解が深まるのかもしれない。その子にとってはベストな学び方かもしれない。でも悪だから注意される。『静かにしないとだめでしょ。ちゃんと座りなさい』ってな」

それは、よくある光景だ。
授業規律を大切にせよ、と初任者研修のときによく言われた。
教師がきちんと管理することが大事だ、統制できなきゃだめだって。

「知っておけ。喜多朗。すべての物事はオセロの駒だ。必ずだ……、必ず物事には " 良い面 " と" 悪い面 " がある」


おっさんは、わかるような、よくわからないような話を始めた。
「何の話だよ」

「誰かが良いと思っていることも、他の人にとっちゃ悪いことに見える。どこを切り取っているか、どこを見ているかの問題なんだ。だから気づいてないだけで、 一見 " 悪いこと " に見える出来事にも必ず良い面があるんだよ」

僕はその言葉をよく咀嚼して、かみ砕いた。
「つまり、僕はあいさつをしないということを悪いことだと思ってる。けどあいさつしない良さもあるって言いたいわけ?」

「おぉ…… なんだ。今日は少し頭が良くなったか」
こちらを振り返るおっさんのおどろき顔に、また毛が逆立つ。

「いや、どんな良さがあるんだよ?」

「それは本人に聞けばいい。そしてお前も考えろ。考えることに意味がある。いろいろな視点があるということを知ること、気づくことが重要なんだ」

「そして、今日の " あいさつくそくらえ事件 " にも――」
つづきを促すように聞いてきたおっさんに嫌気がさす。

「良いと悪いがある……」
仕方なく答えると、おっさんは満足そうに「そういうことだ」と笑った。

僕は正義だと思っていても、向こうからしたら悪。
向こうには向こうの正義があるから。正義と正義のぶつかり合い。
それに気づかせてくれた " あいさつくそくらえ事件 " は、良い経験かもしれない。
だとしたら、彼らは敵ではなく、そのことを気付かせてくれた味方ととらえることはできる。

はじめにわいてきたドス黒い感情は勢いを失って霧散し、その代わりに彼らへの申し訳なさが心を満たしていく。

「お前が敵だと思えば、すべて敵だ。お前が味方だと思えば全員味方になるよ。宿敵に向かって『ありがとな。お前のおかげで……』とか言って、仲間にしちゃう主人公が少年マンガによくいるだろ」

「精霊なのに物知りなんですね~」

おっさんは茶化されたことを気にもせず、立ち上がり、チラリと腕時計を見た。

僕はそのしぐさに違和感を覚えた。加えてなぜ黒のG-shock? 今まで気にしてなかったけど、明らかにおかしい――。というか時間を気にするのはなぜだ。

そのことについて指摘する前におっさんは「まぁ頑張れや」と言い残し、そこに壁などないかのように黒板の中に溶けていった。

僕だけが残された教室は、シンと静まり返っていた。
一呼吸着いて、教室を見回す。それぞれの席にすわる彼らを思い浮かべた。

下を向くもの。
頬杖をついて、つまらなさそうに時計を眺めるもの。
僕が近づいたら、書いた意見を消すもの。

あれはつまり、僕に見られてはいけないと思っているってことか。
僕は彼らの意見を管理しようとしていた。
彼らの心の中に、暗いもやのような、消化されない思いが渦巻いている気がした。

これは、僕が望んでいる教室ではない。
僕が望んでいる彼らの姿ではない。

僕は、変わらなければいけない――。



次週の道徳


一週間考えた。おっさんの言葉。
僕はどうすべきか、どう変わっていくのか。
今日はその答え合わせの日だ。

子ども達は一人を除いて、あとは全員出席している。

休み時間に、「えぇ…… 次道徳……」という小さなつぶやきが聞こえた。
ズキッと胸が痛む。

いつも通りの覇気のない号令の後、子ども達の力のない「お願いします」の言葉が散っていく。

僕は今日から、変わるんだ。

「ちょっと。みんな聞いてくれるか」

彼らの半数が顔をあげた。

「教科書は、まだ開かなくていい。ノートも」

目を丸くしている子。不思議そうな顔。
すでに今日の日付をかき始めていた子や、今日はどのページかぺらぺらと探っていた子も手を止めた。
数人の子ども達の顔が引きつった。
お叱りタイムだとでも思っているのだろうか。

全員がこちらを見るのを待って、僕はできるだけ明るい声で、話し始めた。

「みんなはこの教室で、本音が言える?」

しん、と静まり返る。空気が張り詰める。
誰一人として話さない。目線が一人、また一人と机に落ちていく。

これが答えだろう。

「教えてくれる?」
僕はできるだけ優しく言った。

「本音で話せるよっていう人」
静かに3人ほど手が挙がった。

「ありがとう。じゃあ正直な話、本音でなんて無理です、っていう人」
探るような空気が流れるが、残りの全員が手を上げなかった。

この結果が物語っている。
手が上がらない人たちは、この質問でも本音は出せない、出しづらいってことだ。

前の僕だったら、「どっちか、ちゃんと手をあげて」と言っていただろう。

「正直にありがとう。どうして本音が出せないか、聞いてもいい?」

先ほど、本音で話せると手を挙げたうちの一人、橋本さんが答えた。
彼女は誰にでもストレートにものを言う。

「多分、怖いんじゃないでしょうか。本音を否定されたり、怒られたりするのが」その声ははっきりと冷たく、鋭利な刃物のようだった。
今まで言いたかったことをこの際に吐き出しているようにも見える。

「橋本さんはそう思うんだ…… ありがとう。その…… 否定したり、怒ったりするというのは、先生のことかい?」
できるだけにこやかに聞く。

橋本さんは、さすがにその返しが来ると思っていなかったのか、目線を落として固まったが、小さな消え入るような声で「それもあると思います」と言った。周りの子達が下を向いたまま、目を見開き、横目で彼女を捉える。

僕は素直に感心した。僕の目の前でも、彼女はそう言えるのだ。
素晴らしい精神力と勇気。僕は見習わなければならない。

深く息を吸って、鼻から吐いた。
今この教室は、完全にお通夜。
きっと彼らは今、叱られると思っている。
橋本さんに対する「なんでそんなことを言うんだ」という見えない抗議の矢が飛び交っている。

僕は変わらなければならない。
また一呼吸おいて言葉をつづけた。

「勇気のある言葉を言ってくれた橋本さんを、先生は尊敬する。先生な…… 最近へんなやつに会って。そこで言われたんだよ。お前のせいで子ども達は本音を出せない。息苦しい教室になってるって」

彼らの顔に、驚きと困惑の色が浮かんだ。

「正直、ショックだったんだよ…… 先生には君たちに、こうあってほしいって願いがある。けどそれは先生の生きてきた世界の常識で、君たちの生きる世界とは違うかもしれない。先生の常識は、君たちの人生には通用しないかもしれない。全部、先生の自分勝手なんじゃないかってな……」

教師がこんなことを言っていいのだろうか。
恥ずかしさと申し訳なさがこみあげてきて、視線を教卓に落とす。

本音を言える教室にするためには、きっと僕自身が本音で話さないといけない。
こんな僕を、認めなければならない。さらけ出さなければならない。
そう覚悟はしてきたはず。
それでも、今までの僕の抵抗が心の中では続いている。

視線をあげると、いつの間にか、全員がこちらを見ていた。
何を言い出すのかと、続きを待っている。
あの雨宮さんでさえ、姿勢を正し、こちらに視線を送っている。
その視線に、僕はこたえないといけないと感じた。

「はは。すまん…… 君たちのやる気を、個性を、先生は奪っていたのかもしれない。自分の価値観を押し付けて。君たちを押さえつけていた。もしそうだとしたら……」

続く言葉が出てこない。心臓が激しい音を立てる。
改めて深呼吸をする。

「もしそうだとしたら…… 謝らないといけない。本当に、申し訳ない……」

言葉と共に、僕は頭を下げた。

数秒後顔をあげると、彼らはまだ、僕を見ていた。
彼らは何もしゃべらなかった。
気まずい空気の中で、僕の心臓だけが無遠慮に鳴り続ける。
最悪だ。どうしたらいい。


すると、手が挙がった。

普段、決して手をあげることはない。
いつも僕に叱られてばかりだった、忘れ物常習犯の野田さん。
以前、僕の間違いを指摘したのも彼だった。

周りの子達も目を丸くする中、僕も何を言うのかと驚いたが、指名するしか道はなかった。

「野田さん、どうぞ」

彼は一瞬考えたあと、か細い声で言った。



「先生。   そんなことも、あります」




僕は、あっけにとられてしまった。


予想外のその言葉にぷっと誰かが笑ったと思ったら、張り詰めていた空気が、ぷつんと途切れた。

野田さんの前にいる上野さんが後ろを振りかえり、「お前が言うか」と軽快にツッコミを入れ、どっと笑いがはじけた。

お前が言うか、ではなく、" 彼だから " 言えるのか。
僕も、「そんなことも、あるよな」と合わせてと力なく笑った。

くしくも彼の言葉がきっかけとなり、止まっていた針は動き出した。

「野田さん。ありがとう」
僕がお礼を言うと、野田さんも恥ずかしそうに笑った。

クラスを見回すと、さっきまでの空気が嘘のように、みんな笑顔だった。

もっとこの空気を味わっていたかった。
しかし、時間もだいぶ遅れていたので、切り替えることにした。

「というわけで、先生は変わろうと頑張る。これからの道徳でしっかり本音を出してくれたら嬉しい。全部受け止めるから。そうやって、何が自分にとっていいか考えていこう。本音を出した先にある世界を見に行こう。そして、どんな道を進みたいか、選ぶのは君たちに任せる」

今、僕の言葉は彼らに届いているように見えた。
彼らの目には光がともり、自由になった鳥のように輝いていた。
一番後ろの雨宮さんも背中を起こし、真剣にこちらを見ていた。

すぐには変わらないかもしれない。
でも、きっとこれでいい。そう思えた。

「本音の道徳を、はじめようか」



第三話 おわり


※この物語は、不定期更新です。
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