6/3 『怪物』 是枝裕和
視点が変わると見える像が違って映る。立場の数だけ新しい現実が見えてくる。
そういう物語かたが私はすごく好きで、まっすぐに私もこんな話が書けるようになりたいと思いました。
*
監督の題材はいつも自分の追いかけたいもの、興味関心ととても近いものがあって、だからいつも見に行ってしまうし、色々思い巡らせることにもなる。
フラットに描こうとする意志を感じるけれど、でも時折どこかで彼自身の怒りというか、ものの見方が問いかけとして迫ってくるときがあった。
私はその時、なぜか塗り込められるような圧迫を感じた。
たとえば『万引き家族』の最後、安藤さくらが刑事に詰め寄られるところがそう。
優しさと易しさ(ずるさ)の混在する疑似家族。互いの触れられない孤独とどこか仲間という感覚。それ以外の世間の外側感とだしぬいてやると言う善悪の希薄さ。結局は自分だけが大事自分しか信じない。
そこにある、子供。
そこにしか居場所を見出せなかった人たちが擬態するようにしてどうにか溶け込もうとしているその感じ。
なんとか思いやってみようとして、でも子供にとって自分たちになど触れないことこそが最善と結論するその感じ。
それらが描かれていた間ただ思い巡らされていたものが、彼らを理解しない真っ当な大人たちの登場でわーっと塗り込められてしまう。
正しいのはこれです。あなたたちは間違っています。子供が不憫です、と。
*
この時感じたのは監督の持つ強い怒りだった。自分を真っ当だと疑わない大人たちに対しての。塗り込められることに対しての。
でも逆に監督によって彼らが塗り込められたようにも感じる。
それは彼らがステレオタイプだからだ。
怒りがあるから描く。私もそうだと思う。
でもこの怒りが真っ当な側の人たちを正義を錦の御旗にした敵、ステレオタイプな分からず屋という顔のないものにしてしまったような気がしたんだ。
『誰も知らない』にも同じような無関心への怒りを感じた。
無関心な人々は個人というよりは、やっぱりあたりまえだとされていることをあたりまえだと言って憚らないどこにでもある人の顔をしていたきがする。
怒りを感じる対象だからこそ、書き手はキャラクターの感情と一緒になって憎むだけじゃいけない、それじゃ聞く耳を持ってもらえない、と感じてしまうのは、私の何か恐怖というか、思い込みなのかもしれない。
ただ対立する人間ではなく、わからずや、なにも気づけない連中、気づいてもスルーしてしまう酷い人間として描くことは、あなたたちを理解するつもりはありませんと宣言しているも同然で。
そんなふうに決めつけられたらその時点でへそを曲げてますます理解しようとしなくなるんじゃないか、偏った人の話だねって色眼鏡をつけられてしまうんじゃないかみたいな恐怖を覚えてしまう。
怒りは確かに原動力だし、誤解されることなく届けたいメッセージが胸にある。
でもそれがあまりに強すぎると、自分が出過ぎてどうしても受け取り手に委ねることができなくなってしまうんではないだろうか。
強引に自分の見解に引き摺り込もうとして、塗り込んで読み手の力を信頼することができなくなってしまう。
怒りに突き動かされすぎると視野が狭くなって強迫的になるので、そういうことをしてしまうような気がしている。
憎む相手の人間らしさみたいなものを発見できなくなる。
高いところに立ち一方的に断罪してしまう。
小説は特に言語化して伝えられるものだから、視野が狭くなるとすぐにその罠に落ちると思う。
私は自分の視野の広さや決めつけのなさを信頼できないから、そこに注目し過ぎているのかもしれないな。
なんだかんだよくわからん自分の話ばっかりになってしまった。
*
兎にも角にも今回の『怪物』には偏った描かれ方と感じることがなかったようにおもう。
敵対する相手もなにを思っているのか理解しがたい相手も順に語り手となることで、真実が浮き彫りになるだけでなく、その機会の与えられなかった虐待する親や不確定な情報を流す人々、事なかれな連中、いじめっ子、典型的な動きをする彼らだけど、でも彼らにもきっとおなじようにそれぞれの視点があり感情があり、決してステレオタイプな顔のない人ではないのだと想像することができた。
こういう事情があるからこういう行動になった、はたまた事情を知らなかったから、浅はかだったから、影響を考えなかったから、攻撃されたくなかったから、責任を取りたくなかったから、それが正しいそういうものだと信じていたから、あらゆる事情は事情として理解し、でも行動はだから許す許されないみたいなことじゃなくて、そんなジャッジをする権利なんかなくて、ただ行動の結果そういうことになったという事実を受け止めるにとどめる。
喧嘩を売らない。責めない。罰しない。
その方が自由に感じ、考えられる。気づきを受け止められる。
物語を通して自分を振り返ることができる。
認めたくない、自分の中の差別や気付いていない加害性のようなものも見つめることができる。
責められていないから。圧がないから。
自分で考えることが時間がかかってもそれぞれ当人が行動を認め、現実を受け止め、責任を取って生きていくことを助ける力になるんじゃないかと思う。
甘いだろうか。
困難があっても自分を支えられる子に、人や人生を信じて生きられる人になるように。
登場人物のそれぞれにそう願う、祈りのようなものを感じた。
特に子どもたちには。
私はこんなふうに書きたいと思った。こんな話を書けたらと憧れた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?