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不便益は必要か。

ひのきの縦格子の引き戸は
日本に昔からある縦繁障子をベースにしてます。

桂離宮の月波楼から引用してます。

デザインはイジってて
12mmの縦桟と12mmの隙間を交互に繰り返す構成にして
窓サッシの幅と高さにも合わせてます。

本当は9mmが意匠的に良かったんですが9mmだと
横桟の数増やさないといけなくて結局12mmになりました。

気持ち良い連続性だと思ってます。

今の建具は
昔の「引っ越しの時に荷車に乗っけて持ち運べる家財としての障子」とは意味が変わりました。

要は機能としての障子は現代建築には必要ないわけです。

では現代においての障子の意義はなんだろうか?と考えるわけです。

格子の細やかさを見た時の心が弾む心地だったり
開閉の時の細かな振動だったり
閉じる位置を自身で調整する必要があったり
障子自体の存在感と障子の持つ違和感や不便さが無意識な注意の矛先を生むわけで
その「注意」が現代的障子の価値ではないかと。

着るのに技術が必要な着物だったり
成人してからはほとんど使うことが減るのに書道を習ったり

そのこと自体よりも「それ」があることによってもたらされる意味の方が大事だったりしますよね。

まあ今回の障子引用はダダイズム的ニュアンスも込めてますけど。

めんどくささやメンテのしづらさみたいな
手触り感というか
赤ちゃんとか犬猫を世話するの嬉しい楽しいみたいな情動に似てるんでないかと思ったりしてます。





「不便益」っていうのがここ5年くらい言われてますが
1970年代の第一次サスティナブルムーブメント期から言われ続けてます。

柳宗悦とか鈴木大拙とかバーナードリーチとかあの辺の人たちですね。

実際言語化されたのは2017年の川上浩二さんの書籍からですが
最近の不便益という言葉の使われ方は
「不便な環境に身を置くと手間や暇が必要になり知恵と集中力が働く」みたいなニュアンスです。

ただ不便益であまり触れられていないのは我々の環境適応性です。

炊飯器を捨てたら土鍋に慣れるし
車を捨てたら徒歩や自転車に慣れるわけで
「便利さへの依存」が煩悩だったわけで。

慣れてしまってはそれがレギュレーションになるので
不便もクソもなくなるわけです。

環境的不便さは引っ越したりコロコロ日常を変えることができる人はOKですができない人は状況的不便さを作るのが良さげです。

コミュニティを変えたり趣味を変えたり転職や事業転換関わる企業を変えたりみたいな感じで意識的に脳が働く状況を作るのが良いなあなんて思ったりしてます。

フィルムカメラや古民家や着物や花みたいに
不便益とエモさとサスティナブルがリンクする瞬間が価値の最大化な気もしてます。

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