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「ファミリア」第十一話

Cate Cooper

(10)

 エレベーターで地下駐車場まで降りると、既に車を手配したレイナーさんがホールの出口付近で待ち構えていた。
「さぁ、車に乗って、あなたのアパートまで案内してちょうだい」
 レイナーさんは頻りに腕時計を気にしている。さっきまで手元にずっと抱えていたバインダーはなかった。
 彼女に促されるまま、黙って助手席に乗り込む。車は地下駐車場を出ると、サウスブロード通りを北に向かって走っていった。
「わたしはどこに連れて行かれるんですか?」
「州立刑務所を少し東に行った所に、あなたを受け入れ可能な施設があるの。フェアマウントの向こう側よ。そこからなら、今通っている学校にだって行けるし、大きく生活スタイルを変える必要もないわ」
 レイナーさんは、運転席でハンドルを握りながらもやはり時間を気にし続けていた。何度も車線変更しながらアパートへの道筋を急ぐ。
「さぁ、ついたわ。降りて」
 アパート前に車を停め、玄関へと向かった。辺りはすっかり日も暮れて、今着ている服では寒いくらいだった。後ろからレイナーさんがついて歩き、さらにその後ろから、ジムがついて来ていた。
 玄関を開けるとチク・タクが尻尾を振って走り寄るけれど、同時にレイナーさんを見ると激しく吠え始めた。
「ごめんね! チク・タク! あなたを置いていくような真似をして! ちょっと待って、すぐごはんをあげるから」
 わたしは上着を脱ぐと、戸棚からフードを取り出して食器に山ほど盛った。だけど彼はそれには目もくれず、予想外の怪しい客人に吠え続けている。――正確には、レイナーさんの後ろに立っているジムに向かってだ。
 チク・タクには彼の存在が見えているらしい。動物って人間よりも感受性が鋭いっていうし、きっとチク・タクも彼等からしたら特殊な能力の持ち主ということになるんだろう。
「君の言っていた弟とは、彼のことだったのか?」
 チク・タクに吠えられながら、ジムが困惑したように話しかける。レイナーさんに気づかれないようにわたしが肯くと、ジムは黙ってその場で立っていた。
 クローゼットから旅行カバンを取り出して、数日分の着替え、学校の教科書や、チク・タクのフードなどを突っ込んでいると、レイナーさんが困ったような顔をして口を開いた。
「ケイト? 施設に犬は連れて行けないわ」
「それじゃあ、チク・タクはどうすれば良いんですか?」
「とにかく、連れては行けないのよ。必要なら一時的に保健所に預けることも可能だけど、残念ながらしばらくは迎えには行けないと思うわ」
 答えになってない。しばらく迎えに行けない――その言葉が妙に引っ掛かった。
「それってどういうこと? おばさんが退院する二、三日の話でしょ?」
「マギーさんが退院してすぐに手続きを申請しても、そんなに早くは一緒に暮らすことはできないのよ。もちろん、あなたのお母さんの回復次第だけど。今は施設での生活を優先に考えた方があなたのためになると思うわ」
 レイナーさんが大きなため息をつく。
「なによそれ」
 わたしは独り言のようにつぶやいた。マギーおばさんは家族同然だという話は何度もしていたから、当然レイナーさんだってその方向で理解してくれていると思っていた。なのに突然こんなことを言い出すなんて、巧く丸め込まれた気分だ。
 レイナーさんは、わたしたちの目の前で腕時計を気にする素振りを繰り返す。一刻も早くわたしを施設に押し込んで、一秒でも早くこの口答えばかりする厄介者から解放されたいと考えている風にしか見えなかった。
 このままではわたしたち家族はバラバラにされてしまう!
「チク・タク!」
 わたしは咄嗟にチク・タクを呼びつけると、手にしていた旅行カバンをレイナーさんに投げつけて押し倒し、急いで外へと飛び出した。
「チク・タク! おいで!」
「ケイト! 待ちなさい‼」
 レイナーさんを振り払い、無我夢中で玄関を走り抜ける。そのまま通りへ飛び出すと、とにかく細い道へ逃げ込むようにして走った。街路灯が立ち並ぶような大きな道を走ってたんじゃすぐに見つかってしまう。裏手に続く小さな暗がりの路を、ひたすら順に辿るように逃げていった。

 アパートに着いたときは肌寒いと感じていたのに、今はその皮膚感覚さえよくわからなくなっている。病院を出るときはお母さんにもおばさんにも二度と会えない覚悟でここまで来たけど、もう後悔でいっぱいだ。
 通りすぎる車に怯えて、他人の庭先に飛び込んで茂みに隠れたり、暗がりの通りで人の話し声が聞こえたら、様子を伺って道を引き返したりもした。
 たとえ上手いことやってのけて、レイナーさんの目を欺けたとしても、やがてやってくる自分の死からはどうやっても逃れられない。悪夢の中で得体の知れない何者かに追われるように、走る足には力が入らずに空回りし、いつまでも背後から不安の影が付き纏う。
「ねぇ! ジム! わたし、まだ死にたくないよ! まだ、お母さんにも、マギーおばさんにも、さよならなんて全然言い足りないよ!」
 アパートを出てからずっと走り通しだったわたしは、とうとう立ち止まって大声で叫んでいた。鼓動が激しく脈打っている。それでもこの心臓だって数時間後か数日後には、完全に止まってしまうんだ! 今はこんなにも力強くバクバクと鳴っているのに! この体は弱ってしまうんだ!
「ねぇ! ジム? 聞いてるの⁉」
 わたしは大きく肩を上下させながらその場に崩れ落ちた。完全に息が上がり、振り返ることもできない。
「もちろん聞いているよ、ケイト。しかし私には、どうしてやることもできないんだ。本当にすまない……」
 背中越しからジムの残念そうな声が聞こえると、わたしは遂に泣き出してしまった。
「オッドは偉いよ……だって……マギーおばさんが悲しまないように、自分の死に目を見せないために大好きな人から離れる勇気があったんだもの!」
 わたしは道端にひざまずいたまま、星空に向かって泣きながら叫んでいた。
「おばあちゃんは偉いよ……だって……自分が死ぬってわかってるのに、わたしとお母さんのために残って、もう二度と逃げなくても良いようにしてくれたんだから!」
 この寒空の下、ひざまずいたアスファルトと手足だけは凍るほどに冷たいのに、こぼれ落ちる涙だけは湯気が立つほど温かかった。
「それに比べて……わたしは……」
 わたしがつぶやくと、ジムが言った。
「それで良いじゃないか」
 正面に膝を付き、わたしの目を見て逸らさない。
「ケイト。君が話してくれたろう? 『愛』というものは、とても大きな箱で、その箱の中に様々な形の『愛』が入っていると……」
 わたしは黙ったままジムの視線を受けとめた。
 次に続く大切な言葉を聞き逃さないように。
「その大きな箱の中に、君が持つような、意固地で弱く、脆い形の物が入っていたって良いじゃないか。大切なのはそれに気づいた今、何をするかだ」
 相変わらず感情の起伏も愛嬌も感じられないジムの言葉が、堪らなく優しく、そして温かく感じられる。
「お母さんに会いたい! マギーおばさんに会いたいよ!」
「それならば、君のしたいようにしよう」
 そう言ってジムが立ち上がる。そのとき、わたしの携帯電話の着信音が鳴った。涙を拭いながら電話に出るとマギーおばさんだった。
「もしもし⁉ ケイト⁉」
 おばさんの声を聞いただけで涙が溢れる。ついさっきまで一緒にいたはずなのに、もう懐かしくて堪らない。
「たった今、レイナーさんから病院に連絡があったそうよ……あなたが逃げ出したって」
 電話を耳にきつく押しつけたまま、なにも言えずに泣いていると、おばさんが声を震わせた。
「やっぱり……死神のバカンスはあなたの作り話だったのね……」
「おばさん……わたし……」
「シーッ! 大丈夫よ。全部わかってるわ。だから泣かないで」
 マギーおばさんが、お母さんのような口真似で慰める。
「気づいてあげられなくて本当にごめんなさい。でも、もう大丈夫よ。あなたは今すぐに病院に来なさい。もうあなたをどこへもやらないから安心して!」
 何度も声を詰まらせながら、マギーおばさんは優しく話しかけた。
「チク・タクも連れて行って良い?」
「もちろんよ! 彼も私たちの大切な家族よ! 誰一人欠けることは許さないわ! 良い? 必ず二人とも無事に病院へ辿り着くのよ⁉ 約束して」
「うん。約束するわ」
 わたしもおばさんも、二人とも涙声と鼻を啜る音でいっぱいで、ほとんど声は聞き取れないし、まともな会話になんてなってなかった。それでもお互いの言ってることだけはしっかり伝わっていた。
 電話を切ると、ジムが優しく笑うような表情を見せた。
「君たちの『愛』には本当に驚かされる。何もできないとわかっていても、思わず手を貸したいと思ってしまうほどにな」
 そう言う彼に対して、わたしは微笑んで見せた。「ありがとう」の代わりに……。
「チク・タク! おいで! 病院に行くわよ!」
 涙を振り払い、声を張り上げ相棒を呼ぶ。でもチク・タクは呼びかけに反応しなかった。「チク・タク?」振り返って辺りを見渡しても、どこにも見当たらない。
「チク・タク⁉」
 姿が見えないことに気づいてパニックになりかけたわたしは、来た道を引き返しながら彼の名前を呼んだ。
「待ってくれ、彼のことは私も知っている」
 ジムはそう言うと、突然通りをぐるりと見渡し始めた。
「居た。大きな通りの向こう側だ。ちょうど教会がある向こう側の建物だ」
 そう言って彼は、ノースブロード通りと呼ばれる大きな通りのある方角を指差した。
 今いるこの小さな通りをさらに東に行くと、フィラデルフィアの中心を通る大通りにぶつかる。それがノースブロード通りだ。その先にはルーテル教会と呼ばれるキリスト教の大きな教会がある。
 静かな日曜日の朝に建物の近くを歩けば、透き通った聖歌隊の歌声や、美しいオルガンの音色が、石造りの建物から木漏れ日のように微かに漏れてくる。その大きな道路を挟んだ教会の向こうにチク・タクは居るみたいだった。
「なんでそんなところへ一人で行っちゃったんだろう⁉」
 わたしは全速力で走りながら訊ねる。
「ひどく怯えているようだ。多分、君とはぐれて不安になり、あちこち探し歩くうちに、あの場所に辿り着いたんだろう」
 ジムの解釈は正しいとわたしは思った。
 レイナーさんから逃げるために、チク・タクにリードも着けずにわたしは慌ててアパートから飛び出した。普段ノーリードでチク・タクを外へ連れて行くことはないし、リードを外したとしても、そこは囲われたドッグランの中。
 せめて、ちゃんと彼を抱いて逃げればよかったのに! レイナーさんから逃げ切ることで頭がいっぱいで、一緒に逃げる彼のことを蔑ろにしていた!
 全速力で走るわたしを見失わないように、チク・タクは精一杯頑張って追いかけて来ていたはずだ。たとえ、見失ってしまったことに気づいても必死で探し続けるだろう。
 もう少し、彼のことを気にかけてやれていたら……!
 そう思うと、胸が締めつけられるように苦しかった。
 ごめんなさい! チク・タク!
 やがて、走り抜けるストリートの切れ目の角に、ジムが言った教会が見えてくる。大きな通りを挟んだ向こう側、路上駐車された車の影に、地面に座り込んで脅えるチク・タクの姿が見えた。
 なぜ、それがチク・タクだって確信できたのか? 
 辺りは真っ暗だったし、彼が座り込むノースブロード通りには街路灯は並んで明るかったけど、わたしがいる所からは距離が離れ過ぎていて、一目見てチク・タクだって確信するのは不可能に近いはずなのに。
 それでもわたしは、自分の目で彼を捉えていた。初めてジムを見つけた時のように。
 例えるなら、向こうが自分のことを見つけてくれってアピールするのを、わたしは逃さずに捕まえただけ。見えないなにかで繋がっているから、ただそれを手繰り寄せただけ。
 それだけなんだ。
 脅えながら小さく震えて、わたしの匂いを探しだそうと、チク・タクは小さな鼻を地面に擦りつけて不安そうに辺りを見渡している。
「チク・タクー‼」
 彼を見つけた嬉しさで、思わず大声で彼の名前を叫ぶ。
「駄目だ! ケイト! 彼を呼んではいけない‼」
 後ろからジムが叫んだ。こんなにも感情を解き放ったジムの声を聞くのは、初めてなんじゃないかと思うくらい。
 そして、わたしの声がチク・タクの耳に届いた瞬間だった。
 彼は一瞬固まって、声がする方を見上げると、その先にはどんなに探しても見つからなかったわたしが立っている。
 チク・タクはどんなに嬉しかっただろう。
 どんなに寂しくて不安だっただろう。
 わたしの声が届いた瞬間に、あまりの喜びに体を震わせながら、チク・タクは辺りを警戒することなく、車が行き交う大通りを、まっすぐわたしに向かって走り出していた。わたしと自分しかいない真っ暗闇の中、わたしと自分を繋ぐ、光輝く一本の金色の糸を、夢中で手繰り寄せるみたいにまっすぐに……。
「私が彼の気を逸らして、安全な所で足止めする。だから君はここを一歩も動くんじゃない! わかったな⁉」
 そう言うと、ジムは車の行き交う大通りをチク・タクに向かって走っていった。何台かの車が猛スピードで、少しのブレーキすら踏まずにジムの体を突き抜けていく。
 その反対車線では、突然道路に飛び出してきた何かを避けようと、何台かの車がブレーキを踏んだり、クラクションを鳴らしたりしている。
 ノースブロード通りの中央の僅かな隙間まで辿り着いたジムが、真正面にチク・タクを捉えて気を逸らそうとするが、チク・タクの目にはわたし以外なにも映ってない様子で、ジムの体すら突き抜けて再び車の走る車線へと飛び出していった。
「私の次のターゲットは……君なんだ。ケイト」
 ジムに自分の死期が近いことを知らされ、一体どんな風にわたしは死ぬんだろう? って、なるべく考えないようにしながら、でも、頭の中ではずっと考えてた。
 例えば、原因不明の未知のウイルスに体を冒され、人類が経験したこともないような重い病気にかかって死んでしまったり。
 映画に出てきそうな、ものすごい事件に巻き込まれて、犯人に人質にされたり。
 突然現れた宇宙人にさらわれたり。
 実はわたしがどこかの資産家の娘だったってことがわかって、莫大な遺産相続のために利用されて殺されたり。
 もちろん、なんの変哲もなく、ただ車にはねられて事故死する、なんてのも考えた。全然ドラマチックでも、クールでもないけど。
 でも、自分の死期が迫っていて、自らそのタイミングを選択できるのだとしたら、大切な家族を救うために投げ出せる命があるということは、とても幸運なことだと思えるし、なによりとてもクールだ。チク・タクはペットなんかじゃない。ひとりだけの、大切な弟なんだから。
「チク・タク! こっちよ‼」叫びながら大通りを横切る。「こっちよ!」
 走り抜けていく車を警戒して、なるべくチク・タクが車に接触しそうなタイミングをずらしながら声をかけ続ける。
「そうよ! こっちよ、もう少しよ! チク・タク」
 彼がわたしの元へまっすぐに走ってくる。
「チク・タク!」通りの途中でチク・タクと合流して彼を抱きしめると、ジムが走り寄り叫んだ。
「ケイト! 早くその場所から移動しろ!」
 同時に耳をつんざく音がして、チク・タクの喜びの声がわたしの耳からかき消された。
 車が急ブレーキを踏んで、スリップする音なんていつから聞こえてただろう? 危険を知らせるために鳴らされたクラクションは、いつから聞こえてただろう? 
 気がつけば目前にトラックが迫っていた。あぁ、パラダイスで事故に遭ったイラストレーターがぶつかったのもきっとこんな感じの大きなトラックだったはずだ……。わたしは体を捩じらせ、チク・タクを歩道へと放り投げる。
「お母さんと、マギーおばさんを守るのはあんたよ」
 放り投げたチク・タクの体が視界から外れて最後まで追いかけることができない。チク・タク……、大きくなったね。
 チク・タクは無事に着地できたかな? 
 わたしの声は届いたかな? 

 焼けたゴムの嫌な臭いと、口の中いっぱいに広がる鉄の味。これがストロベリー・クリーム・サンドビスケットの濃厚なミルクの香りと、甘酸っぱいストロベリーの味だったら最高の最期だったのに。
 こうして、わたしは十二年の短くて儚い人生に幕を閉じた。

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