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「鳥かごのハイディ」第十二話

Smoke
(3)

 翌日の空は薄暗く、ずっと曇天模様で、小窓の先にある外の光りからは完全に遮断されていた。
 どのみち、この狭い箱にある小さな窓からじゃ大した景色なんて見えないけれど、光りの差し込む量が違うだけで、この鳥かごは独房のように重苦しく感じる。
 いつもの看護師チェックの後に、毎日気分の落差を感じさせないアガサが大きな声でこう言うの。

「ハイディー! チャーリー」
 彼女はいつも元気だ。悩みなんて、かけらもないんじゃないかって思えるほどに。
 だからこそ、彼女の存在がこのフロアで目立って見える。例えるなら、大自然の中にポツンと建ってる公衆電話のようよ。
 他のメンバーは、特にアガサのことを気にもしてないみたいだけれど、とにかくわたしには、この狭い鳥かごでの彼女の存在が異質に感じられるんだ。わたし自身が、このリハビリプログラムに参加してることに違和感があるみたいに、同じように彼女に対してもそう思えた。
「さぁ! 今日はどんなことをして、ここにいる連中の気を引く?」
 悪ぶって笑いながら、彼女は楽しそうに部屋に入ってきて言った。
「そんなことはさせないわ」
 アガサが部屋へ入るのを見計らったように、いつの間にかアガサの真後ろに立っているクレアが話す。まるで、昨日のレクリエーションルームを再現したような状況に、わたしは思わず笑い出してしまった。バツが悪そうに苦笑いでごまかすアガサの表情までも、まさに昨日のまんまだったから。
「冗談よクレア? 私たちだって、そんなに暇じゃないわ」
 言い訳がましく答えるアガサに、クレアはうっすら笑いながら首を傾げ、わたしに向かって言った。
「ところでチャーリー? スタイルズ先生の都合で、カウンセリングの時間が変更になったわ。今からだけど、特に都合は悪くないわよね?」
 そう話しながらも、まだチラチラとアガサのことを見ては笑っているクレアに、アガサは口を尖らせると悔しそうに言った。
「なによ! 言ったでしょ? 私だって悪戯するほど暇じゃないのよ?」
 そんな二人のやり取りを見ながら、わたしはお腹を抱えて答えた。
「えぇ……。わたしは大丈夫よ、今からでも構わないわ」
 昼前だっていうのに、生憎の曇天模様の雲は少しの光りさえ通さない。いつも以上に重苦しくて無機質な白い廊下だったけれど、さっきまでの彼女たちのやり取りに助けられて、今は不思議と嫌な印象もなくこの白い廊下を歩いていけた。
 廊下の先、鉄柵扉のモーヴィーの前まで来ると、今度はアガサがさっきのお返しとばかりに、クレアをチラチラと見ながらわたしに向かって話す。
「チャーリー! 脳みそ犯されそうになったら、大声で助けを呼ぶのよ? 私はいつものように、ここでモーヴィーをからかいながら、あなたを待ってるわ!」
 呆れてため息をつくクレアに、訳もわからずにオドオドと落ち着きのないモーヴィーが可笑しい。
 クレアと共にエレベーターホールへと進み、後ろを振り返ると鉄柵の向こう側ではさっそくアガサがモーヴィーにちょっかいを掛けているのが見えた。
「チャーリー! 早く戻って来てくれよ!」
 モーヴィーの弱々しい声を聞きながら、到着したエレベーターの中へと進むと、クレアが静かに話し出す。
「ここでの生活は楽しい?」
「悪くないわ」
 ゆっくりと動き出すエレベーターの中で、わたしが質問に答えると、彼女は少し困ったような顔をして続けた。
「あなたにとって、ここでの生活が心地好いものになってはいけないわ。忘れないで、あなたはここを出ていくために、今ここにいるということを」
 クレアもきっと、わたしに対してアガサと似たような感覚を持っているんだろう。
 わたしがここにいることへの違和感。
 今なら言葉通りに受け止めることができる。クレアは決して、わたしという厄介者を排除したくて言ってる訳じゃない。本当にわたしに立ち直る力が残っているのを見抜いているからこそ、口にする言葉なんだって。
「わたしも、そう願ってるわ」
 そう答えると、彼女は優しく笑いながら静かに肯いた。
 ドクター・スタイルズのカウンセリングルームのあるフロアで止まったエレベーターの扉を開く。
「カウンセリングが終わる頃に迎えにくるわ」
 クレアはそう言い残すとエレベーターの扉を閉めて、持ち場へと引き返していった。

     †

 古ぼけた木目の重苦しい扉を軽くノックすると、扉の向こう側からドクターの声が聞こえる。
「入ってくれ」
 扉を開いて中を覗き込めば、本棚に囲まれた落ち着きのある室内に、そこに響く時計の秒針。ドクターの座る書斎机の正面にあるソファーへと深く腰掛けると、わたしは彼に向かって言った。
「わたしの名前はチャーリー・ブライト。ママは去年の春に病気で亡くなって、今はラクロスに住むパパと双子の姉のエレノアが、わたしの家族よ。今日は西暦二〇〇八年十月の二十一日。ラクロスのグランダッド・ブラフから見える紅葉が最高に美しいと思える頃だわ。公園から見る澄んだ青空の青と、紅葉の赤の境界線に吸い込まれていきそうで、いつまで眺めていても飽きないほどよ」
 いつものようにボイスレコーダーを向けたスタイルズ先生は、驚いた顔をしてわたしを見つめた。
「今日は随分とカウンセリングに積極的だけど、何かあったのかい?」
 一瞬表情を緩めたように笑うと、すぐさまいつものドクター・スタイルズに立ち戻って訊ねた。
「わたしは今まで、どうして自分がこんな場所に押し込められなきゃならないのか、そればかり考えていたわ」
 先生は、わたしの顔を見ながら小さく肯いている。
「だから、先生が言うように、今までのわたしは、積極的にこのカウンセリングを受けようとは思わなかった」
 スタイルズ先生が探るように手元のカルテに目をやり、そして再びわたしの顔を見る。
「今は違う?」
 大きくはっきりと肯いたわたしは、さらに話を続けた。
「そうよ、違うわ。パパやエレノア、それにアガサや看護師長のクレア、そういった人たちに支えられて、わたしはようやくこの狭い鳥かごの中で生きていられる。でも、そうやって支えてくれる人たちの願いは一つ。わたしが立ち直ることだって気がついたの」

 先生は普段通り眉一つ動かさずに肯くけれど、そんな落ち着き払った態度とは裏腹に、その目だけはとても優しく、相槌するように瞼をゆっくりと閉じた。
「それじゃあ、君たち双子について話してくれないか? 何でも構わない。最近のことでも、昔の思い出でも」
 わたしは黙ったまま横たわり、目を閉じてドクター・スタイルズの指示に従う。

 静かに響く時計の秒針――。

 それ以外は何も聞こえない。やがて真っ暗な部屋の中で、わたしが眠るベッドに、もう一人のわたしが忍び込んできてヒソヒソ声で話す。
「チャーリー? 起きて! パパとママは眠ったみたいだよ」
 見た目も背丈も声もそっくりなもう一人のわたし。
 それが、大好きな双子のエレノア。
「寝坊助チャーリー! 今夜、ママが作ってくれた石鹸水のシャボン玉を夜空に飛ばしてみたいって言い出したのは誰?」
 そう囁きながら、エレノアはわたしのお尻を目一杯つねったんだ。
「痛い! 起きるからつねらないでよ!」
 慌ててベッドから飛び起きると、そんなわたしを見ながらケラケラとお腹を抱えて足をばたつかせるエレノアがとても意地悪に見えた。
 週末恒例のピクニックを翌日に控えた双子に、ママは特別な魔法をかけた。不思議なシャボン石鹸液を前日の晩に作ってくれていた。
「良い? 二人共、この魔法のシャボン液は、ママの家に代々伝わる特別なシャボン液なのよ」
 そんなママの言葉をすごく緊張しながら聞いているわたしの隣で、エレノアはとっくにそれがママの冗談だってわかってるみたいだった。
「ママ? その魔法のシャボン液と、普通のシャボン液はどう違うの?」
 エレノアみたいに捻くれてないわたしは、すっかり信じ込んで、身を乗り出して訊ねるの。隣では、そんなわたしを面白がってるエレノアがいるわ。
「エレノアったら、信じてないのね? 信じることができないなら、どんな奇跡を目の当たりにしても、その人は目に映る事実を受け入れることができない人だわ」
 ママの言葉に、エレノアは少しだけムッとする。
「ふうん。じゃあ、一体普通のシャボン液とどう違うの?」
「エレノア? この魔法のシャボン液で飛ばすシャボン玉は、とても丈夫で割れにくいのよ」
 わたしの頭を撫でながら話すママに、エレノアが噛みつく。
「ほら? やっぱりインチキだわ! だって割れにくいってだけなら、わたしもチャーリーも、学校の授業でやったばかりだもん!」
 たしかに割れにくいだけのシャボン液なら、ついこの間学校で習ったばかり。でもママが作ってくれたのは先祖代々伝わる魔法のシャボン液。学校で教わる単純なシャボン液なんかとは全然違う! って素直なわたしは信じてたわ。
「もちろん、それだけじゃないわよ? そんなつまらない物を魔法なんて呼ばないわ。そうでしょ?」
 ママは屈み込むと秘密めいた目でじっと見つめた。わたしもエレノアもすっかりママのペースに乗せられて、次の言葉をドキドキしながら待っているのよ。

「君たちのママが作ってくれた魔法のシャボン液は、一体何が他とは違ったんだい?」

 スタイルズ先生の質問に、わたしはあのときのママのように答える。
「『まず、自分の叶えたい願いをはっきりと頭の中に浮かべるの、そして、その願いと一緒に大きく息を吐き出して、魔法のシャボン玉の中に閉じ込めて飛ばすのよ。そのシャボン玉が割れることなく空に消えていったなら、天にいる神様が、その願いを聞き届けてくれるのよ』

「つまり、神様への手紙みたいな物かい?」

 その質問は、まさに当時のわたしがママにしたのとまったく同じ……。
「ママ? それって、神様への願い事ができるお手紙ってこと?」
「えぇ、そうよ。チャーリー」
 わたしは目を輝かせて話に聴き入っていたけど、隣のエレノアはやっぱりどこか半信半疑みたいだった。
 でもその夜エレノアはひそひそ声でわたしを起こした。「チャーリー、チャーリー! 起きて!」
 眠る前にベッドの中に忍ばせていた懐中電灯をこっそり取り出すと、真っ暗な床を照らして、ママが作ってくれた魔法のシャボン液をわたしに渡す。
「ほら! はやくシャボン玉を飛ばそうよ!」
 ママの話を聞いていたときは、まったく信じてないって態度を取ってたエレノアも、早くシャボン玉を飛ばしたくてうずうずしてるように見えたわ。
 懐中電灯の灯りで、窓ガラスにぼんやり浮かび上がる同じ顔をした双子の少女の姿は、これから始まる胸躍る大冒険に出掛ける前のおとぎ話の主人公のようだった。
 わたしも、そしてエレノアも寸分違わず、悪い魔女に捕らえられたお姫様を助けにいく王子様みたいにキラキラと目を輝かせて。
「シィーッ! 気をつけて」
 窓枠を持ち上げると、途端にその隙間から冷たい空気がするりと部屋へと流れ込んでくる。たったそれだけのことなのに、わたしたちの部屋と、外の世界を隔てるこの窓が、別次元への入り口だと思えるような気分だった。
「シィーッ! 音をたてちゃダメよ」
 ふたりで協力して窓を上まで開くと、決して物音をたてないように気配を潜ませて、窓枠にまたがると外へ出た。チクタクいつも響いていたはずの秒針の音だって、いつの間にか聞こえないの。
 きっとそれだけ集中してたか、それとも本当に外の世界が別次元で、窓っていう境界線を越えた瞬間に部屋の中の時間が止まってしまったのか、そのどちらかだったと思うわ。
 とにかくわたしもエレノアも、こんな大冒険の夜は初めてで、無事に二人で芝生の上に降り立ったときは、気分が高ぶり過ぎて叫び出しそうなのを抑えるのに必死だった。
 あの日はたしか十月の下旬で、外の空気は凍えるほど冷たかったはずなのに、不思議と寒かったなんて印象は残ってない。良く晴れた夜空で、数えきれないほどの星が輝いて、空に浮かぶ月が一段と大きく見えるような夜だった。
「願い事は決めた?」
 懐中電灯の光りを消して、暗闇の中でエレノアが訊ねる。
「うん。エレノアは?」
「わたしはチャーリーと二人で世界一有名な歌姫になりたいってお願いするわ」
 ママの話を冗談半分で聞いてたエレノアは、もうすっかり信じてるように見えた。シャボン液とストローを手渡すと、エレノアは目を閉じてブツブツと自分の願い事をつぶやいてから、空に向かってたくさんのシャボン玉を飛ばしていく。
 暗闇の中で無数に打ち上げられたシャボン玉は、月明かりに照らされて、うっすらと玉虫色に輝きながら空へと昇っていった。
 その幻想的な光景が今でも目に焼きついて離れないほど。間違いなくこれはママが言う通り、魔法のシャボン玉なんだって改めて確信した瞬間だった。
 ゆっくり空へと昇っていくシャボン玉を、わたしたちはただ黙ったまま見送った。中には途中で弾けてしまうものもあったし、空へと
れずに地面に落ちてしまうものもあった。
 夜空の中へと消えていった透明な神様への手紙が、一体どのくらいあったかなんて数えることはできなかったけど、わたしたちはすっかり見えなくなるまでただ黙って見送ってたんだ。
「さぁ、次はチャーリーの番!」
 そう言ってエレノアに手渡されたシャボン液を手に握り、わたしはエレノアがやったのを真似て目を閉じ、自分の願い事をつぶやいた。
 緊張してたせいね。吹き出すときに力み過ぎて、わたしが飛ばしたシャボン玉はエレノアのよりも遥かに数が少なかった。
 それでも、月明かりに照らされたわたしの手紙の幾つかは、エレノアのときと同じように空へと消えていった。
「途中で割れたりしないで、ちゃんと神様のところまで行ってくれるかな?」
 不安になったわたしが、隣で同じように空を見上げるエレノアに訊ねると、彼女はこの星空を見上げながらつぶやいた。
「あれだけたくさん飛ばしたんだもの。きっとそのうちの一つくらいは神様に届くはずよ」って。
 そんな彼女の言葉を聞いて、わたしもそう思えたわ。

「君は、どんな願い事をしたんだい?」

 そう訊ねるスタイルズ先生の言葉に、わたしは黙り込んだ。
「……」
「言いたくなければ、言わなくたって構わないよ。続きを聞かせてくれるかい?」
 願い事の中味を話したくない訳じゃない。淡々と話す先生の視線を避けるように、わたしはソファーに寝転がる。
 わたしもこの記憶を辿るうち、ずっと自分がした願い事がなんだったのかを探し続けていた。でも結局見つからず終い。だから話したくない訳でも話せない訳でもない。あのとき何を願ったのか思い出せないだけなんだ……。
 スタイルズ先生に、その事実を打ち明けないままに、わたしはさらに思い出を辿っていく。
「それから、部屋に戻るまでの少しの間、わたしたちはその場所でずっと星空を見上げてたわ」
 わたしもエレノアも、もう一度シャボン玉を飛ばそうなんて、一言も言わなかった。その言葉がどれだけ野暮かはわかってたつもり。
 だってそうでしょ? 同じ内容にしても、違う内容にしても、願い事の詰まった手紙を同じ日に何通も届けられたんじゃ、神様だって良い気分にはならないもの。
 それからわたしたちは自分たちの部屋へと戻った。部屋を出たときと同じように、決して物音をたてないように注意深く。
 たったこれだけの出来事だったけれど、わたしたちにとっては忘れられない大冒険だった。その夜は、部屋に響く秒針の音がまったく聞こえないくらい興奮してたんだもの。
 でももしかしたら、部屋に戻ってもまだわたしたちの魔法の時間は続いていて、時が止まったままだったのかもしれないわ。
 もしくはあの大冒険そのものが、魔法にかけられたわたしたちの夢だったのかも。だって気がつけば毎週末包まれる甘い蜂蜜と、香ばしいトーストの香りを纏ったママの笑顔で目を覚ましていたから。

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