「銀盤のフラミンゴ」第二話
ジェシカのミートパイ
放課後、スクールバスを待つ生徒たちを眺めながら、わたしはひとり、校舎の側にあるガーデンに座り込んで、お母さんが迎えにくるのを待っていた。
「ダーリーン! お待たせ!」
車で迎えにきたお母さんは、通りの端に車を寄せると運転席の窓を開けてわたしに呼びかける。スケートクラブがある日は、いつもお母さんが車で迎えに来てくれてリンクまで送ってくれるんだけれど、練習が始まるのは、だいたいいつも夕方の四時ごろ。だからこのままリンクまで直行すると少し時間が早すぎるんだ。
それでクラブのある日は、学校とリンクのちょうど中間ほどの距離にあるベーカリー『ジェシカ』で一緒に時間を潰す。焼きたてのパンとコーヒーや紅茶、自家栽培のハーブを使ったお茶を振る舞ってくれるお気に入りの店だ。お手製のクロスやアンティーク風の写真フレームが壁にはいくつも掛けられている。
店内に入ると、そこは常連のお客さんばかり。もちろんわたしたちも、その常連客なんだけれど。
「あらあ? いらっしゃい」
カウンター越しに迎えてくれたのは、このお店の女主人、ジェシカおばさん。彼女は旦那さんと一緒にこのベーカリーショップを経営している。
「こんにちは、ジェシカ。私はシナモンロールとコーヒーを。ダーリーンは?」
「わたしは、ドライフルーツマフィンに、ココアを」
ジェシカおばさんは今日も派手な花柄のシャツを着ていた。その上に使い込んだエプロンを巻いて、裾にはオーブンでついたんだろう、焼け焦げの跡が微笑ましい。
わたしは『ジェシカ』のブレッドと、なかに必ず入っているドライフルーツやハーブがとても好きだけれど、それ以上にこの店の女主人のことが大好きだった。
「ダーリーン、今日は天気も良くて暖かいから、テラスで食べない?」
注文を済まして商品を待っていると、お母さんが外のテラスを眺めながら、ワクワクしたように提案する。
「そうね、じゃあ商品持っていくから、先にテラスに行ってて」
わたしがそう答えると、お母さんはうれしそうにお店にあった雑誌を何冊か手に取って、テラスへと出ていった。
「ダーリーン、今日もスケートの練習かい?」
ジェシカおばさんは、先の丸いトングを使って、シナモンロールを崩さないように陳列棚から器用に取り出してお皿に載せていく。商品を支度しながらそんな彼女が珍しくわたしに声をかけた。トングを置くと、かがめた腰に手を当ててこちらに微笑みかける。
ジェシカおばさんが声をかけるなんて数えるほどしかなかったから咄嗟のことで少し慌ててしまった。すると、おばさんはにっこり笑ってまた話しはじめる。
「あんたは偉いね、小さいころから。本当に頑張り屋さんだよ。あんたみたいに、素直で頑張り屋な子がうちにもいてくれたらね……そしたら、うちのお店も安心なんだけどね」
優しい目でそう見つめながら漏らすジェシカおばさんは、おばさんってよりも、むしろお婆さんって言った方が表現としては正しい。詳しい年齢は聞いたことがないけど、わたしから見るにたぶん七十歳くらいだと思う。
旦那さんのボブとの間に子供はなく、つまりお店の後継者問題に頭を悩ませているの。『ジェシカ』は常連客も多く、この町の人たちにとても愛されているお店。だからもしこの『ジェシカ』が閉店なんてことになったら、きっと町の人たちはとても寂しがるだろう。
店内は明るい雰囲気で、いつも笑顔が絶えない。こうしている今だって、新しくやってくるお客さんたちは、わたしの後ろを通り過ぎるとき、「やあ、ジェシカ! 今日も美味しいブレッドを頼むよ」と声を掛けながら、まるで自宅のカウチにでも座るようにテーブルに着く。
イエローのカーテン越しに差す光と、いかにもアメリカンポップなペンダント照明、チェッカーフラッグの白黒格子のテーブルクロス。庭仕事をした後の土が付いたお客さんたちのスニーカーや、脇に抱えた新聞がすごく良く似合う――そんなすてきな町の『ジェシカ』だ。
「来月は感謝祭だろう? だから新しい商品を今考えているんだよ。うちの定番のミートパイも若い子にはいまいちでね。ちょっとスパイシーにしてみようと思って、クミンとスターアニスを入れてみたんだ。ダーリーン、よかったらちょっと食べてみておくれよ」
ジェシカおばさんはそう言うと、カウンターの下から小さめにカットしたミートパイを、ふた切れ紙ナプキンに包んでトレイの端に載せた。まだ焼き立てなんだろう、カットした面からは湯気が上っている。
「さあ、お待ちどうさま。風が冷たいからね、体を冷やさないようにブランケットを持っていきなよ」
そういってジェシカおばさんは、トレイの脇にキルト地で作られたブランケットを二枚カウンターに出してくれた。カウンターの中に立っている彼女は、いつでも優しく微笑みながら店内の様子に目を配っている。背中側にある赤く塗られた古い木の棚には、コーヒーカップがたくさん並べられているんだけれど、これは昔お店を改装したときに旦那さんのボブが自分で頑張って作ったんだってたしか言っていた。
ブランケットを受け取ってお礼を言うと、ジェシカおばさんは、「ミートパイは、感想を教えておくれよ」と言って目を細めてにっこり微笑んだ。訊いたことはないけど、このキルトもきっと大切な古い布で作られたものなんだろうって思う。
トレイいっぱいに載ったジェシカおばさんの焼いた美味しそうなブレッドを床に落とさないように気をつけながら、わたしは精一杯に微笑みを返した。
ブランケットを小脇に抱えトレイを持ってテラスへと出る。外では先に席に着いていたお母さんが、テーブルに雑誌を広げて優雅にわたしを待っていた。白く塗られた小さな丸いテーブルと数脚の椅子。緑と白のストライプのひさしの下で、組んだ足をぷらぷらさせながら午後の日差しを浴びて楽し気にしている。
「お待たせ、お母さん」
トレイを持ちテーブルに着くと、お母さんは読んでいた雑誌を閉じて、ジェシカおばさんと同じように優しく微笑んでくれた。
陽の当たるテラスで町の景観を眺めながら、お母さんと肩を並べてマフィンを頬張ると、喉に広がるバターの香りと一緒に心が穏やかに溶けていく気がする。スケートは好きにはなれないけど、こうやって一緒に過ごす時間は大好きなんだ。いつまでもこうして過ごせたら良いのに……。
「あら、これなあに?」
トレイの端にあったミートパイを見つけてお母さんが覗き込む。
「ジェシカおばさんが、来月の感謝祭用に新しいミートパイを試作したんだって。感想を教えてほしいって、おまけしてくれたわ」
「あら、うふふ。ジェシカもまだまだ現役ね。いつまでも新しいブレッドを焼いてほしいものだわ」
そう言ってお母さんは笑った。
授業中考えていた将来の不安や憂鬱さがわたしの中に戻ってくる。それと同時に、さっきジェシカおばさんと話した『ジェシカ』の跡継ぎの話を思い出していた。
もし、卒業後『ジェシカ』で修業してパン職人になりたいなんて言ったらお母さんは悲しむのかな? でも、この町の人たちにもすごく愛されてるお店だし、そんなお店を継げるなんてことになったらすごく名誉なことだから、もしかしたら喜んでくれるかもしれない。でも、だからってスケートを辞めたいなんて言ったら、やっぱり間違いなく悲しむんだろうな……。
「ダーリーン? ダーリーン? どうしたの?」
ココアの入ったマグカップを握りしめながら黙っていると、そんな様子を心配したお母さんが優しく肩を揺すった。
「なんでもないわ! ちょっとイメージトレーニングしてたのよ」
咄嗟についた嘘に、お母さんはクスリと笑ってうれしそうに言う。
「あなたって、本当にスケートが大好きなのね。寝ても覚めてもスケートのことばかり」
違う! まったく違うのよ! わたしはお母さんのことが大好きだけど、お母さんのようにはスケートを好きになれないのよ!
言葉にならない心から溢れる気持ちを、わたしは奥歯で噛み潰した。
『あなたには期待してるわ、ダーリーン。私の叶えられなかった夢を、私のためにもあなたが叶えて』
声にならない声が何度も聞こえた。ジェシカおばさんのミートパイに手を伸ばす。店内の明るい色、テラスの爽やかな日差し――新しいミートパイは、スパイシーで少しだけインド料理の味がした。これがスターアニスなんだろうか――少しなじみのない香りが、喉の奥にまとわりついていた。それでもやはり、ジェシカおばさんの焼いたパイはとても美味しかった。
「さぁ、そろそろ時間よ、行きましょうか? ジェシカー! ミートパイ美味しかったわ! また来るわねー!」
店の中に向かってそう言って、お母さんはコーヒーを飲み干すと席を立って歩き出す。そしていつものようにわたしの頭を引きよせて、コツンとおでこでキスをした。わたしは黙って車へ向かうお母さんの後ろ姿を、ただ追いかけるだけだった。
†
「ダーリーン、夕食の支度を済ませたらまた迎えにくるわ。怪我には気をつけるのよ」
リンクへ送り届けるとお母さんはわたしの頬にキスをして、何度も窓から手を振りながら車で走り去っていく。
一面の青い壁の前に置かれたベンチで、何人かのチームメイトが愉し気に喋っていた。にこやかに笑顔を向ける彼女たちに軽く挨拶をして『アイスウィンドリンク ビスマークSC』と書かれた黄色い三角のひさしをくぐり、ロッカールームに直接つながっているドアを開けるとひんやりとした通路を歩いていく。
このスケートクラブには、コーチが三人にコーチアシスタントがそれぞれ数人ついていて、それぞれがジャンプ、ステップ、ターン、演技指導や、ときには徹底した個別指導もしてくれる――この町で一番大きなチームだ。
もちろん生徒の数も多いけど、コーチアシスタントが生徒ごとに細かい情報を逐一書き込んだカードを持っていて、その生徒にあった適切な指導をしてくれる。ロッカー室の奥にはコーチ専用の控室もあって、その入り口には小さな黒板が用意されていて指導スケジュールが簡単にメモされている。
きっと、わたしのカードにはこう書かれているのよ。
[ダーリーン・モリス、才能なし]って。
ロッカーで着替えを終えると、念入りに柔軟体操をしてリンクに入り、リンク内を大きく何周かする。そうして体を慣らすと、わたしはスピンを練習しているブロックの中に入っていきひたすらスピンの練習ばかりしている。
いったい何歳になったときリンクデビューしたのか――始まりの日は覚えていない――でも、幼いころお母さんと手を繋いでリンクを滑っていたことだけはよく覚えているんだ。
手を放してしまえば、途端に不安になるような小さな子供だったわたしは、ちょっとスピードを出すと怖気づいて尻もちをつく。一般のお客さんも滑る大きなスケートリンクのごく一画で、お母さんはまるで小さな歳の女の子みたいに屈託のない笑顔で、「見てて!」とつぶやくと、突然その場所でクルクルと回りはじめたんだ。
あの日のことは今でも鮮明に覚えている。生まれて初めて見た氷上のスピンに、幼いわたしはまるで魂を吸い取られてしまったみたいに魅入っていた。当時はリンク内を転ばないように滑るので精一杯。ターンはおろか、スピンやジャンプなんて見たこともなければ、そんなことができるなんてことも知らなかったわ。
だから、お母さんが披露してくれたスピンがどんなスピンだったのかはわからなかったけれど、とにかく心と体を奪われていたのよ。
スタンドスピンから、片足をリンクと平行に後ろへ上げ上体を落とすと、お母さんはその腕をしなやかに風になびかせた。そしてキャメルスピンで大きく花びらを開いた花が、そのまま大きく上体を反らせてレイバックスピンで天を仰ぐようにいっせいに太陽に向かって顔を上げる。
――まるで、羽を広げた妖精が大きく空へと飛び立っていくかのごとき光景。目の前でクルクルと回るお母さんは、テレビで釘付けになって見ていた魔法使いの少女が陽気にふりまわすステッキみたいに、自由自在にまばゆい光をまき散らしているように見えた。
シャッシャッ……! と響く音に、細かく舞い上がる氷の塵。ダイアモンドダスト――そんな言葉を知ったのはもう少し後のことだったけれど、わたしにはそのときのお母さんがまるで白銀のステージを舞う妖精のように見えた。今思えばあれが、お母さんのようになりたいってスケートにのめり込んでいったきっかけだったのかもしれない。
軸に置いた足をぶらさないように、その場でスピンをし続ける難しさなんて、当時はわかりようもなかった。スケートを本格的に始めて実践すればするほど、身のこなしに常にまとわりつく不自由さにがんじがらめになっていったんだ。
爽やかな笑顔で華麗に踊るトップスケーターたち。観客に、如何に自由に、如何に自然に舞っているように見せるのかが、どれほど大変なことかわかってくる。ひとたびスピンの軸がぶれてその場を動きはじめてしまえば、ハリケーンのように観る人たちに不安と不快さを与えてしまうんだろう。
そんなことを考えながら、黙々と軸足を気にしてスピンの練習をしていると、近くにいたコーチアシスタントのシンディが側に来て言った。
「ダーリーン、ちょっといいかしら?」
シンディに呼ばれたわたしはスピンを緩めると、コーナーサイドまで滑っていく。足を止めるときにエッジが削った氷が彼女の足元に小さく降り注いだ。
「なに?」
ぶっきらぼうにそう返すと、シンディはこれ見よがしに首を振った。
「ダーリーン、最近のあなたは少しおかしいわよ? この前の選抜テストでも、いくつかステップを飛ばしたりしたわね?」
わたしは大きくため息をついて、シンディの視線から顔を背ける。
「どうしたの? あなたなら、間違いなくテストをパスできるだけの実力を持っているはずなのに……」
心配そうに語りかけるシンディに、わたしは少しの苛立ちを混ぜて言葉を放った。
「買い被りすぎよ、あれがわたしのベストだわ」
「そんなはずないわ。私は小さいころからあなたを知ってるのよ。あなたならもっと、できたはずよ」
そんなやり取りに、わたしの苛立ちは目に見えるように溜まっていく。
「放っておいてよ! わたしがこれで良いって言ってるんだから、それで良いのよ!」
「待って! ダーリーン! 私から見れば、今のあなたは一生懸命に取り組んでいるとは、到底思えないわ!」
逃げ出すように氷面を蹴って離れようとするわたしを、シンディはしつこく追いかけてくる。シンディの言っていることは図星だ。わたしは一刻も早くこのスケートってものから遠ざかりたくて仕方がないんだから。でもそれを他人に見透かされたことが悔しくて……。
「ダーリーン! このクラブの月謝だって、決して安いものじゃないのよ? あなたがこのクラブに通う以上、私たちはあなたの才能を伸ばすことにベストを尽くさなくてはならないし、あなたも両親に対してそれに応える義務があるわ!」
お母さん……。わたしはお母さんのことが大好きだけれど、お母さんのようにはスケートを好きになれないのよ……。
「だったらこんなところ辞めてやるわよ!」
わたしはそう言い放つと、シューズを脱いで静まりかえったリンクを後にした。
†
リンクからは、まだチームメイトたちが必死に滑る音やコーチの指導する声が響いてきていた。閑散としたロッカーで着替えを済ませると、入口横のベンチでひとり迎えを待つ。青い壁から突き出したダクトから、温くなったリンクの冷気が漏れ出していた。やがてやってきたお母さんは、シンディとは別のチーフアシスタントに呼ばれた。
「あら、なにかしら。ちょっと待っていてね」と、不思議そうに奥へ話を聞きにいったお母さんが戻ってきたのは、それから十分ほど経ってからだった。
「お待たせ、ダーリーン。さあ、帰りましょう」
お母さんの態度はいつものそれとまったく変わりない。いったい、チーフアシスタントとどんな話をしたんだろうか?
でも、どんな話をしたにせよ、わたしがお母さんを悲しませるようなことをしたのは事実だわ。