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「鳥かごのハイディ」第八話

Haze
(3)


「チェック!」

 翌日、毎時間恒例の看護師によるチェックコールのあと、レベッカがわたしに向かって言った。
「チャーリー。あなたに面会人が来てるわよ?」
 レベッカの話に驚いたわたしは、ベッドから体を起こして彼女に訊ねた。
「面会人? 一体誰?」
「あなたのお父さんよ。私について来て」
 レベッカが優しく笑いながら廊下の方へと姿を消す。わたしは慌てて後を追った。
 エレベーターホールには、二基のエレベーターが備え付けられていて、一方はカウンセラーのドクター・スタイルズのカウンセリングルーム直結エレベーター。もう一方は、この建物の各フロアへ行き来するためのエレベーターがある。
「ここで待ってて、今、あなたのお父さんを呼んで来るわ」
 レベッカはそう言い残し、鉄柵の向こう側へと姿を消していった。
「誰か、家族の人が面会に来るのかい?」扉の番人、モーヴィーが声を掛ける。「正直、ここに面会に来る家族の人は、あまり多くないんだ。君は家族に愛されているんだね」
 静かに肯くわたしに、モーヴィーは微笑みかけてくれるけど、内心とても複雑な気分だった。それは自分の取った愚かな行為のせいでもあり、未だにその穴から抜けられない申し訳なさでもあり、何より、そんなわたしのことを見捨てないでいてくれる家族の愛が、今のわたしの心を鋭いナイフでえぐるんだ。
「ハイディー! チャーリー」
 そのとき、わたしを見つけたアガサが嬉しそうに駆け寄ってくるのが見えた。
「ねぇ! 昨日は一体どうしたの? 突然部屋に戻ってしまったし、あれ以来部屋から出て来なかったから心配したわよ?」
 いつもと変わらない調子でにこやかに話し掛けてくる彼女に対して、わたしは目の前にいるモーヴィーの言葉を思い出していた。――この施設には、面会に来る家族が少ないって言葉を。
 アガサはどうなんだろうか?
 少なくとも、わたしがこの施設にいる間には彼女の家族が面会に来た様子はないみたいだし、昨日煙草を吸ってむせた彼女が言った通り、家族の気を引くためにやったことなら、これからわたしに会いにやって来るパパを見てどう思うんだろう? 
 そんな家族に愛されているわたしのことをアガサはどう思うんだろう?
 やっぱり、気持ちの良いことではないんだろうな……。
 今まさにレベッカがパパを迎えに行ってるって伝えることもできずに、わたしはただ楽しそうに話すアガサを見つめた。
「ところで、これじゃない? あなたの吸ってた銘柄って?」
 突然アガサに差し出された白地に緑のマークが入った煙草に目をやると、わたしの記憶の物と一致する気がした。
「よくわかったわね? たったあれだけのヒントだったのに」
 驚いて訊ねると、アガサはくすぐったそうに笑った。
「もちろんよ、私はあなたの力になるわ」
 そう言ってくれたアガサの言葉に、わたしは妙な安心感を覚える。エレノアが言ってくれる言葉みたいに、とても愛の篭った言葉に感じるんだ。
 わたしとアガサは全然似ていないし、アガサとエレノアも似ていない。なのに、なぜかアガサには不思議な親近感を覚える。付き合いは全然長くないけど、もうずっと以前から知ってるみたいな、そんな不思議な気分だった。
 例えば、行ったことも見たこともない場所に立ったとき、まるで以前にもその場所からその景色を見たことがあるような、不思議な感覚に陥ることがあるって、何かの本で読んだことがある。それをデジャヴュって言うらしいけど、それは特定の人物にも当てはめることはできるのかしら? 
 今目の前にいるアガサのような人物に対しても、同じように言い換えることができるのかな? それとも、今わたしが感じてるこんな感覚さえ実は薬の副作用で、わたし自身大きな勘違いに陥ってしまってるのかもしれない。
 そして、そんな気持ちと同時に、わたしを訪ねにくるパパのことをアガサが知ったら、彼女は一体どんな風に思うんだろうって不安な気持ちが湧き起こった。

     †

 薄暗いホールに扉を開く鉄を擦る音が響き、エレベーターから漏れる光りがぼんやりと見える。静かな廊下に響く二人分の足音が近づいてくると、鉄柵扉の向こうのレベッカの後ろに懐かしいパパの顔が見えた。
 ママを病気で亡くしてしまってからは、元々お喋りが得意じゃなかったパパの口数は激減し、すっかり痩せ細った体と血色の悪い顔色で、まるで生きる屍のようになってしまった可哀相なパパ。
 今のわたしよりも遥かにパパの方が心を病んでいて、この施設で生活していてもおかしくないと思えるほどだ。
 モーヴィーが扉を開くと、進み出てきたパパはわたしを見るなり、鼻を啜って目に涙を浮かべた。
「レクリエーションルームを使いなさい? 親子水入らずで、他人の目を気にしないで過ごせるし」
 レベッカが、パパとわたしを案内するために先頭を歩き始める。
「久しぶりだな。体調は崩してないか?」
 わたしを見つめるその目は、まさに生きていた頃のママを見つめるような優しい眼差しだった。
「うん……わたしの方は大丈夫だよ。それよりもパパの――

 そう言いかけると、横にいたアガサが大きな声を出した。
「チャーリーのお父さんなの?」
 面会人のないアガサに対して若干の気まずさを覚えつつも肯くと、なぜかパパが一瞬悲しそうな顔をしたように見えた。
「ごめん、アガサ。詳細は後で話すわ」
 申し訳なさそうにつぶやくと、アガサはわたしの両肩を力強く叩いて笑顔で話した。
「何を遠慮してるのよ? 言ったでしょ? 私はあなたの力になるって!」
 そんな彼女の言葉が、そして気持ちがとても心地好かった。まるでエレノアと一緒にいたときのような安堵感に満たされる。
「他の連中が、あなたたちのことを見て何て言おうと関係ないわ。あなたは必ずここを出るべき人だもの」
「アガサ……」
 こんな風に思ってくれていることに驚きを隠せない。わたしは彼女の言葉に感極まって思わず胸が熱くなった。
「やめてよ。当然あなたが出ていった暁には、今度はあなたが私を訪ねに来るのよ? 他の連中に自慢してやるわ!」
 アガサはわたしの感謝を拒否するように両手を上げて憎らしい笑顔を作った。けれどわたしたちの話を聞いていたパパがアガサに握手を求めると、彼女は照れ臭そうにそれに応じた。
「ほら、早く行きなさいよ」
 アガサはそう言うと、何事もなかったかのように振り返って談話室へと歩いていった。

     †

 レベッカに連れられて、レクリエーションルームの前まで来ると、向かいのナースステーションの窓から看護師長のクレアがわたしを見て、力強く肯いたのがわかった。
 人って一人で生きていくのが本当に難しいと思う瞬間がある。昨日まで感じなかった息苦しさを、ふと目を覚ました翌日のベッドの上で感じたり。例えば、それまで特に何も感じなかった事柄が、急に頭から離れない問題になってしまったり。
 そんなときは決まって、クレアが言う両手ですくった水が、隙間から零れ落ちて口まで運べない状態なのかもしれない。
 けれど、今わたしが、どうにかこうにか毎日を踏み止まって生きていられるのは、自分の薄っぺらな意思のおかげなんかじゃなくて、こうして遠くからでも気にして見守ってくれる施設のスタッフたちや、わたしを見捨てないでいてくれる家族の愛。そして、誰よりもわたしに一番近い目線で励ましてくれるアガサの存在が大きいんだって、心からそう思えた瞬間だった。
 わたしはきっと立ち直っていけるって、そう思える瞬間。わたしとエレノアがピタリと同じであるように、右手と左手がピタリと合わさって、澄んだ小川の水を上手に口に運べるような。――それは久しく忘れていた、とても前向きな気分だった。
 レクリエーションルームに入るため、鍵の掛かっていない扉を開いてパパを案内しようとしたとき、その手に見慣れた懐かしいギターケースを持っていることに気づいた。
「それってもしかして?」
 わたしが目をやると、パパは何度も小さく肯いた。
 パパの手に握られたギターケースは、毎週末、家族総出でピクニックに出掛けたグランド・ブラフに必ずママが持っていったギター。元々このクラシックギターは、パパが若い頃にママを口説くためによく弾いてくれたものだってママが嬉しそうに話してくれたのを覚えている。
 そして、わたしたちが生まれ、今度はママが双子を口説くために弾いてくれた。
 つまりこのギターは愛を奏でるギターなんだ。
 でもママは、音楽に関して言えば、わたしに似て不器用で、唄う歌はいつも同じ。奏でるギターもいつも同じ。
 それでも、わたしたちのために何度も間違えながらギターを弾いて歌ってくれるママの歌が、わたしたちは大好きだったし、とても憧れたんだ。
「お前たちは、いつか双子で大きなレコード会社と契約して、歌手になるんだって騒いでたっけな?」
 パパが懐かしそうにギターケースからギターを取り出す。
「ねぇ、チャーリー! わたしたちも大きくなったら歌手にならない?」
 わたしたちが五歳か六歳になりたての頃、興奮したエレノアが話し掛けてきたのを覚えている。
「エレノアがやるなら、わたしもやる!」
 なんだって一緒じゃなくちゃ気がすまなかったわたしは、二つ返事で答えた。それからはギターの練習三昧の日々。自分の体ほどもある大きなクラシックギターを抱えて、コードも何もわからずにただママの真似をしたわ。そんな毎日が幸せで堪らなかった。
「お前が持ってる方が良いと思って……」
 そう言いながらパパは、ママが毎週末、オンボロのトラックの荷台で聴かせてくれたあの曲をゆっくりとしたテンポで弾いてくれた。
 目を閉じると、今でも瞼の裏側に浮かび上がる記憶と感覚。グランド・ブラフの帰り道、ほやほやの轍から巻き起こる土煙と草の匂い。ガタガタと揺れるトラックの荷台で、わたしとエレノアがお互いに体を寄せ合って耳を澄ますと、聞こえてくるのは、ママが奏でる一生懸命で不器用なギターの音色。
 車の揺れが次第に収まって来る頃、わたしたちの乗る車の速度の遅さに痺れを切らした後続車の運転手たちが、こぞって野次を飛ばしたり文句を言ったり、クラクションを鳴らしたりとうるさい。
 わんわんと吠える遠吠えのような街の騒音に薄目を開くと、目の前にはラクロスのきらびやかなダウンタウンが見えてくるんだ。まるで、わたしたち家族の幸せを妬んでるみたいに光り輝いて、そしてわんわんといつまでも。

 わたしたちに向かってわんわんと……。

「持っててくれるだろう?」
 再びそう言うと、パパはギターを差し出した。
 わたしが起こした事件以降、エレノアの顔を見ていない。最後に見たのは病院のベッドの上で意識も途切れ途切れのとき……。真っ青な顔で看護師やドクターを突き飛ばして、わたしが処置を受ける部屋へと飛び込んで来たのが最後だった。
 今もこうして頑なに顔を見せないのは、エレノアがわたしに対して怒っている証拠。いつだって二人の間に問題が発生したときには、真っ先にその問題を解決することがわたしたちのやり方だったのに、あるときを境にわたしたちはそれをしなくなってしまった。
 わたしもエレノアも、お互いの関係を修復できないほど、二人の間に距離を置いてしまったんだ。合わさってしまえばピタリと隙間なくくっつくはずのわたしたち双子でも、片手だけですくえる水の量なんてたかだか知れているのに。
「嬉しいけれど、そのギターはやっぱり今のわたしが持ってるべきじゃないわ。エレノアだって反対したんじゃない?」
 わたしがエレノアの名前を出した途端に、パパの表情は悲しげな顔へと変化していく。あんなにも仲が良かった双子が、今ではバラバラになってしまっているのを見るのは、パパにとっても辛いだろう。
「とにかく今は、またお前が元気に立ち直って、親子で暮らせる様になるなら、俺はなんだってやりたいんだ。このギターが、少しでもお前の助けになるなら、手元に置いておくことくらい、邪魔じゃないだろう?」
 悲しさを隠せずに、不器用に笑いながら話すパパの言葉は、いつだって心の真ん中まで届いている。届いているはずなのに、未だにこの心の吹き溜まりから這い上がることができずにいる。
 時々、自分でもわからなくなるときがあるんだ。なぜ、自分がこれほどまでに、死への衝動に駆られていくのか? 
 その理由を、わたしは把握してるはずだった。
 大好きなママが病気で亡くなって、悲しみに暮れる間もなく、わたしはミルウォーキーへと追いやられた。わたしとエレノアとの間にあった絶対的な絆は、そこから脆くも崩れ始め、ついにはお互いを見失ってしまうほど距離が開いてしまった。
 ママを失った悲しみ、そして自分だけが家族からのけ者にされたと感じる疎外感。新たな地で、心機一転、良好なスタートを踏み出せる気分になんて、到底なれなかった。学校の友達とも馴染めずに、ただ孤独を感じる毎日を過ごしていた。
 遠く離れたこの街から生まれ育ったラクロスを思い、パパやエレノアに無言のSOSを送り続けていたのに、結局二人はそれを受け取ってはくれなかったよ。
 毎日、毎日、わたしはグランド・ブラフの風景を思い出しては独りで歌った。夕日に染まる帰り道にパパのピックアップトラックの荷台で歌ったあの歌を……。
 心の底に溜まった真っ黒な煙は、やがてこの心から無限に溢れ返ると、一瞬にしてわたしを飲み込んでいった。もがけばもがくほど沈み込んでいく闇に溺れて、次第にわたしは自分自身を見失ってしまったように思う。
「具合でも悪いのか? 看護師を呼んで来ようか?」
 不安そうなパパの声に、わたしは我に返った。
「ごめん。なんでもないよ。ただ少し考え事をしてただけよ」
 ごまかすように作り笑いを浮かべて言い訳すると、パパはそんなわたしを抱きしめて、何かに怯えるような震えた声で言った。
「早く元気になって帰って来てくれ。俺たちはずっと、お前の帰りを待ってるからな。そして、そこからもう一度、家族で力を合わせて頑張ろう」
 口下手で、しかも口数も少なくて不器用なパパが、必死で言葉を選び、そして励まそうとしてくれているのが痛いほどわかるよ。わたしもずっと同じだったから。
 届かないSOSを送り続けて心を涸らし、それでもまた諦めきれずに助けを求め続ける。そうしていつか、そんな毎日に疲れ果ててしまうんだ。
 だから、わたしには今のパパの気持ちがとてもよくわかるの……。

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