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患者側の意識と医療従事者側の意識

入院生活のブログと被る部分も出てくるかもしれませんが、
病気を通して感じたことを書きたいと思います。

看護師さんの言葉

回復期に入って「生きている実感がない」それが悩みの一つでした。
味覚障害からか何を食べても美味しくない。
味がしないのではなく過敏になっていたようで、
減塩食さえ濃くて食べられませんでした。

リハビリをやれば体はきついのですが自分がやっている実感がない。
早く退院したくて自主練をしてもなんの満足感もない。
ずっと空調の効いた院内にいるせいかとも思ったけれど
暑い中リハビリの一環で外を歩いても
暑さとか外の空気の爽やかさを感じることもない。

何をやっても他人がやっているかのようなそんな感じでした。
悩みと言っていいのかもわからないなんとも言えない感覚でしたが、
ある日看護師さんに思い切って打ち明けてみました。

すると返ってきた言葉は
「愚痴も言えずに亡くなった人もいるんですよ」

かなりショックを受けました。
確かにくも膜下出血は発症時に3割が亡くなると言われる
死亡率の高い疾患です。
だから生き残っただけでありがたいと思わなければならないのでしょうか?
愚痴をこぼしてはならないのでしょうか?

療法士さんの言葉

それから数日後でした。
急性期では麻痺足に対してのアプローチがしっかりあったのに、
回復期では体力・筋力の回復がメインでちょっと不安を持っていました。

「回復期にいってきちんと麻痺を改善した方がいいよ」
そう言われて急性期を送り出されていたからです。
麻痺の方はどうなるのだろう?

回復期と急性期ではリハビリに対するアプローチの仕方が違うことなど
私は知りませんでした。
このまま麻痺に対しては何もしないまま終わってしまうのだろうか。

その疑問をそのままきちんとぶつければよかったのですが、
なぜかそれができずに私の口から出た言葉は
「麻痺は良くならないんですか?」でした。

そして療法士さんの答えは
「まあ、死ぬような病気だったんですからね」でした。

看護師さんからショックな言葉を返されて日が経っていなかったので
さらに私は傷つきました。
それと同時に
「そうか麻痺に固執している場合じゃないんだな」と思いました。

それが良かったのかどうかは別として
そこから私はちゃんと回復期のリハビリに向き合うようになれました。

当事者の想い

でもこの二人の言葉は今でも時々私を苦しめています。
死ぬような病気だったら後遺症を持っていても
感謝して生きなければいけないのだろうか。

入院中、退院後と
「なぜあの時助かってしまったのだろうか」
何度となくよぎる想いです。
これは当事者にしかわからないのかもしれません。
でも後遺症の大小を問わず、怪我や病気に見舞われた人の中には
少なからず持ってしまうことがある想いではないでしょううか。

医療従事者と患者の想いの温度差

患者の側は医療従事者の一言一言を重く受け止めてしまいがちです。
そしてそのことを意識して医療従事者は言葉を発しているとものだと
思ってしまいます。

でも、医療従事者はたくさんいる患者を相手にずっとそんなことを意識して仕事をするわけにはいかないのだということも感じました。

この温度差をどうやって埋めていったらいいのでしょうか?
私は「こう言われた言葉に傷つきました」なんてことは
当然伝えることもなく退院しました。

お二人の方も悪意を持って発した言葉ではないと思うので
傷つけたことに気がつくことはないのだろうなと思います。

だとしたらこの溝はこのままずっと埋まることはないのでしょうか?
どうしたらいいのかなんて私には見当もつきませんが、
今後何かいい方向に向かってくれたらと思い投稿してみました。