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教師は「葛藤させる人」であれ

夏休みに古本屋で『街場の教育論』(内田樹・著,ミシマ社,2008)を見付けて購入し、あっという間に読んでしまいました。私はこの本を読んでとても勇気づけられました。心に残ったところは幾つもあるのですが、今日はその1つ、第6講「葛藤させる人」という章で述べられていることについて書いてみたいと思います。

教員にふさわしい人

この章は次のような記述で始まります。

教師と言うのは果たして「人気のある職業」なのかどうか。どうなんでしょう。労働条件がよければ教職に人が集まり、悪ければ来なくなる。それほどシンプルなものではないんじゃないかと私は思います。

P.110

まず、この問いかけからして、いろいろ考えさせられませんか?この本が書かれた2008年にはどうだったのか分かりませんが、今の時代においては「人気のある職業」ではないですよね。

労働条件に関する記述はどうでしょう。まあこちらも、同意できる部分とそうでない部分が半々と言ったところでしょうか。正直、労働条件は厳しいですよね。だからといって、労働条件を良くして「適当にやっていてもその割に給料がいいから教員でもやるか」という人が増えるのは嫌だなと思ってしまいます。

著者の内田樹さんは、本書の中で「教員は不人気な職業でいい」と述べています。「権力、財貨、威信、文化資本、そういうものにおいて他を制圧したいと望む人、格差社会の上の方に格付けされたいと願う出世主義者が選択する職業ではありません。」(pp.110‐111)とあり、時代の支配的価値観に対して、それでいいのかと葛藤している人物こそ教員にふさわしいと考えています。

「今の世の中のシステムは理想的だ」と考えて、その通りに育てようとするのではなく「何かがおかしい」「不遇な立場の子どもたちにとって生きやすい世の中になっていない」という問題意識を抱えている、そんな先生がいいのです。また、そういう先生たちは、現在の世の中に問題意識をもちつつも「この世の中を渡っていくためには、こういうことを学んでいかないといけないよ」というメッセージも発します。

そこには矛盾があるけれど、それでよいと内田樹さんは言います。

子どもたちが長い時間かけて学ぶべきなのは「すっきりした社会の、すっきりした成り立ち」ではなく(そのようなものは存在しません)、「ねじくれた社会の、ねじくれた成り立ち」についての懐の深い、タフな洞察だからです。

p.114

自分にも思い当たる節があります。「従順な子どもを育てたいのではない」と思いながらも、素直で従順な子どもを褒めている。「テストの点数なんて生きていく上でそんなに大事ではないよ」と言いながら、教え子がいい点数を取れるように授業をする。矛盾だらけだなと自分でも思います。そんな自分が嫌になることもあります。

ただ、世の中は複雑で、一つの考え方だけを信奉し、その考え方を強要する姿勢こそ危険だとも思います。一筋縄ではいかない世の中で、「教師」という立場の人が矛盾する発言をしている事実を目の当たりにすることは子どもにとっての社会勉強なのかもしれません。

成熟のために必要な3人

ここで、もう一つ印象的だった記述を紹介します。クロード・レヴィ=ストロースの「親族の基本構造」の言説を、著書が教育のモデルとして捉え直したものです。

男の子が成長するためには、親の世代に「三人」の大人が必要である。母親、父親、そして「おじさん」です。レヴィ=ストロースが人類学的なリサーチで発見した規則は、世界中のすべての社会集団で、父親と「おじさん」は男の子に対して違う育児戦略を採用するということでした。父親が厳しく息子を育てる社会では、「おじさん」が甘やかす。父親と息子が親密な社会では、「おじさん」が小うるさいソーシャライザーの役目を引き受ける。父と「おじさん」は相補的に機能する。

pp.135-136

「おじさん」は親と同じような社会的威信をもつ人です。その2人の大人から違うことを教えられるということが、子どもの成長には大切なのだと言います。そして著者は「おじさん」が機能しなくなった今、教師がその役割を代行するしかないのでは?と提起しています。つまり、親と違うことを言う大人として教師の存在が必要だということです。

親も先生も声をそろえて一致団結して「勉強が何より大事だよ。周りはみんな敵だと思って競争に勝ち抜くためにがんばれ!」みたいなメッセージだけを送り続けられたら、子どもはたまったもんじゃありません。それだけを信じ続けて大きくなったら、社会に出るときになって「あれ?それだけで本当に良かったのかな…。」と混乱することでしょう。その時になって気付くのでは遅すぎます。だから、子どものうちから、異なる価値観がたくさん存在する世の中で生きていることを知っておかなくてはなりません。

ところで、「確かに親と教師は違うことを言った方がいいよなあ」と思う反面、その役割を担うことの難しさが年々増していると感じます。学校と家庭を天秤にかけたとき、学校のもつ力は昔に比べてだいぶ小さくなりました。また、親と学校の意見の違いは悪しきものと捉えられがちです。親と学校で意見が対立した場合は、親の言いなりになりやすいというのが昨今の教育現場です。ここは、うまくやらなくてはいけません。難しくはなってきていますが、不可能ではないと私は思っています。

葛藤と矛盾の中で生きる

ここまで、1人の人間の言っていることが矛盾しているという状況や意見の違う大人が子どもの周りに存在するという状況が教育には必要だということについて述べてきました。相反する意見に触れることで、子どもは自分の中で葛藤を抱えたり、矛盾だらけの世の中を知ったりするのです。

「周りに何と言われても、自分の意志を貫くことが大事だよ。」という意見と、「周りの様子を見て、協調性をもって行動した方がいいよ。」という意見。一見異なるようですが、要するに言っていることは同じだと内田樹さんは言います。異なるメッセージを違う形で言っているだけだと気付き、深く考えていくと、そこに共通性を見出せるようになります。こうして自分で考えて一段深い理解をしようとすること。それが成熟するということなのだと言います。

これは、「自分で考える」ということの土台なのだと感じました。「大人がこう言っているからそれでいいんだ」と何も考えずに鵜呑みにする子どもではなく、「大人だっていろんなことを迷いながらやっていて、そこには何か大事にしているものがあるんだ」と自分で考える子ども。そういう子どもたちを育てたいと確かに思います。

では、そんな子どもたちを育てるよい教師とは一体どんな人なのか。少なくとも、偉い人が考えた「よい教育」を迷いなく忠実に遂行していく教師ではないということが言えるはずです。

しかし現場では、上の考えたことを忠実に遂行できる教員が重宝されていますよね。教員側も、いちいち葛藤していたら身がもたないので「あ、次は○○教育ね。じゃあそれやりましょう。」となります。葛藤なんて言う面倒くさい感情は押し殺して、管理職に言われたとおりにやっていくしかない。そんな状況も広がっているように思います。

この本のこの章を読んで、矛盾を抱え葛藤することが教師には必要だと言われ、私はとても励まされました。自分の感情を大事にして、葛藤しながら教員をしている。そんな自分でもいいんだと自分を肯定することができました。だから、これからも一筋縄ではいかない教育現場で、あるときには諦め、あるときにはこだわりながら、たくましく生きていきたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。
みなさんも、『街場の教育論』をぜひ読んでみてはいかがでしょうか。