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日本の仏像3~菩薩編2~

この記事の内容

前回前々回の記事を読んでいない方は、是非そちらから読んでいただきたい。
本記事では、梅原猛著「仏像のこころ」の内容をもとに、日本仏教で主要な仏像とそこに込められた意味を紹介する。
前回は観音菩薩について書いた。今回はその他の4菩薩についてである。

地蔵菩薩

地蔵はもはやお寺で御厨子(みずし)に収まっていることすらしない。外に出て風雨に晒されながら民衆の救済に励む仏である。
それは仏像の形にも表れている。地蔵は声聞形(しょうもんぎょう)というお坊さんの形をしている。もはや仏ですらないのかもしれない。左手には宝珠を、右手には錫杖を持ちどこへでも出かけて行き、民衆の救済を行うのである。
如来から菩薩、菩薩から声聞へ、仏はその慈悲によりどんどんと形を卑しくする。その底辺がこの地蔵である。
地蔵は民衆の苦悩を癒す仏である。地蔵は現世利益を説いている点では、観音菩薩と同様である。しかし、地蔵菩薩は死去した人間の苦悩をも癒すのである。

恐山信仰

このような仏であるために、地蔵信仰というものは、貴族よりも民衆に、中央よりも地方に多い。
代表的なものは恐山(青森県下北半島)の地蔵信仰である。比叡山三代目座主、円仁慈覚が東北を巡錫した際、仏のお告げで探し当てたのが、恐山である。そこでただならぬ風景に感じ入り、自ら地蔵を彫刻したのが始まりである。恐山には極楽と地獄が存在する。恐山の地獄はすさまじい。その地獄一つ一つに地蔵菩薩が立っており、死者の救済に励んでいる。
昔から東北一円では「人は死ねばおやま(恐山)に行く」と信じられてきた。7月17日から7日間、恐山には死者が帰ってくる。東北の民衆はいたこを通して死者の言葉を聞くために恐山を訪れる。民衆はしみじみと死者の言葉に聞き入り、涙を流す。しかし夜になると、昼間の悲しみは嘘であったかのように、賑やかな酒宴が開かれる。
梅原氏は、これは人生を楽しまんとする民衆の生活の知恵であると言う。一年に一度、死者の前で全てを吐き出すことで、死者を死者として葬らしめ、もはや死者によって、生者の生活を不安ならしめないようにする生の知恵なのである。ここで、地蔵菩薩は地獄における死者の救済者として、生者の関心を死から生に向け、悲しみから喜びに向ける役割をしているのである。

日本の神々との繋がり

梅原氏は民俗学者の五来重氏の考えを引用し、地蔵と日本の神々との繋がりについて紹介している。
それは賽(さい)の神との繋がりである。賽の神は村の境にあって悪霊が村に侵入してくることを防ぐ神である。村の外れの道沿いにあるお地蔵さんは、賽の神が変化したものであるという。また、墓場の入り口にある六地蔵も死者の霊が蘇って生者の生活を脅かすことを防ぐものである。
仏教は現世主義(現在のことだけを考えて生きること)を否定して、過去と未来の生命を教えた。それまで得体のしれないものであった死後の世界が、因果に応じて罪と報いを受ける実在の世界となり、そこでの生命をありありと想像できるようになった。しかしそのことによって、死に対する恐れも生じた。そこで、ただ死を遮るのみであった賽の神が、死者の苦悩を引き受けることで、生者が死者に対して抱いている痛恨の念を解消する地蔵に代わったのである。

私は小さい頃、道端のお地蔵さんを見ると、なんとも言えない気持ちになった。風貌はユーモアの溢れるものであるが、なんとなくそこには深い悲しみが宿っている感じがして、一人でいる時にお地蔵さんに出会うと、少し怖かった。しかし、それが慈悲ゆえに死者の悲しみを小さい体で背負っているということを知った今、お地蔵さんの見方が変わった。それぞれのお地蔵さんがどのような悲しみを背負って、何を考えてそこに存在するのか。そのようなことを考えると、自然と手を合わせようという気持ちになる。

地蔵菩薩像(建長寺)

弥勒菩薩

弥勒菩薩(みろくぼさつ)は未来の仏である。弥勒は五十六億七千万年後にこの世に出現して、釈迦によって救済されなかった衆生を救済する。現在は兜率天(とそつてん)という浄土にいて、未来の理想について思いをこらしているらしい。
弥勒菩薩像として代表的なものは京都の広隆寺の木造弥勒菩薩半跏思惟(はんかしゆい)像である。この半跏思惟の意味であるが、右手の印は考えている時の姿を示し、半跏(右足はあぐらで、左足をのばした形)は最もくつろいだ仏の姿である。つまり弥勒はくつろいだ姿で思惟をしているのである。


弥勒菩薩半跏思惟像(出典:Wikipedia)

弥勒は五十六億七千万年後に出現する。この考え方は、キリスト教と似ている。十字架にかかって死んだイエスは、死後三日目に復活し、今は天国にいる。そして将来イエスは地上に再臨し、神の国が地上に実現されるのである。しかし、弥勒とイエスでは大きな違いがある。

それは地上に現れるまでの時間である。
弥勒菩薩は五十六億七千万年後に現れるが、イエスは死後千年くらいで現れると信じられている。五十六億七千万年という途方もない時間。この間の世界はどのようなものなのか。まず釈迦の教えが良く保たれている正法・像法(しょうぼう・ぞうほう)の時代がそれぞれ五百年・千年続いた後に、教えが滅びた暗黒の時代が来る。これが弥勒の出現までずっと続くのである。このような暗い世界観は人を絶望の淵に叩きつける。中世において、暗黒の時代を生きる人々を救済する方法として阿弥陀信仰による浄土宗や浄土真宗、法華経信仰による日蓮宗が生まれた。絶望に満ちた弥勒信仰とこれらの宗派が生まれたことの間には、関係があるのかどうか。

しかし、弥勒信仰には大きな魅力がある。それは阿弥陀信仰のように極楽浄土へ行ったきり、ではなく、再び現世(理想の国が実現されている)に戻ってくることが出来ることである。藤原道長は全てを手にしていた。しかし、死だけはどうしようもなかった。死の不安から逃れるために道長は阿弥陀と弥勒を信仰していた。また、出羽三山を中心に現存するミイラ。これは自発的にミイラを志願した弥勒信者の遺体である。現世に絶望した人々の五十六億七千万年後に弥勒に逢おうとする願望なのであろうか。

そうはいっても、弥勒信仰はあまりにも遠すぎる、人気の無い信仰であった。そのため、弥勒出世の時期を繰り上げることが行われた。ここで弥勒は未来の仏という性格は取り除かれ、理想の世界をもたらす仏という性格が強調されることになる。いわば世直しの仏である。そしてこの世直しの仏としての弥勒は、時代の変革期に崇拝されてきた。例えば、日本において古い氏族制度が崩壊し、新たな統一国家が誕生する際に活躍した聖徳太子。この聖徳太子にゆかりのあるお寺には弥勒菩薩像が多いらしい。

何とも不思議な弥勒菩薩。地蔵や観音に比べ出会う機会は格段に少なく思われるが、広隆寺の弥勒菩薩はいつかこの目で見たい。

普賢・文殊菩薩

普賢菩薩・文殊菩薩を考えるうえで、まずは脇侍(わきじ)について知らねばなるまい。
脇侍とは、ご本尊の左右に控えて補佐をする菩薩・明王・天のことである。
例えば、阿弥陀如来の脇侍は観音菩薩・勢至菩薩である。先に紹介した通り、観音は慈悲を表す仏であり、ここで初めて出てきた勢至は、知恵を表す仏である。
そして、本章で紹介する普賢菩薩・文殊菩薩は釈迦如来の脇侍なのである。普賢は慈悲を表し、文殊は知恵を表す。この点では阿弥陀の場合と全く同じである。(それぞれの慈悲と知恵のニュアンスは異なるものなのであろうが。)
しかし、脇侍のうちどちらを上と見なすかということになると、下記のような違いがある。
釈迦の脇侍では、普賢よりも文殊が上。(慈悲<知恵)
阿弥陀の脇侍では、勢至よりも観音が上。(慈悲>知恵)

梅原氏はここに、仏教の知恵優位から慈悲優位への移り変わりを見る。本来、仏教は知恵優位の宗教である。それが日本に移入され、阿弥陀信仰が盛んになる中で慈悲優位の宗教へと移り変わっていったのである。

また、普賢・文殊はともに動物に乗っている。普賢は象、文殊は獅子である。これらが、知恵と慈悲の力の強さを表すことは容易に想像がつく。しかしそれだけではない。像と獅子は乗物なのである。海のかなたから、仏教(知恵と慈悲)が乗物に乗って、日本に渡ってくる。仏教が日本に広まっていく壮大な過程を表しているのである。

渡海文殊群像(出典:阿部文殊院HP)

おわりに

ここまで三回に渡って、日本の仏像を紹介してきた。書ききれていないこともたくさんあるが、一度この辺りで区切りとする。
本シリーズでは、深遠な仏教の世界への入り口として、梅原氏の著書に沿って仏像を紹介してきた。普段何気なく拝んでいる仏像。それを分類することで、その仏像が持つ意味を論理的に理解することが出来た。まだまだ仏教について知りたいことがたくさんあるが、今後も勉強を続けていきたいと思う。本シリーズが仏教の世界へと足を踏み入れる一助になれば幸いである。

※私は仏教について、全くの素人である。
 記事の内容に誤りがあれば、是非ご教授いただきたい。

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