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日本の仏像2~菩薩編(観音菩薩)~


この記事の内容

前回の記事を読んでいない方は、是非そちらから読んでいただきたい。
本記事では、梅原猛著「仏像のこころ」の内容をもとに、日本仏教で主要な仏像とそこに込められた意味を紹介する。
前回は悟りを開いた仏である如来について書いた。今回は悟りを開く途上にいる菩薩についてである。
※観音菩薩編が長文となったため、
 菩薩編は「観音菩薩」と「それ以外の4菩薩」に分けることとする。

観音菩薩

前回の記事から何度も言っているが、菩薩は修行中の仏の候補者で私たちと同じ人間である。そのため、菩薩像はきらびやかな装飾品を身に付けている。これに対して、如来は悟りを得た仏そのものである。そのため、装飾品などは必要とせず、ハダカ同然の姿をしている。
普通であれば、真の仏である如来の方が菩薩よりも崇拝されるはずである。しかし、しばしばその逆の現象が見られる。その一例が観音菩薩である。これはどういうことか。
その理由として、より人間に近い菩薩行を重視する仏教の性質もあるが、梅原氏はそれだけではないと言う。
観音菩薩が如来よりも崇拝されるわけ、それは観音菩薩が本当は仏でありながら、衆生救済のためにわざと仏の位を放棄して、菩薩の位で現世へ下ってくるからなのである。つまり衆生に対する慈悲のあまり、浄土の仏の座に坐っていられなくなり、現世に降りて来て、衆生救済に励んでいるのである。そんなに衆生救済に熱心な仏様がいるとは。人気も出るはずである。

観音菩薩の慈悲の大きさは、仏像の形に表れている。
観音菩薩像は私たちと同じ一面二臂(いちめんにひ:一つの顔と二つの腕)の形で造られることは少ない。つまり多くの観音像は一見グロテスクな多面多臂の仏像なのである。
例えば、十一面観音は十一面四臂、千手観音は十一面千臂などである。

多面多臂の意味について、梅原氏の考察を紹介する。
まずは多面についてであるが、皆さんがある人物の彫像を造る場合を想像して欲しい。多くの人は、以下の二点で迷うはずである。
・刻々に変化する人間の時間的な相を表すべきか
・時間を通して同一な人間の本質を表すべきか

例えば、ある歌手の彫像を造りたいと考えた場合に、どのようなシーンを表現するであろうか。歌手も食べたり寝たりする。そういう日常的な1シーンを彫刻にするであろうか。恐らく皆さんは、時間を通して同一なその人物の本質である「歌っている姿」を彫像にするのではないだろうか。この考え方はギリシア彫刻以来の彫刻の理念である。
しかし、梅原氏はこの理念の中に、人間に対する楽観的合理的な考え方が隠されているという。つまり、一人の人間を一つの彫像でとらえきれるという考え方である。一人の人間の中身は複雑怪奇で、時と場合によって様々に変化する。その中に本当の自分というものがあるのであろうか。むしろ様々に変化する全ての自分が自分を形づくっているのではないだろうか。

もしも一人の人間の本質が一つの彫像で表現しきれないとしたら、どうすればよいのか。それは彫像を多面にすることである。
インドにおいては、この多面の像が多く造られた。しかし、今度は逆に多面の像が、一体この人間の本質は何なのか、という疑念を抱かせる。

以下の写真は十一面観音像である。この像を見れば、上記の疑念は晴れるのではないだろうか。つまり、正面の大きな面がこの像の本質であり、小さな面はその像の時間の相における現れであると分かるのである。この表現方法は、ギリシアともインドとも異なり、人間の多面性がどのように統一され、また一面がどのように多面に分化されるかを表現する知恵なのである。
そしてその面の内訳は、以下の通りである。
正面三面:慈悲相
左側三面:忿怒相(悪い衆生を怒っている)
右側三面:白牙相(良い衆生を褒めている)
後一面:暴悪笑相(卑しい衆生を嘲笑している)
上一面:如来相

このように観音は、人間に対して様々な面で接するが、正面の大きな面が慈悲相であることから、やはり観音の本質は慈悲なのである。
このように、観音像の多面には様々な意味が込められている。それぞれの面は表情豊かで、見ていて非常に面白いので、是非じっくりと観察して欲しい。

聖林寺 十一面観音像(出典:聖林寺HP)

次に多臂について。
多臂を持つ仏像の代表例は千手観音である。千手観音が千個もの
手を持つことにはどのような意味が込められているのであろうか。

このことを考えるためにまずは「観音」という名前の意味について考えてみる。この「観音」という名前は、まことに奇妙であると梅原氏は言う。
音というものは耳で聞くものである。眼で観るものではない。
しかし「観音経」にはこうある。
「若し無量百千万億の衆生(しゅじょう)ありて、諸の苦悩を受けんに、この観世音菩薩を聞きて一心に名(みな)を称えば、観世音菩薩は、即時にその音声(おんじょう)を観じて皆、解脱るる(まぬかるる)ことを得せしめん」
ここに音を観るという言葉が出てくる。

さて、千手観音は正式には千手千眼観音であり、一つ一つの手に一つずつの眼がある。
観音様は上記「観音経」にあるように、人間が上げる危急の叫びを聞くのであるが、単に耳で聞くのみではない。千の眼でもって危急の本質を観、それに対する対策を観る。そして千の手でもって対策を直ちに講じる。その打つ手の多さが千本の手で表されるのである。
千手観音はその手に様々な道具を持っている。
禍を払う白い払子、病を除く宝の鉢など、、
これらにより、あらゆる人間のニーズにこたえ、救済することが出来るわけである。

千手観音坐像_大阪・葛井寺蔵(出典:東京国立博物館HP)

以上が観音菩薩の紹介である。観音様は様々なお寺で祀られているので、出会う機会は多い。皆さんも観音菩薩が本尊であるお寺に参拝する機会があれば、仏像をじっくりと観察していただきたい。一つ一つの面、一つ一つの手にそれぞれ意味が込められていることを知った上で、観ると面白い発見があるはずである。
次回は、観音菩薩以外の4菩薩(地蔵菩薩、弥勒菩薩、普賢・文殊菩薩)についてである。

※私は仏教について、全くの素人である。
 記事の内容に誤りがあれば、是非ご教授いただきたい。

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