独仏戦争の発端 フランスを開戦に傾けたエムス電報事件とは何だったのか?(前半)
ビスマルクは天才。
そのビスマルクの天才エピソードの中にエムス電報事件があります。
誰もがフランスとの戦争は出来ないと判断する中、ビスマルクだけが違いました。 ビスマルクは送られてきた手紙を小細工を施して、フランスを開戦に傾けることが出来ました。
そのエムス電報事件とは何なのか? それを解説していきたいと思います。
1868年、スペインで9月革命が起こりました。 当時のスペインはブルボン王朝が王についていましたが、そのトップだったイザベル2世が政治に対して全くの無知でした。
当然、国民から総スカンを食らいイザベル2世は退位しました。 さて、空いた玉座に誰が入るか問題になりました。
その玉座の人物として、プロイセンのホーエンツォレルン家に属していたレオポルト公が挙げられました。
レオポルト公が事が重大すぎて父(カール=アントン公)に相談しましたが、父もその判断ができずに、さらに上司だったプロイセン国王(ウィルヘルム1世)に丸投げしました、
ウィルヘルム一世はその全てをビスマルクに一任していましたので、巡り巡ってビスマルクが判断することになりました。 レオポルト公がスペイン国王になれば領地や国力は増えますが、色々と問題が発生し後のことを考えると得策ではありませんでした。
ビスマルクはこれは受けないだろうと思いきや受けました。 なぜ?後のことを考えれば良いことなどないのでは? それはビスマルクも承知していました。 ビスマルクはプロイセンがスペイン国王になるなど言語道断で命令したのとは逆で受けてほしくありませんでした。
じゃあ、何故受けた? それはある国に止めてもらいたかったからです。
ちょうどそのころ、フランスでは・・・・ プロイセン家がスペイン国王になる話題で持ちきりでした。 もしスペインがプロイセンの領土になれば、フランスは挟み撃ちに合うからです。
フランス世論は沸騰し、フランスの大反対でプロイセン家がスペイン国王になるのは頓挫しました。 しかし、フランスがこれで満足するはずもなく、またこのような事態になるのではないかと酷く怯えるようになります。
そして、そのことが普仏戦争に繋がっていくんです。 そう、誰かに操れるようにして。
この時のプロイセンはドイツ統一に尽力していました。 そして、ドイツ統一にはフランスとの開戦が絶対に必要でした。 今回の事件がいかにビスマルクの掌の上に操られていたか分かる事件でした。
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