国文法の問題点その3:「ようだ」

前回まで、「〜ている」や「〜について」などの表現について、「文節」という概念における区切り方の妥当性を考えてきた。

今回も同様に、「ようだ」という表現について考えてみたい。


「ようだ」という表現は、国文法では助動詞とされている。したがって、「ようだ」は付属語であるから、例えば「彼は困ったような顔をして立っていた。」という文は、文節としては次のように区切るのが正しい、ということになる。

彼は/困ったような/顔を/して/立って/いた。

しかし、「ネ」を入れられるかどうかで考えてみると、「困ったネ、ようなネ」としても必ずしも不自然では無いように思われる。少なくとも、「立っていた」が「立ってネ、いたネ」と区切れるのと同じくらいには自然であろう。


ここで、「ようだ」の成り立ちに関する『日本国語大辞典』(第二版)の記述を見てみよう。

「ようだ」は、形式名詞の「よう(様)」に断定の助動詞「だ」の結合したものであるが、その活用は、形容動詞に等しい。ただし、連体助詞「の」や「が」を受ける点では、一語の助動詞としてよいか、文法上の取扱いに問題はある。(『日本国語大辞典』第二版)

ここにあるように、「ようだ」の「よう」は元々は「様」という(形式)名詞であった。それならば、「名詞+助動詞」(すなわち「自立語+付属語」)の形式と捉えて、前接部分とは独立した文節と考えることもできるだろう。

前回までで見たように、国文法では、「〜ている」「〜について」は、「いる」や「就く」などの元々の形式を重視する、という立場が取られている。これらと同様に分析しようとすれば、むしろ「ようだ」も「様」という元々の形式を重視する方が考えが一貫していることになる。


考えが一貫していない体系は、はっきり言って学ぶ価値があまりない。「Aについてはこう考えるけど、Bについてはこう考える」というのでは、説得力がない。

ただし、ことばには例外がつきものであり、実際にはきれいに説明しきれるということはない。しかし、それでもできる限りきれいに説明しようという姿勢が肝要であろう。そして、それこそが学問追究のあるべき姿勢であろう。


今回に関して言えば、「ようだ」を助動詞とすることに特段の問題はない。現在の使用状況にも即しており、納得できる分析である。しかし、それであれば、「〜ている」「〜について」についても同様に分析を行った方が一貫した説明になるだろう、ということである。

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