国文法の問題点その1:「文節」と「〜ている」

国文法を学校で習う際、基本としてまず学ぶ概念として「文節」というものがあります。

「文節」とは、文を細かく区切る際、不自然にならない程度に区切った最小単位だと説明されます。そして、その区切りの見分け方としては、「ネ」「サ」「ヨ」を入れられる箇所であるとされます。

それでは、次のような文は文節で区切るとどのようになるでしょうか。

「太郎は学校に急いで向かっている。」

国文法では、次のように区切るのが正解だとされます。

「太郎は/学校に/急いで/向かって/いる」

しかし、「向かっている」の部分を「向かって/いる」と区切るのは不自然だと感じる人は少なくないでしょう。「ネ」を入れて「向かってネ、いる」としてみても、やはりどこか気持ち悪い感じがします。

このような例は他にも、「〜ておく」、「〜てある」「〜てやる」「〜てもらう」「〜てしまう」などがあります。

これらの「いる」「おく」「ある」「やる」「もらう」などは、国文法では補助動詞と呼ばれ、自立語であるとされています。

補助動詞というだけあり、たしかにこれらは元々は本動詞であり、その性質が変化したものです。この「元々本動詞だった」というのが自立語とされる理由だと考えられます。

しかし、文法を考える上では、現在どのように機能しているかが重要です。ここで、言語学(国語学)において「〜ている」がどのように捉えられているかを見てみましょう。


言語学では、「〜ている」はアスペクト(相)(「完了」「進行」など、事態のどのような場面であるかを表す)を示すものであり、「接辞」だと捉えられています。この「接辞」とは、国文法では「助動詞」に当たります。(なお、「〜ている」は基本的に「動作の進行」や「結果の存続」というアスペクトを表すとされます。)

「〜ている」が助動詞だと捉えられるということは、当然付属語であると捉えられるということです。「〜ている」が助動詞化しているというのは、「〜てる」という縮約形が話し言葉で使われることにもつながります。元が本動詞であったということが意識されていないからこそ、縮約形を用いるのだと考えられます。

文節という考え方では、このような縮約形を用いた「太郎は学校に急いで向かってる」というような文は分析できません。同様に、「〜ておく」が「〜とく」「〜てしまう」が「〜ちゃう」と変化するのも縮約に当たります。

以上の分析は言語学の研究に基づくものですが、これは国文法を学ぶ全ての人の直感に沿うものでしょう。下の記事のように、「〜ている」が「〜て/いる」のように文節で区切れるのが納得できないという意見は、日本語を母語として使う人の直感としてごく自然なものに思われます。


本記事では、「文節」という考え方の問題点を「〜ている」の分析という観点から見てきましたが、これだけでも「文節」という考え方を再考する余地があることはわかってもらえたでしょう。

しかし、全ての日本語をきれいに説明することができる文法を作るというのが限りなく難しい(もしくは不可能な)問題であるというのも事実です。ただ、一つだけ言えるのは、母語話者としての直感に沿う文法を学ぶことでこそ、母語に対する新たな発見ができるのであり、そこにこそ、母語の文法を学ぶ意味があるのではないでしょうか。

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