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ポピュリズムは本当に悪なのか

   参院選での山本太郎の「れいわ新選組」の躍進と「NHKから国民を守る党」という極右ヘイトのとんでも政党が議席を取ったことで、日本でも「ポピュリズム」をめぐる議論や批判が盛んになって来ている。

   この石戸諭氏の指摘は正にその通りで、私は正しいと思うし、そもそも山本太郎を批判している訳でもないのだが、興味深かったのは、『れいわ新選組や山本太郎はポピリュズムではない』という反論コメントが支持者から続々と寄せられたという事実。

    それもその筈で、今の日本での「ポピュリズム」の訳語は、本来の「エリート主義」や「権威主義」と対立する「大衆主義」「人民主義」とかではなく、「大衆迎合主義」…つまり「衆愚政治」の見本のような悪口としてしか使われていないのだ。

   テレビや新聞も「ポピュリズム」をバカな国民を騙してやりたい放題の無茶苦茶をする事ととらえ、米国のトランプやブレクジットを主導して英国の新首相になったボリスジョンソンなどの政治家を一刀両断に批判。返す刀で、イタリアの五つ星運動やスペインのポデモス、フランスの国民戦線、米国のAOCといった民主党左派などが主張する「反緊縮」政策も全部ひとまとめにして「ポピュリズム」として批判する。

    勿論、日本でも山本太郎が主張する消費税廃止などは同じように大衆うけを狙っただけで、財源の裏付けなど現実味がない「ポピュリズム」政策として批判される。それこそ『消費税がなかった時代のように法人税や所得税で取ればいいし、そもそも税金はある所から取れ!ない所から取るな!』という誰が考えても当然の主張は一顧だにされない。

   これも実は当たり前で、「ポピュリズム(大衆主義・人民主義)」の本来の対義語はエリート主義や権威主義…つまり、いま権力や権威を持つ政府や大企業、富裕層やエリート階級にとっては昔のように累進性のある所得税や法人税で取られるよりも、逆進性があり、国民大衆から取る消費税の方がいいのは自明。

   このように権威や権力を持った彼ら既得権益層にとってはこういう自分たちよりも国民大衆の利益になる政策や政治を歓迎出来る筈がないし、それを「ポピュリズム」、大衆迎合主義として排したいと思うのも致し方ないのだ。

   歴史的に見ても、「ポピュリズム」として最初に批判を浴びたのはフランス革命のロベスピエールだろうし、彼の「恐怖政治」が批判されたのも粛清などの強引な手法以上に、それまでの権威や階級、社会といった”アンシャンレジーム”を徹底的に破壊したことにあると言っていい。

    また歴史的に見れば、もう一人。「ポピュリズム」批判として必ず名前が上がる人間にナチスドイツのヒトラーがいるが、そもそも「ポピュリズム」が彼を生んだという考え自体が間違い。それこそ当時、ドイツで大衆の支持を集めていたのは共産主義勢力だったし、それを抑える手段として資本家や既存の政治権力がナチスを利用。共産・社会主義勢力を壊滅させた結果としてナチスが勢力を増して、独裁に至ったことを忘れてはいけない。

 そう、『「ポピュリズム」が独裁を生む』という考えは明らかに間違いだし、「ポピュリズム」が本質的に持っているのは、既存の権威や権力、エリートに対する嫌悪や反感だし、それらを破壊しようとするパワーだけ。

 逆に言えば、だからこそ既存の権威や権力、エリートは「ポピュリズム」を恐れるし、徹底的に批判する。彼らから見て無知な大衆が自ら行動すれば必ず失敗すると蔑視しているし、大衆が勝手に行動を起こす事を嫌う。
 それはここでも前に書いたことがあるが、大衆が熱狂することでパニックが起きるのではないか、とエリート自身がパニックを起こす「エリートパニック」の図式とほぼ同じ。

   実際、今回の選挙でも上西充子、田中信一郎、木下ちがや(こたつぬこ)などの諸氏がそれこそパニックを起こしたかのように山本太郎を叩いていたし、彼らが安倍政権に批判的なリベラルや左派であっても、エリートとでもいうべき大学教授なのは決して偶然ではないのだ。

    勿論、彼らの批判が間違いという訳でもない。

「ポピュリズム」は最も人数の多い国民大衆の意志や望みを汲み上げ、それに応える訳だから「民主主義」の基本中の基本と言ってもいい。

    ただ、それは逆に言えば数の多さだけ、多数決で何でも決めるような弊害に陥り易いし、「少数意見の尊重」という民主主義の大原則を無視するようなことにもなりかねない。

   また、大衆が求める目先の利益を追ったり、大衆の気持ちに応える為だけに今まで人類が作り上げて来た大切な原理原則を逸脱したり、それこそ法治主義や立憲主義に反してしまう危険性もある。

   そもそも民主主義と立憲主義は同じでないし、相反する部分もある。この二つのバランスとることこそが重要なのだし、「ポピュリズム」で民主主義だけを重視するのは正しいとは言えない……その通りだ。

……だがだ。だが、そんな事は民主主義が実現した国で初めて言えることではないのか?

   それこそロベスピエールのフランス革命などを経て、民主主義を成熟させてきた欧米先進国ならば民主主義と立憲主義の違いも判るだろうし、それを両立させる重要性も知っている筈。
 翻って日本には国民大衆が権力者から権力を奪う市民革命など起こったこともないし、国民が権力を持ったことすらない。
 ただ大日本帝国の敗戦という天佑によって国民主権などを謳う民主主義的な憲法を得ただけ。その憲法ですらこの国では守られたこともないし、国民の多くも民主主義や立憲主義がどんなものなのかすらも理解していない。


   この手の「教わってもいないのだから政治が判らないし、政治が判らない人間に政治に関心を持てとか、選挙に行けとか言うな!」というツイートが本当に沢山出回っているし、実際、選挙の投票率は半分を切った。

   こういった彼らに対して、上で紹介したリベラルや左派エリートの人々の意見は「ポピュリズム」批判という以前に、全く無意味だし、有効性も持っていないのだ。

   私は「ポピュリズム」を批判する彼らとは全く逆に、上のツイートをしたような政治に知識も関心もない人にとって意味を持つのは「ポピュリズム」だと考えるし、そういう人々がそれこそ有権者の半分もいるような今のこの国を救うのは「ポピュリズム」しかないと考えている。

  「ポピュリズム」とその他の政治手法がもっとも違う点は、「ポピュリズム」が理論や理屈ではなく「感情」に訴える点だろう。

   政治や経済、歴史などの知識が全くない人間にも「感情」はあるし、理屈は判らなくても、「感情」だけでも人は善悪の判断が出来る。

 人は殺された人を見れば可哀相にと思うし、泥棒を見れば悪い奴だと思う。困っている人がいれば助けてあげようかとも思うし、悲惨な境遇の人には同情もする……そんな大衆の「感情」をちゃんと汲み上げるのが「ポピュリズム」だし、「ポピュリズム」の政策は難しい理屈ではなく、こういう「感情」だけで簡単に説明出来る。

     障害を持っているというだけで一生、施設に送り込まれたり、国会議員にもなれないのは可哀相だし、貧乏人からお金を集めて儲けている大企業や社長が税金をちゃんと払わないのはズルい…こんな事は理屈や理論ではなく、「感情」で判るし、その「感情」に訴えて、だから私たちはこうしていきます、というのが本来の「ポピュリズム」。

    その「ポピュリズム」が悪であったり、間違っている筈がないのだ。

    問題は「ポピュリズム」ではなく、人間の「感情」そのものに“他人の不幸は蜜の味”と思ってしまうような部分、差別やヘイト、いじめなどを容認してしまう劣悪な部分があること

   そういった人間の劣悪な感情、負の感情を汲み上げる「ポピュリズム」も当然、成立する訳だし、それこそが維新やN国、そして安倍が持っている「ポピュリズム」…差別やヘイトとしての「極右」であり、自己責任だけを強調し、人を生産性で切り分ける「ネオリベ」的な「ポピュリズム」なのだ。

   そう、悪いのは「ポピュリズム」ではなく、その「ポピュリズム」が人々の正しい感情に訴えかけようとしているのか、それとも劣悪な感情に訴えかけているのかの差にしかないのだ。

   勿論、山本太郎やれいわ新撰組が訴えかけているのは、正しい感情だし、それに応えることは政治や経済、歴史などの知識がどんなになくても可能。
つまり、“政治について教わってもいないから政治が判らないし、関心もない。当然、選挙にも行かない“という多くの人々に正しい「感情」の選択肢を示し、投票させることで、今の政治を変えられるのも山本太郎やれいわ新撰組しかないのだ。

   ぜひエリートパニックを起こしているリベラル、左派エリート層も「ポピュリズム」の弊害を上げつらい、まるで小学生に大学の授業をするようなことはやめ、この国に民主主義を作る第一歩として、正しい感情に訴える「ポピュリズム」を支援してほしいと願うしかない。


  

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