マルクスと単純化

カール・マルクスといえば『資本論』の著者で有名な共産主義の親だ。

『資本論』を読んだ人はおおむね2パターンの行動をとると思う。
1つめは意味不明だと思って読むのをやめるパターン。
もう1つは興味深いと思ってどんどん読み勧めてしまうパターンだ。

私は後者のタイプだった。
マルクスの世界の見方は、あとで触れるように、はっきり言って粗暴だ。
だが私の持っていた世界観と共通する部分もあったし何よりマルクスの書いたものには、ひとつの社会科学の体系を打ち立てようという人間の情熱がこもっていた。
だから彼の書くものには不思議と人に読もうと思わせる魅力がある。
情熱のない訴えは砂漠のようだ。

マルクスの世界観である《唯物史観》とは簡単に言えば社会を必然の法則によって捉え直そうとするものだ。
物理学者が物質を見るのと同じように、人間社会を物質的な法則にしたがったものとして見るのである。

マルクスの世界観においては力こそが全てだ。
しかもその力はただ自然の法則によく似た法則にしたがっているがために盲目である。
だから彼の世界観には思想の自由とか善が入り込む余地はまったくない。
善とは不合理なものだから、必然の法則によってがっしりと固められているマルクスの世界に存在することはできない。
すなわち、善の源泉である神もまた存在しない。
もし神がいるとするなら、それは仏教における業のような数学的帰結をもった構造である。

マルクスの世界観は四角四面だ。
その領域ではあらゆるものが単純化される。
「マインクラフト」というゲームがある。
その世界は四角いブロックが集まってできていて、プレイヤーもまた、その四角いブロックを使って様々な建築物を作ることができる。
You Tubeで調べてみれば、規模と質の両面において驚愕すべき、本物そっくりの素晴らしい建築物が作られている様子を見ることができる。
だが、その建築物がどんなに精巧にできていようと、構成物は立方体のブロックなので、近寄ってみれば線がガタガタになっているのが分かると思う。
マインクラフトで美しい曲線を表現することはできないのだ。
マルクスの作り上げた観念とはまさにこのようなものだった。

物事を単純化することは非常に簡単だし、物事を分かった気にさせてしまう。
学生のとき物理学のテスト問題で、「空気抵抗および摩擦は無視できるものとする」という文言がついている問題を見たことがある人もいると思う。
理想的な物理学的環境を整えることで問題を単純化するためにこの文言が使われるが、マルクスはこれと同じことを人間社会に対して適用してしまったように思う。
これがマルクス主義の全ての間違いだった。
現実の社会はもっと複雑なのだが、彼は《階級闘争》というただひとつの原則によって歴史を説明してしまったのだ。

それはあまりに単純化された形だったので、彼が作り上げた機構は現実世界ではうまく機能してくれなかったことは歴史が証明したところでもある。

いや、こう言ってしまうと語弊があるかもしれない。
たしかに共産主義が、その行き着く先で強制収容所を作り上げるに至ったのはマルクスにとっても誤算だっただろう。
しかしこの負の側面の負い目の全てを、創始者であるマルクスとエンゲルスに負わせるというのは間違っている。
もし彼らに半分の責任があるとすれば、もう半分はレーニン率いるボリシェヴィキにある。
マルクスらが唱えた共産主義はあくまで受動的なものであった。
階級闘争、そして革命は自然の諸力の関係から生まれるものであり、積極的行動をともなうものではなかったのだから。
ボリシェヴィキはこの神聖な法則に強引な手を加え、人工的な革命を引き起こした。
結果として、新しく生まれた秩序は人工的な管理を必要とすることになり、資本家より恐ろしいリヴァイアサンであるところのクレムリンを生み出す至ったのだった。

共産主義の生みの親であるだけになにかと悪者にされがちなマルクスだが、彼が挑戦的だったことは称賛に値すると思う。
だから私は彼を祝福したい。
彼は今まで誰もやってこなかったことをやったのだから。
すなわち、彼は自然科学と人道主義、特に正義の観念を統合しようとしたのだと。
この試みはいささか単純化のきらいがあったとはいえ真に画期的なことだったと思う。

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