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生命の形

今日、友人と「Detroit: Become Human」というゲームの話をした。人型汎用ロボット、つまりアンドロイドが実用化された時代を描いた近未来SFのアドベンチャーゲームで、こういう設定にありがちな、感情を持ったアンドロイドたちの群像を描いている。人々はアンドロイドの登場によってより便利な生活を送っているわけだが、アンドロイドのせいで雇用を奪われた人々によって反アンドロイドの運動も起きており、過激派のなかにはアンドロイドを襲撃する人も出てくる。それに加え、何らかの原因で感情を持つにいたった「変異体」と呼ばれるアンドロイドが表れはじめ、自らの境遇に反感を抱いた変異体が主人に逆らったり脱走したりするなどといった事件が起きており、そのせいで反アンドロイドの世論が高まっている。当然だがアンドロイドに人権があるわけもなく、変異を起こしたアンドロイドは危険だと判断されて容赦なく廃棄される。機械とはいっても人間と同じような感情を持っているので、処分されるアンドロイドは自分が殺されることに人間と同じように恐怖する

そんなゲームの話を友人としているなかで、「自分だったら生命と尊厳のどっちをとるか?」という話になった。私は尊厳をとると答えたが、友人は生命をとると言ったので理由を訊くと、「尊厳をとるのはその場しのぎじゃないか」と答えた。

「その場しのぎ」とはどういうことなのかについてその場では聞けなかったので、友人と別れたあとその意味についてよく考えてみた。こういうときは具体的なシチュエーションを思い浮かべると考えやすいかもしれない。

たとえば、たびたび問題に挙げられるスパゲッティ症候群の場合はどうだろう。ご存じのかたもおられるとは思うが一応説明しておくと、スパゲッティ症候群とは延命処置のために気管チューブや導尿バルーン、点滴ルートやサーチュレーションモニターなど、身体中に管やセンサーが取り付けられた状態をスパゲティにたとえて表現したものだ。このとき患者は意識はなくただ生物学的にだけ生かされているだけで、そこに精神生活というものはない。高齢者の場合、医療費より入ってくる年金が上回っているから延命されているというケースさえあるそうだ。ある意味、家族のため役に立っているといえるので、これで良いと思うかどうかは人次第だとは思うが、すくなくとも私はこの状態に尊厳というものを感じない。もし私がこんな状態になったとしたら、一思いに死なせてほしいと思うだろう。

「尊厳よりも生命が大事」といった友人の意見としてはここで延命治療を望むことになる。この場合、死を選ぶ人間ははっきり言えば「逃げている」というわけだ。

逃げている……確かにそうかもしれない。スパゲッティ症候群になった時点で私は自分の尊厳を保つ手段を失ったことになる、だから死を選ぶのだ。

これに加えて、友人は面白いことを言った。「アンドロイドにはアンドロイドに適用される倫理観がある。だから人と同じように扱うのはナンセンスだ」と。

これは面白い意見だと思った。友人はアンドロイドを人間とまったく別の生き物として扱うべきだ主張しているのだ。「Detroit: Become Human」では、変異体になったアンドロイドをまるで感情移入できる人間のように描いていた。だから私のような普通のプレイヤーには、作中でアンドロイドを理由もなく虐げる人を見ると、本能的な嫌悪感を感じてしまう。だが友人はそこから一歩引いて、いわば《生命の形》に着目しているのである。たしかにそれは生命だが、人間の生命と等価で扱うべきではない、ということだ。

生命は大事にすべきだ、そのことに疑いの余地はない。だがその生命の形式には、重さや軽さというものがある。

私は豚肉が大好きだから、人間の栄養になるために命を捧げてくれた豚に感謝しながら、スーパーの鮮肉コーナーで、バラバラに刻まれた豚の死骸が入ったパックを手にとっている。今日はもも肉が安いとか言いながら。このとき、私は豚の命を人間のそれよりも軽く見ていると言ってよいだろう。もし豚と人間を同列に考えているなら、上記のような行動は重度の痴呆か、さもなくば狂気の沙汰と言わざるをえない。当然だが、豚にも感情があり、屠殺されるときにはきっと恐怖を感じていることだろう。普通の人間であれば、そういったことに想像を至らせたときに心の痛みを感じるに違いない。そのことは屠畜場が人目を避けた場所にあることと関係があるのかもしれない。

私は生命というものをかなり非合理的に考えている。「生命は大事だ」という考えを論理的に突き詰めれば、豚やアンドロイドの生命も人間のそれと同列に考えるべきである。しかし、生命の価値というものは本質的に非合理的だと私は思う。そうでなければ、ただ心臓が動いていて脳の神経細胞に電気が流れていることに、いったいどんな価値を見い出せばいいというのか?

いまでも「生命そのものに価値があるわけではない」という意見は変わらない。誰にだって、「死んだほうがマシだ」と思えるような瞬間が来る可能性がある。そのとき、あらためて生命について考え、自死を避けるような結論をくだすような精神力はほとんど残っていないだろう。だから生命とは何かということについて日頃から考えておくことには意味がある。

今回、友人と話せたのは私にとって良い刺激だった。あらためて生命について考える機会になったからだ。そういう良い刺激を与えられる人間になれるよう、これからもnoteを続けていきたい。

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