【読書感想】苦難の中で、社会から忘れ去られていても-5終
【読書感想】苦難の中で、社会から忘れ去られていても-5終
それは地獄ではない。
石牟礼道子さん「苦界浄土」
人間であることに罪を感じず、苦しみを伴う煩悶無しにはいられない名作です。
章・わが故郷と「会社」の歴史 引用
市長にK氏の写真展を開いてくれるよう申し込む。
―――あんた何者かね?
――――はあ、あの、シュフ、主婦です。あの、水俣病を書きよります。時間がなくて。家の事情もいろいろ・・・・・・。
――――キミ荒木精之を知っとるかね。
――――知ってます。
―――いや荒木君はキミを知っとるかネ。
つまりキミは荒木氏からみれば、熊本では何番目くらいの文士かね?
―――――さあ?はあ、文士だなんて、ぜんぜん、その……………。
そしてあっさり断わられる。荒木精之とは熊本文壇の族長的な存在である。つづけて熊 本日日新聞社長に手紙を出す。いんぎんていねいな返事がきて断わられる。
気の毒がった記者氏に教えられて、教育祭に申し入れる。熊本 市鶴屋デパートで展いてくれることになる。熊本の新文化集団が手伝ってくれてやっと開 催する。しかし半日くりあげてたちまちおろされる。
小冊子「現代の記録」を出す。水俣はじまっていらいのチッソの長期 ストライキ、その記録である。
天草のおじいさんからきいた西南役と水俣病の話を入れ る。続刊したかったが雑誌づくりというものは、 えらく金のかかることを知り、一冊きり で大借金をかかえる。
「水俣病」は宙に迷う。
わが魂の、ゆく先のわからぬおなごじゃと、 わたくしは自分のことをおもう。
すこしもこなれない日本資本主義とやらをなんとなくのみくだす。
わが下層細民たちの、心の底にある唄をのみくだす。
村農民のひとり、ひとりの最期について思いをめぐらせる。
茫茫として、わたくし自身が年月と化す。
ーーーーーーーー引用
人が寿命で死ぬことは運命だ。
けれど、高度経済成長期が産んだ狭間に呑み込まれた人は、「運命」だったのだろうか。それは人の世の尊い犠牲として、声をあげずに死んでゆくべき人たちだっただろうか。
チッソが初めから誠意とやらを見せていれば、浮かばれる命もあっただろう。
けど、そうならなかったことを、そうあるべきだったと誰が声をあげられるだろうか。
死者の沈黙に力はあるのだろうか。
そうした煩悶、華々しい影響力ではない、ゴツゴツとした重たい塊の本作です。
章・いのちの契約書
ここにまことに天地に恥ずべき一枚の古典的契約書がある。
新日本窒素水俣工場と水 俣病患者互助会とが昭和三十四年十二月末に取りかわした『見舞金」契約書である。
子供のいのち年間3万円
大人のいのち年間10万円
死者のいのち年間30万円
葬祭料2万円
物価上がり三十九年四月いのちのねだん少しあがり、
子供のいのち年間5万円
その子はたちになれば8万円
二十五になれば10万円
重症の大人になれば11万5千円
「乙(思直互助会)は将来、水俣病が甲(工場)の工場排水に起因することがわかって も、新たな補償要求は一切行わないものとする」
これは日本国昭和三十年代の人種思想が背中に貼って歩いているねだんでもあるのである。
最終章・満ち潮
(水俣病患者第一号発生から14年、新潟水俣病の発生、公害対策の機運は高まり、チッソはやっと公に非を認めた)
「ちっとも気が晴れんよ。今日こそはいおうと、十五年間考え続けたあれこればいおうと、思うとったのに、言えんじゃった。泣かんつもりじゃったのに、泣いてしもうて。あとが出んじゃった。悲しゅうて気が沈む」
読むのが苦しい作品で、何か生きることについて分かりやすい答えや勇気が得られるわけではない、償いがたい「過ち」ですが、いつまでも読まれてほしいと思います。
世界から忘れ去られていても、身近な人と協力して生きていく、こうであってほしいと思う人、個人ではない、社会的な人の姿が見えるような気がします。