朗読のすゝめ
最近、note界隈で音声コンテンツが徐々に勢いを見せている様子。
といっても、前々から存在していたのだろうが、『noteを楽しむ会』でも少しずつ模索者が現れてきたのが目立つ。
私はかねてよりYoutubeの文学朗読を嗜んでいるので、音声コンテンツの良さも悪さも、よく知っているつもりである。
しかし、noteにおいて音声コンテンツというと、noteの音声投稿、spoonやstand.fmへの誘導、mp3ファイルや動画URLの貼り付けなど、その方法は多岐に亘る。
コンテンツの内容もまた計り知れないため、この記事では文学作品を「朗読」で聴くという話題に絞って述べていく。
無駄な時間を朗読にあてるだけ
あなたの一日の中で、何も考えずぼーっとしている時間はどれくらいあるだろうか?
そんな無駄な時間などないと豪語する諸君、振り返ればきっとあるはず。
何もしない時間ではない。なにも考えていない時間。
その分だけ、あなたの読書量はUPする。
食事、料理・洗濯・掃除などの家事、通勤、入浴、散歩やランニング。
こうして挙げてみただけで、一日の中にどれだけ耳を使う余地があるかお分かりいただけたかと思う。
つまり、およそ習慣化してしまって必要以上に思考を巡らせることのない時間。
ここに朗読を当てはめるだけ。
私の場合、その時間というのは、通勤時間の約一時間と入浴中の30分である。
私は朗読を聞くようになってからというもの、読書量でいうと年間50冊から年間100冊に。
まるまる2倍に増えた。
ただし、一人でいるときに限るのがネックである。
もっとも、カフェや買い物、食事でさえ一人で済ませてしまう私のようなぼっちには関係のない話であるが…
読むスピードは読書に勝らない
圧倒的な効率化を追い求めるために朗読を使おうとしているならば、朗読は非効率だ。
朗読は自分のペースで読み進めることが出来ない。
大体30ページほどの量で、時間にして30分程度で読み終えられるところを、朗読だと1時間ほどの時間を要する。
先ほどの読書量2倍の話が、結局プラマイゼロやないかいというツッコミが飛んできそうである。
しかしまあ、理解していただけると思うが、私が主張したいのは、読書に対して無理な労力をかけなくとも、すきま時間を有効活用できるのが朗読の良いところの一つであるということだ。
集中し続ける必要がある
もう一つのデメリット。
本であれば、いつでも中止して再度続きから読める。また、一度立ち止まって思考にふけることが出来る。
これに対して音声はというと、それが出来ないのだ。
私も愛用しているイヤホンもそうだが、わざわざ画面を開かなくともタッチひとつで簡単に一時停止は可能だ。
しかし、それ以上のことは出来ないのだ。もう1ページ前に遡って読み直してみることもできないし、冒頭で主人公は何と言っていたっけなと思っても、ちょうどその場面に飛んで見直すことが出来ない。
音声はひたすら進んでいくばかりである。
それでもどうしても聞き直したくて、15秒スキップを繰り返しながら該当のシーンへやっと辿りついたという経験が何度あったことか。
「しんそう」が真相か深層か分からない
また、音声の弊害はほかにもある。
音声は文字のすべてが「ひらがな」になる。
慣れれば文脈から類推するのも造作のないことだが、聞いた言葉を漢字に直す必要がある場面は往々にして訪れる。
特に同音異義語は、意味もまあまあ似ていることもあり、どちらでも意味は通るけども違和感があるということが起きやすい。
分からない言葉がひとつでもあるままだと、先ほどもいったように音声は次から次へと進んでいくため、収拾がつかなくなるのだ。
そして調べたとしても、原作を読まないことには正解が何なのか分からないという事態が起きる。
大抵の同音語は調べる必要もないのだが、こうしたリスクも考えるべきといえる。
そもそものコンテンツの価値に依存する
あるnote投稿者が音声と文字の投稿をスキの数で比較しているのを見た。
これには疑問を呈したい。
スキの数は需要の数ではない。
noteにおいて音声コンテンツの需要は十分にあるだろう。
だが、音声への敷居が少しばかり高いがゆえに、もともとのコンテンツの価値により左右されることになる。
ある文章を読むのに5分費やすのと、同じものに15分費やすと考えれば、出来るだけ良いコンテンツに費やしたいとだれしもが考えるだろう。
その分、コンテンツをしっかりユーザーに届けることが出来る。
noteの文章を数行読んで、または流し読みをしてスキを押す読者ではなく、しっかりと10数分かけて最後まで聞いてくれる読者に。
そうしてふるいにかけることで、本来のコンテンツの価値を再認できるのではないだろうか。
情動描写や情景描写がイメージしやすい
上述した注意点をさえ理解したならば、読む読書では得られないものが聞く読書にはある。
その一つが、朗読によって「状況がイメージしやすい」という点だ。
様々な技巧が施された文章であっても、紙の上にずらずらと並べられた、その物質的な平坦さは拭えない。
それは読者自身の想像力で補う必要のある平坦さである。
しかし、朗読においてはこの負担ともとれる想像の作業を必要最低限にしてくれる。
実際に聞いてみれば分かるであろうが、耳で捉えた情報は思ったよりもすっと頭の中に入ってくる。
特に如実に分かりやすさが表れるのは、話し言葉やオノマトペである。こうした細かな機微が表れやすい箇所には、より音声の良さがでる。
子どもの頃に大人が読み聞かせをしてくれた絵本や紙芝居の記憶が、今でもよく思い出すことのできるという方はいないだろうか。
読み手が精を出して様々な声色を駆使し、「わあっ」とか「えぇーん」とか我々子どもを楽しませようとしてくれていたことが懐かしくもあり、またその記憶の強力なことを再確認するばかりである。
朗読は子供の未熟な想像力を補うためだけのものではなく、大人にとっても非常に豊かな想像の手助けをしてくれる。
つまり、文字の平坦さは、音声の肥沃さによって補完されるのだ。
朗読者による違いを楽しめる
同じ作品であっても、読み手が変わると作品の雰囲気はガラッと変わる。
単純に、男声か女声かという変化だけでもその違いは歴然である。
この他にも、男声か女声か、声のトーンや読むスピード、アクセント、強調するところなど、これらが1㎜でも違うならそれは別の朗読作品である。
読み手の数だけ物語の感じ取り方や解釈は異なり、その違いは読み方の違いを生む。
その各々の世界を音声として拝借するわれわれ読者は、それを享受することの楽しさを感じることができるのだ。
音声にすることで作品は形骸化してしまう
ここで、重要な問題提起をしたい。
私は先ほど「読み手によって作品が変わっていき、それを楽しむことが出来るのだ」と書いたが、これには見放すことのできないある重大な側面をはらんでいる。
それは、
「何人(なんぴと)といえど、その朗読によって作品は本来の形を失う」
ということ。
これが一番私の提言したいことまである。
例えば、
「あなたに私の気持ちが分かるはずないわ。」
突然向けられた包丁の刃に私は舌を巻いた。
上の例文でも、包丁を持った女は自らの突発的な行動を呑み込むことが出来ずに、また沸々と湧き上がる怒りを抑えながら震えた声で静かに言ったのか。それとも目をかっぴらきながら怒鳴りつけるように言い放ったのか。
多くの場合、その場の状況説明というのは前後の文章で類推できるものだが、朗読では朗読者の言い方によってその類推の自由を奪われてしまう。
いかなる解釈の余地があったとしても、朗読者が息巻いてセリフを読めばその女は怒鳴ったことになるし、あるいは震えた声で読めばその女は静かに言ったことになる。
これが作者の意図しない方向に捉えてしまっていたとしたら、読者独自の感受性を邪魔してしまったとしたら、これは朗読の最大の欠点となり得る。
作品を文字で読むことでさえ、多少の齟齬が生まれてしまうのに、他の人を仲介させた音声の作品は、違いすぎて同じ作品ということはできない。
したがって、我々は、朗読された作品をそもそも異なるものとして捉えるべきなのである。
原作の小説や漫画が映画化され、キャストの選出に違和感を覚えたりファンにとって重要なシーンがカットされてしまったことに不満を抱き、原作の方が良かったと豪語してしまう方になどは、朗読を楽しむことは皆目できないだろう。
「小説」と「映画」は別。
「小説」と「朗読」もしかり、まったくの別物。
自分の作品を音声化される覚悟をもつべき
あなたがnoteに投稿した作品もまた、朗読される機会はしばしば訪れるだろう。
より多くの読者に広げたいという自身の思いから朗読者にリクエストするかもしれないし、あなたの作品に感銘を受けてぜひ朗読させてほしいとお願いされるかもしれない。
その際は、一定の覚悟をもってGOを出すべきか否かを選択するといい。
何が言いたいかというと、
完成した粘土作品が、ある第三者によって一度ぐちゃぐちゃにされ、その手で再度形作られた自分の作品の模型となってしまうという自覚を持つべきであるということ。
だれしも自らの作品には一番の愛情を注いでいるはずなので、自分以外の人間に作品を壊されることを嫌う者は多いだろう。
朗読によって作品が壊されるというつもりはないが、その可能性も十二分にあるということをわきまえる必要がある。
どうしても譲れないものがあるならば、朗読者に直接伝えて齟齬を減らす努力をすべきである。
どうか作品を大事にしてほしい。
そして、朗読を目一杯楽しんでほしい。
※若干、批判的な内容を多く含んでしまったが、それは音声で物語を楽しむことへの注意点を漏らすことなく記述したかったからであり、あくまで私は朗読を勧めたいのだということを最後に伝えたい。
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