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大和の大神神社と筑前の大己貴神社(於保奈牟智神社)の地形の相似性について

大己貴神社のホームページに興味深い内容が紹介されていました。
筑前の大己貴神社と大和の大神神社の周辺の地名と位置が大変似ているという内容です。

朝倉から大和地方へ政権が移動したのでは・・・

大己貴神社
https://www.oonamuchi-jinja.or.jp/shrine/history/

地名やその位置が相似しているということは、どちらかが片方をもとに地名をつけた。という考えが生まれ、どちらかが故郷ということになると思います。

「大國神甲子祝詞」では以下の順に大己貴神の呼び名が登場します。
大己貴神→葦原醜男→八千矛神→大国主→大物主神→大国玉神→顕国玉神
確かに記紀などの伝承によると、時系列的に大己貴神(おおなむちのかみ)が先で大物主神(おおものぬしのかみ)が後になります。
また、神武東征では九州(日向)から大和に進軍したことは記紀にも記されています。
そう考えると、大和の三輪より筑前の三輪が先ではないかという説が出てくるだろうとは思います。

ただ、第73世武内宿禰である竹内睦泰さんの口伝では、以下のように述べられています。

第5代天皇から第8代天皇の孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇の時代の「孝」の天皇の時代は戦乱の時代で、大和から九州に政治の中心が移っていた。

口伝をもとにして考察すると、
初代神武天皇の時代に大和の橿原に拠点を築いた後に、第5代天皇から第8代天皇の時代に九州に拠点を移し、戦乱が収まって再び大和に拠点を移した。
そして、 神功皇后の時代に争いが起きたとき前線として再び拠点を九州に移した。
ということになると思います。
その際に政権を担った当時の天皇が九州の拠点に大和の地名を付けたのかもしれません。
この大己貴神社の北西20kmには防人で有名な太宰府があります。
出雲の地名は筑前の三輪周辺には見当たりません。たぶん大和が政権の中心になったときに出雲地方の人々が移住したのだと思います。
また、大物主神の坐す大和の神奈備の三輪山にあたる山はどこになるのでしょうか。記紀にも記されている大物主神の存在は重要です。
ただ、確かに北側と川を挟んで東側に山はあります。
北側の山の名前は「高宮山」でした。また、「大神山(大己貴神社の北西の山)」「長谷山」も近くにあるようです。
三輪山の「高宮神社(このみやじんじゃ)」との関連性もうかがえます。
磐座もあるとの噂です。それに、山岳信仰の英彦山が近場にあります。

そう考えると、九州が先か、大和が先かはどうでもよくなりました。
大事なことは、故郷を偲んで同じように「まつりごと」を行った軌跡がこれらの地にあるということです。
その相関性から新たなことが発見できるかもしれません。このことに期待したいですね。


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