教育にはまず啓蒙

学校では国数英理社(主要科目)を別々に勉強していますが、便宜上致し方がないと思います。教える側としては専門科目を選べば良いのでとても有り難い仕組みですが生徒からすると関係ありません。生徒は全ての科目を勉強しています。生徒は全ての科目を勉強していますが、全て「分けて」捕えている現状を何とか変えなくてはなりません。つまり、英語は英語、社会は社会、数学は数学などで脳のシフトチェンジをして、そのまま同じ状態で保っていないのです。英語と社会そして数学の単元は実はこうこう繋がっているなどこちらが指摘しない限り気がつかない生徒が大半です。一番簡単な例ですが、「ピリオドの付け忘れ」は数学の「マイナスの付け忘れ」「単位の付け忘れ」、英語の本文内容では地理の知識が必要な時があるなどです。エンジンをかけたり、切ったりという脳の使い方でエネルギーを大量消費しているようです。

また記憶、暗記に関しては何か箱の中に知識をいれるイメージがついています。どうも脳のネットワーク上に蓄えられるとは知らないようです。生徒には発想力も付けたいという願望もありますが睡眠が重要と言ってもなかなか信じてもらえませんでしたので、起床時の神経回路の繋がりはある程度決まっていて、睡眠の際にその決まりが解除されて突拍子もない発想ができるという話をしました。つまり常識的な繋がりが外れて非常識の繋がりになるということです。「リンゴに空気をかけて南無阿弥陀仏と遊ぶ」といった具合の発想が出来るのです。

本質が理解できていなくても、数をこなすと理解出来てくることは多々あります。「1回の説明で理解できない」=「頭が悪い」はお門違いです。頭が悪いとはただ単に脳を使う機会が少なかった証明です。脳を使えば良いだけだと思います。実存主義では「実存は本質に先立つ」とあります。人の行動には何かしらの意味があると考えがちですが、そもそも意味なく生まれたので、ほとんどの行為に意味はありません。脳を使い、意味を見いだして、そして行動する。この訓練を生徒達には今後も継続してもらいたいと思います。これが理解だと思います。

「お前はダメなやつ」「お前は頭が悪い」と大人が子供に言うことがなぜだめなのか。それは簡単です。子供には本質がまだ備わっていません。よって、無の状態です。そこに大人が上記の言葉をかけてしまうと、子供はその言葉通りの意味を受け止めて自分を形成してしまいます。一端自我を形成してしまいますとそれがその子のアイデンティティとなり、本質となってしまいます。これだけは避けなければなりません。

バナナを購入したいと思います。メロンも食べてみたいです。