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月日の功罪 #あえていまセカチュー

セカチューなんて軽薄なケータイ小説の延長だ、と思いながら読んだ。そのころ漱石から向田邦子から、いろんな文学に触れようとしていた大学時代の話だ。とうぜん、つまらなかった。

翻って、20年経った今、何の偏見もなしに、というか、「友人がエモいと思って読んだ小説」という色眼鏡をかけて読んでみたのだけれども、これがまた、おもしろかったんです。
愛について書かれた本はたくさんあるし、その本たちに比較してセカチューが比類なくすぐれているかと言えば、そうではない。ただ、本との関係は客観的であっていいはずがない、主観だ。主観的であるべきなのだ。

セカチューを読んだ今、私の心は大変ヒリヒリしている。主人公たちのひたむきな恋愛。恋とか愛に分けられない、恋愛がそこにはあった。ふと思い立って、当時の自分の恋愛を見てみたら、まあ、終わった恋愛にまともなものなんて、ふつうはあんまりないものですわな……いや、あるにはあるか。とにかく、ふつうの、というか、私の恋愛には、清濁があった。セカチューは、あまりに純粋でヒリつく心を抑えるのに苦労した。まばゆかった。

片山恭一は、もともと近代日本文学から読書にのめりこみ、当時の登場人物の世代に合わせて短文コミュニケーションを中心としたケータイ小説に倣い、文体を変え、セカチューを書いたそうだ。(って先に読んだミツ子が言ってただけで、本当かどうかは知らない)
たしかに愛についての哲学はよく練られていて、読みごたえがないと思った学生時代の自分の読解力のなさと主観的に歩み寄ろうとする柔軟な頭の無さをとっくりと恥じることになった。
大体当時の私が大上段から批評できるほどまともな文章をかけたか?答えは今に至る20年の歳月をもってしても否だ。文学って何。いや、文学を楽しむものが必ずしも、文学を書ける必要はないのだけれども。それでもよ。

少々個人的な話をする、個人的な話しかしてないけど。だって読書は本と私との一対一の戦いなのだから。

アキの葬儀の場面で私にはどうしても見えてしまうシーンがあった。同じく学生時代、若くして亡くなった高校の同窓生がいて、その葬儀に参加しないかと言われていたのだが、どうしてもできなかった。心情的にも、家庭の事情においても。ただ漏れ伝え聞いた話によると、葬儀には彼氏と思われる男の子がいて、斎場にはバンプオブチキンが流れていたという。プライバシーの保護と、私の心の弱さから、これ以上詳細を述べることは控えるが、私は、その光景をありありと思い浮かべることができる。ありありと、まざまざと。
そのヒリつきは、この本を読んだ時に感じたものと、少し似ている。

『世界の中心で、愛をさけぶ』というタイトルで、誤解していたことがある。肝心の結末を、私の記憶は偽造していたのだ。
その幻のラストシーンとは簡潔に言えばこうだ。

「エアーズロックの頂上で主人公が泣き崩れる」
ー幕ー

出典:私の記憶

えっ、ダサくない?どこにカタルシスが?って自分でも突っ込んだのですが、本当に全然違っていて、びっくりしました。

ふだん『この世界の片隅に』なんて控えめなタイトルを好んでいる私がいきなり『セカチュー』を読み始めたので、そこも新鮮だったのですが、初読から20年経った今、再読できてよかった。

この読書感想文は「大人の夏の読書感想文」企画に参加しています。再読のきっかけをありがとうございます〜!




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