N対Nの無差別な消費戦争

新宿区役所に向かう途中、
歌舞伎町の方から機械的な女性の声で注意喚起のアナウンスが聞こえてきた。

中高生がメンチカの働くコンカフェでお金を使い込んで借金を作るのが問題になっているから行き過ぎた推し活に注意するようにとのこと。

いったい誰が何に対して注意しろというのか。

大久保公園沿いには今日も女性たちが無表情に一定の間隔でたっている。
その容姿に値札が付けられ消費される。
守ってくれる大人はいない。

この社会は病んでいると思う。大人も子どもも。

そんなことを考えながら高田馬場で乗り換えをしていると、
目の前にホットパンツを履いた20代半ば頃の女性がみえた。ふらふらと緩急をつけながら歩いていたので、追い越すのを諦めて、先を譲ると、ふとその女性の真っ白でつるりとした脚にまだらについた赤紫色のシミが目に付いた。右脚の後ろ側半分程を占めるそれは、おそらく子どもの頃の火との好ましくない出来事からもたらされたものだろう。
あるいは、酸性のなにかで誰かに後ろから襲われたことがあるのかもしれない。

その姿をみて、ふと精神と肉体がいかに不可分に結びついているかに思い至った。

そしてその人の精神と深く結びついた肉体の一部を切り取って他の誰かのそれと比べることがいかにグロテスクな趣味かということを。

頭の先からつま先まで、目に見えるものと見えないもの。
精神や記憶やその人の持つヴォイスみたいなもの。それらが不可分に結びついて1人の人という形を取る。
そして外側からそれをジャッジすることになんの意味もない。

僕らはそのすべての要素の結びつき方の調和に感動し、
あるいは時々絶妙なバランスの上に成り立つその様や、
磁石の同じ極同士が結びついているような全くばらばらでナンセンスな結合と統合を目にして不思議な感慨を感ずる。


ルッキズムが蔓延る世の中が憎いと漏らした友人は、
自説に固執する学者のように事あるごとに物事をルッキズムに照らして捉えるようになっていった。そう唱える人でさえ目に見えるものの価値に囚われ過ぎているように思う。

目に見えるものとは、例えばこの言葉。
こうしてMacBookのキーボードを通してNoteの画面に紡がれていく文字たち。本来は音声である言語を綴って時や場所を超えて誰かに何かを伝えるためのツール。

最近、動物の言語に関する本を読んだ。
動物の世界では、文字を生み出す前の人もそうだが、言葉というものはあくまでも肉体的なものだ。
音を発する個体と受け取る個体の物理的な場があって、
そのトーンやピッチや、状況に応じて、文脈が生まれる。

そうした言葉は本来はその場限りのもので、
再現可能な意味を持たない。

こうした音声的で肉体的な言語というものを、
文脈やトーンやピッチなど他の重要な要素を切り捨てて便宜的に再現性を持たせたものが書き言葉だ。
だからSNS上で炎上する投稿の裏側には、単に書かれなかったことだけではなく、こうした切り捨てられた要素もある。
ゴミ山のスラムの匂いはインスタの写真では伝わらない。
立ち止まって考えれば、
その言葉の向こうにある生の要素を想像する力が人にはあるはずなのだけれども。

翻って、視覚が優先される現在の世界では、
形のある言葉が重視される。

そしてインターネットの普及は言葉以外の視覚的要素の共有も可能にした。

おかげでキッズたちは、
写真や動画による他者との比較に日々晒されている。

かつて、僕たちの大半は映画館で映画を観るという体験のようになにかを消費する側だった。
それは、同じ一つの作品=1に対して、
無数のオーディエンスがいるという
1対Nの構図だ。

それが今では、僕らは誰もが消費し、消費される存在になった。
それも他者と激しく比較される形で。
これはもはやN対Nの消費戦争だと思う。
その過激さと誰もが傷つき勝者は存在しないという点で戦争に似ている。
そこに思想はない。ルターはいない。
あるのは西海岸が産んだ工学的なアルゴリズムと、それに反応する人間の生理心理学的なアルゴリズムだけ。

でも動物の個体に同じものが存在しないように、人間もそうだと思う。
だから肉体や精神が、清濁が合わさって、水と油が分かち難く深く結合された1人の人にとって、別の個体=他者と同じ土俵で比較できる要素なんてない。

肉体に備わった感覚器官の中で、
2つの球体しか信頼しないなら、いっそ他は捨ててしまおうか。
それとも盲目を演じようか。
それよりは、五感すべてでなんなら六感も含めて、
ルッキズムに囚われたあの友人たちの彼らが気づいていないその美しさを叫びたい。

でも抱きしめても
今日もあなたは画面越しに誰かをみている。
そして別の誰かが画面越しのあなたをみている。

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