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「スイートハウス。前編」/ショートストーリー

みなみはベッドの中で大きく伸びをした。
久しぶりにシャキッとした目覚めだったと喜んだ。

「よく眠れた。」
とみなみはひとり言をつぶやいて微笑む。
同居している猫がおきたみなみの足元にきて、いつものように身体をこすりつけながら甘えた声で鳴く。

「はい。はい。ご飯ね。」
猫がご飯を食べている間に、みなみもいつものように歯を磨いて洗顔した。
みなみは鏡にうつる自分の顔がなぜかとても愛おしく思えて仕方なかった。

「みなみ。あんた、とても幸せな顔している。」
こんな顔を見たのはひどく昔だったような。
それどころか、目のクマが当たり前だったような。
なんだろう。
ショートヘアの前髪を整えて、今感じたものを振り払った。

ドラマのようなカリカリのベーコンと目玉焼きと厚切りトースト。
そしてオレンジジュースを飲んで朝食が済むと今度は掃除機をかけた。
ひとりと一匹で住むにはかなり広い家だったが、掃除機をかけるのは苦にならなかった。
みなみはずっと無意識に鼻歌だったのだが気づいていない。

とにかく、心地よい朝を満喫していたみなみだが。
今日は猫の病院だと思い出して、慌てて猫をキャリーバッグに入れると家を飛び出した。
慌ててはいたがそれさえもなんだか楽しくてみなみの足取りは軽かった。

しばらく歩くとみなみは自分がどこへ行こうとしていたのか。
自分が歩いている道が一体どこなのかと急に頭が混乱し始めて、あたりをキョロキョロとみまわし始めた。

みなみの心臓の鼓動が早くなろうとした瞬間に猫が鳴いた。
「やだ。わたしったら。ミオの治療日だった。隣駅の病院だったから終わって気まぐれで散歩していたんだ。」
そう声にだして混乱した自分をなだめた。
みなみは、通っている大学の人間関係に馴染めず身体と心も疲弊してしまい、猫の不調に気がつかなかった。
病院の先生にあと少し遅かったら危なかったと言われた時に、みなみは人目もはばからずに号泣していた。自分と愛猫に。

それがきっかけとなり、みなみは留年することにした。
親は戻って来いと言ったが愛猫の看病に専念した。
学校に戻るのか、故郷に帰るのかはまだ決められないままだった。

ところが。

今日のみなみは、そんなことが本当にあったのかと首を傾げたくなるぐらいに、心が軽かった。
「早く、おうちに帰ろうね。」
と愛猫に話しかけて携帯で位置を確認すると駅に向かって歩き出した。

みなみの記憶から今出てきた家のことはすっかり消え去っていた。


夏だから、夜の7時でも空はまだ明るかった。
みなみという若い女性がでてきた家の玄関は時間がセットされているのか。
無人にもかかわらず灯りがついた。
とても温かい感じがする灯りが、玄関と門扉に。

その家の駐車スペースに白い車が駐車すると中から30代半ばぐらいの男性が降りた。
男性は玄関にはいるとなんだか家を間違えたような気がしてならなかった。
同僚が酔っぱらって隣家の玄関の鍵が開かないと騒ぎになった話しを思い出していた。

いやいや。自分は酔っぱらってなんかいない。
車で帰って来たんだ。
玄関だって開いたじゃないか。
それでも。
なんだか不安に駆られて、表札を見に行くと確かに自分の名字があった。
「一ノ瀬」
たくさんある名字じやない。間違いなく自分の家だ。
ただ。

家には誰もいなかった。
綺麗に掃除されていたし、朝使ったと思われる食器が水切りラックにあった。
妻は?
一ノ瀬は左の薬指の指輪を確認しながら思った。
指が、薬指がぎこちなさを伝えているのだ。

頃合いを見計らったように、玄関のドアが開く音が聞こえて、一ノ瀬を驚かせた。



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