第11章 蜘蛛を殺した朝
マリーが朝目覚めると、枕の横に、小さな蜘蛛の死骸があった。そっと指で摘み上げると、シーツに茶色いシミができていた。
トボトボと、いつもの畦道を、マリーが歩いていたら、いつものお地蔵ちゃんの祠のところに、ななちゃんが座っていた。ななちゃんは、お地蔵ちゃんの足元に手を伸ばしているようだった。
「おはよう!ななちゃん!」マリーが声をかけると、ななちゃんの大きな身体が、ビクンッと揺らいだ。ななちゃんは、マリーを見上げると、慌てて立ち上がり、大きな身体をユッサユッサしながら走って行ってしまった。
マリーが祠を覗くと、お地蔵ちゃんの足元に、『さいとうさんへ いつもありがとう』の新しいメッセージカードが置いてあった。
「ななちゃんだったんだ...」
それにしても、さいとうさんて、誰なんだろう?マリーは首を傾げながら歩いて行った。
門番の七宮さんに挨拶して、オートロックの玄関を開け、靴箱に靴をしまって、事務所の重い扉を開けた。
「そしたら、柳川がさ...」
まただ...毎日、朝から悪口。
「いじめてません! て言うのよ。だけど、仲間はずれしてるのよ! 悪口言ってんのよ!」
界がそんなことするわけない! 主任こそ、いじめてるじゃないか!悪口言ってるじゃないか!自分のことが分からないの?マリーは唇を噛み締めながら、自分の席についた。
「あれは、いじめだよ」
主任は言った。
「坂口さん、柳川さんのこと、どんなふうに支援していこうと思ってるの?」
ドッシリと座ったまま、橋本おばさんが言った。慌てたように坂口さんが、橋本おばさんに駆け寄ってきた。なぜかメモ帳とペンを両手に持って、まるで、悪いことをして職員室に呼ばれた生徒のように怯えた目をしている坂口さん。
ふと、事務のおじさんとマリーは目が合った。事務のおじさんは、ニヤニヤ笑っている。ゆっくりとマリーから、目をそらすと、口を手で押さえて笑っている。マリーは、主任も見た。主任も、坂口さんの後ろ姿を舐めるように見ながら、ニヤニヤしている。東堂さんも、園長も。境さんだけが、顔を歪めてうつむいていた。
「坂口さん、あなたが担当している柳川さんに、白井さんがいじめられてるのよ! あなたがちゃんと注意しなきゃダメでしょ!!」
橋本おばさんは、大きな声を張り上げた。
「は、はい。あの、柳川さんに話を聞きましたら、柳川さんは、白井さんをいじめてないって...」
「そんなの嘘ついてるに決まってるでしょ!!」
橋本おばさんはまた怒鳴った。坂口さんの肩がビクンッと動いた。
「もうさ、早く退所させちゃおうよ!柳川!!」
主任が鼻で笑った。坂口さんは、その場に立ったままだ。橋本おばさんは、横に立つ坂口さんなんかは見えないかのように、園長を振り返り、園長と話を始めた。コソコソと、まるで坂口さんへの当てつけのように。
我に返った坂口さんとマリーは目が合った。坂口さんの目は真っ赤に充血していた。「あっ!!」と何かを思い出したように、坂口さんは、事務のおじさんのもとへ駆け寄った。事務のおじさんは、
「あ? 今ごろダメだよ! 証人はいるの?」
と嫌そうな顔で、声で、坂口さんに言っている。坂口さんは、頭をペコペコ下げて、事務のおじさんから離れると、自分の席に向かった。マリーはたまらなくなり、立ち上がると、坂口さんに駆け寄った。坂口さんは、真っ赤な目で、少し笑って、
「今朝、タイムカード押し忘れちゃって...」
と小さな声で言った。その時、
「谷岡くぅ〜ん。わたしもタイムカード押し忘れちゃってるのよぉ」
橋本おばさんが、事務のおじさんにすり寄っていった。事務の谷岡おじさんは、ニッコリ笑うと、
「大丈夫ですよ、出勤時間ピッタリで付けときますから!」
と言った。橋本おばさんは、ニンマリ笑うと、その顔をこちらに向けた。
「え?」
マリーは、思わず大きな声を出してしまった。
「い、いいの。大丈夫。いつものことだから...」
坂口さんは、小さな声で言った。
お昼休みに、マリーは、いつも、外で食事を摂っている坂口さんを追いかけて行った。
「わたしと一緒にいるところ、橋本さん達に見られたらまずいから!!」
坂口さんは、坂口さんらしくない、キツイ声で、キツイ顔つきで言った。マリーは、
「いいの!! 坂口さんと一緒にいるからって、わたしをいじめるなら、いじめたらいいわ! 労働局に訴えてやるから!!」
と、胸を張った。
「ふふふふふ」
坂口さんが笑った。いつもの穏やかな笑顔の坂口さんに戻っていた。
施設から近い公園のブランコに座って、二人で菓子パンを食べながら、ブランコを漕いだ。
「うえっ!なんか酔っちゃった...」
マリーは、ザザッと地面に靴を擦り付けて、ブランコを止めた。
「うふふ。十三さんて、面白いし、かわいいね!」
坂口さんも、ブランコを止めた。
「かわいいって、わたし、もうおばさんよ」
マリーは、そう言いながら照れていた。かわいいだなんて、ここ数年言われたこと一回もない。
「おばさんだなんて、まだまだ若いじゃないの!これからよ!」
そう言って、ニコニコしていたかと思うと、坂口さんは、スマホで時計を見て、顔を曇らせた。
「戻るの嫌だな...」
「じゃあ、二人でさぼっちゃおうよ!」
「またまた、テキトーなことを!」
坂口さんは、二人で一緒に帰ると、また、いろいろ面倒なことになるからと、先に帰って行った。
マリーは、一人、またブランコを漕ぎ始めた。
「マリー!」
公園の柵の向こうで、界が手を振っていた。界は、長い足で、柵を飛び越えると、マリーに向かって、ニコニコしながら走ってきた。長い髪を一本に縛り上げた界は、まるで、少女漫画に出てくる王子様のようだった。
「やっと、話せるね!」
界は、嬉しそうに、マリーの目の前に立った。マリーは、ブランコに座ったまま、界を見上げた。かなり高いところに、界の綺麗な顔があった。
「界。白井さんのこと、いじめてる?」
マリーが、ボソボソ言うと、界は、「ああ...」と小さく言い、隣のブランコに座った。そして、マリーを見ると、
「主任さんにも、坂口さんにも聞かれたけど、僕は白井さんをいじめてはいないよ。ただ、僕と一緒にいる子達が、白井さんは嘘つきで、すぐに職員に、自分の都合のいいようにチクるから嫌いだと話していたよ。だから、白井さんが、僕らの話の仲間に入れないでいるから、僕のこと、そうやって言ってるのかもね」
界は、そう言って笑った。
「笑ってる場合じゃない!」
マリーは声を荒げた。
「マリー、泣いてる?」
界が立ち上がった。そして、マリーの後ろに立つと、マリーをフワッと抱きしめた。
「やめて!!」
マリーは立ち上がった。
「マリー?」
マリーは、界を睨み付けた。
「知ってるんだから!! 界は、年上のおじさんと付き合ってるんだから!! わたし、見たんだから!!」
「マリー...」
マリーは、走って公園を出た。心臓がドキドキしたまま全速力で走ったから、マリーは死にそうだった。
「こんな仕事、引き受けなきゃ良かった...」
マリーは、そう呟きながら、施設の玄関の監視カメラを見上げた。カメラがキラリと光った。
続く
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