見出し画像

第13章 夢を笑う人々

セミがやかましい青空の下で、マリーは、思い余って、南海出版に電話をかけていた。何度か呼び出し音が鳴り、いつもの無愛想な声が出た。

「梅田さん!! わたし、もうこの仕事辞めたい!! おろしてください!!」

自分の悲痛な声に、マリーは涙が出てきた。電話口の梅田麗子は、それでも冷静だった。

「ダメよ。何があったんだか知らないけどね!あなたは、それを書くのよ!書かなきゃいけないのよ!」

梅田麗子は、厳しい声で言い放った。

「昨日、職員が一人、仕事中に倒れて、そのまま入院になりました。毎日毎日いじめられてて。それが身体にも心にもすごく負担になっていたんですよ! あそこは、地獄ですよ! 鬼ですよ! 」

マリーは泣きながら喋っていた。握りしめた携帯電話が汗と涙で濡れていた。

「あなたは、書くのよ!それを。それが、あなたのすべきことなの。以上です。それから、あなたが倒れたら、元も子もないからね! 次の休みに、こちらに来なさい。美味しいものでもご馳走するわ!」

梅田麗子がそう言うと、プツッと電話が切れた。放心状態のマリーは、その場に立ち尽くしていた。

「休み時間かい?」

背中で、優しいゆっくりとした声がした。振り向くと、門番の七宮さんが立っていた。

「なんだい、泣いてるのかい?」

七宮さんは、ズボンのポケットからティッシュを取り出すと、マリーに渡してきた。マリーは、少し小さくお辞儀をすると、そのティッシュで、思い切り鼻をかんだ。七宮さんは、そんなマリーを、優しい顔で見ていた。まるで、自分の子どもか孫を見ているみたいに。

そんな七宮さんに、なんて言ったらいいか分からず、マリーは、

「わた、わたし、小説家になりたいんですけど、ダメで。だから、いま、電話していて...」

と、訳のわからないことを話し出していた。それでも七宮さんは、

「小説家ですか! すごいじゃない!!」

と、本当に、すごい!という顔をしていた。

「す、すごくなんかないんです。わたしなんか、全然ダメです...」

マリーは、ちょっと恥ずかしくなり、小声で言った。七宮さんは、ニッコリして、

「絶対に叶えてください! 十三さんのその夢! 私の老後の生きがいにします! 十三さんの小説を、本屋で見るまでは、私は、死ねなくなりました!」

と、言った。マリーの目から、また、ポロリと涙が流れた。七宮さんがまた、ティッシュを、マリーに渡した。


お昼も、ろくすっぽ食べずに、施設に戻ったマリーを、ラウンジから界が、手招きして呼んでいた。マリーは、渋々ラウンジへ向かうと、

「見て見て! 十三さん! これ、ななちゃんが描いたんだよ!」

と、界が一枚の絵を見せてきた。レトロポップな花柄デザインといったところだろうか。黄緑の背面に、オレンジ、黄色、ピンク、水色で配色された花が散りばめられている。

「わあ!! すごーい!!」

マリーは、思わず、その絵に飛びついた。横の椅子に、のしっと座ったななちゃんが、照れを隠そうと、首を激しく横に振っていた。

「ねー! すごいでしょう! こういうのは、生まれ持った色彩感覚だもの! 昭和レトロのお洋服の生地の柄でもいいし、テーブルクロスや壁紙でもいいし、ホーロー製のキッチン雑貨の柄にもなるし! ホント、センスあるわよ! ななちゃん!」

界は興奮気味にそう言うと、ななちゃんの肩に手を置いた。ななちゃんは、本当に嬉しそうにしている。界が言うと説得力はある。なにせ、界は、プロのイラストレーターなのだから。

「あ、あのね。あたしね、昭和レトロのデザイン好きで。だから、いっぱいデザイン描いて、昭和レトロのデザインブックみたいな本を出版するのが夢なんだ」

マリーと界は、驚きな表情を見合わせた。ななちゃんは、俯き加減に話していたけれど、声は希望に満ちていた。

「ぜひ出版してよ! わたしの老後の楽しみが出来たわ! ななちゃんの本を本屋で見るまでは、死ねないわ!」

マリーは言った。言いながら、ちょっと笑っちゃってたけど、ななちゃんは、嬉しそうな顔で、マリーを見上げていた。

「なに? 老後って?」

界も笑った。ふと、視線を感じたマリーが事務所の小窓の方に目をやると、主任と橋本さんが、こちらをすごい形相で見ていた。マリーは、そろりと、界とななちゃんから離れると、トボトボと事務所に戻って行った。


マリーが事務所に戻ると、

「あたし!本を出版するのが夢なんです!」

主任が立ち上がり、両手を胸の前で握りしめて、ぶりっ子しながら言った。事務所にいた全員が、どっと笑った。

マリーの心臓がえぐられ、寒気がした。

「自分を分かってないんだよ!ったく!」

主任は、どかっと椅子に座り、足を組んだ。顔はいつものように、歪んで、あざ笑う表情だった。橋本さんが、

「十三さんもさ、あまり話にのらないようにね! 下手な期待をさせるのも、利用者を精神的に不安定にさせてしまうものなのよ」

と、諭すように言った。

「わたしは、別に下手な期待をさせたわけじゃなくて、本当に、ななちゃん、才能あるって思ったから...」

マリーの声は震えていた。橋本さんは、鼻で笑った。そして、

「才能ってさ。あなたにそれが分かるわけ? あなたに何か才能でもあるわけ? あなたが出版社に紹介してあげられるだけの才能でもお持ちなのかしら? あなたみたいな高卒で、何の資格もない、ただのアルバイトが、あの子をどこかに連れて行って、宣伝したって、誰も信用しないわよ!」

と、強い口調で言い放った。マリーは、もう吐き気がしていた。けれど、その時、思ったんだ。坂口さんも、ずっとこんな思いをしていたんだなって。こんな、心臓がえぐられて、息苦しくなり、吐き気を催すような思いを毎日毎日していたんだなって。

「柳川も、調子乗ってるよねぇ。いっぱしに絵の批評なんかしてさぁ。自分の立場をわきまえろっての! この間なんかさ、ラウンジで、利用者集めて、チョコレートの話していてさ。ドイツのチョコレートの話しててさ。はあ? って感じ」

主任がニヤニヤしながら話している。

「そんで、みんなが、すごーい! たべたーい!とかね。みんなにそう言われるのが、嬉しいんでしょ」

東堂さんが、嬉しそうに界をバカにしている。

「あたしなんかは、チョコレートは、いつもGODIVAだから。GODIVAって決めてるの! 贈り物も、自分用も、GODIVA!!」

「えー! すごーい! GODIVA高いよねー! たべたーい!」

マリーは、めまいがしていた。そして、次の休みには、絶対に、梅田麗子に高くて美味しいランチを奢らせてやる!! と心に誓ったのだった。


続く


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?