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文学部コンプレックス

こんにちは、シンガポールで働く日本人、ニコールです。

私は今シンガポールのコンサルティング会社で働いているのですが、そこの上司や同僚は超高学歴×前職が超大手プロフェッショナルファームの人たちばかり。。。一方私はプロフェッショナルファーム出身じゃないし、MBAだって持ってないし、、と入社した頃から勝手に引け目を感じておりました。(ちなみにみんないい人たちです、ただ経歴がキラキラしてるだけで)

特にそれに拍車をかけるのが「文学部コンプレックス」。

私は小学生のころからずっと物書きになりたくて、物書きになるために文学部を選んだので、もともと文学部であることには誇りを持っていました。大学在学時も文学部の授業は欠かさずさぼらず出ていたし、卒業後もずっとその道を進んできたことを肯定的に見ていました。

でもプロフェッショナルファームに入ると、経営学部を筆頭に、経済学部、法学部などビジネスに直結する学部を出てきた人たちがわんさかいて、「文学部?本読んで遊んでただけじゃないの?」と言われそうな気がして、勝手に引け目を感じていました。「なぜ自分は文学部を選んだのか、経済とかの方が絶対役に立ったじゃん、のちのち。。。」と思う夜もたまにあったり。

でも最近、仕事をする中で「あれ、ひょっとして文学部は別に悪いことではないのではないか?」と思うように。。というのも、すべての仕事は言語を介して行われるわけで、チームで議論するにも、クライアントに提案するにも、提案書や報告書を作るのも、みんな日本語が主人公。誤解のないように、と失礼のないように、と論理的に正しく、を等しく共存させながら、なるべく端的に表現を選ぶ必要はいつ何時もあるわけです。こういう時に日本語を磨いてきた能力って実は大いに役に立つんじゃないかと。

もちろん経済とか経営とか学んできた方が、できることの引き出しは多いんだろうな~(いーなー)とは思いつつも、日本語を深く学び、一般の大学生よりも圧倒的に多い量の文章を書いてきたことを卑下する必要はなく、それを武器の一つとして扱ってさらに磨いていけばいいのだろうと気づきました。

それに気づいたときに思ったのが、今まで日本語を「自分の強み/武器」として仕事の中でとらえたことがなかっただけではなく、そもそも当たり前にできることとしてしか認識してこなかったなということ。魚がエラ呼吸できるのと同じ感覚で、「だって言語だもの、みんな使えるじゃん」と思ってきてしまったんですよね。でも実際に社会に出ていろいろな人と仕事をしていくと、もちろん日本語のスキルも様々なわけで、その中で自分の日本語スキルはそこそこ武器になりえる・・・そこをすこーんと見落としていたことに改めて気づきました。これは今からでも武器としてしっかり強くしていかなくては!

一方で、冷静に見たときに文学部ならではの欠点もあります。文学って基本的にアートであり、多様性を尊ぶ文化で、思考スタイルも発散から共感、という、「ふんわりしたものをそのふんわり感を維持したままなるべくそのままに相手に伝える」ということを美徳する学問なので、論理的思考と若干相性が悪い。文学にももちろん論理的思考はありますが(小説作る時とか、構造化するときとか)、論理的思考って意思疎通のシーンにはあんまり出てこないことが多いのです。

ゆえに論理的思考の鬼であるプロフェッショナルファームにいると、「わたあめ♪(ふんわり)」を「グラニュー糖5gと割りばし」に分解するコミュニケーションが必要な場合が多々あるのですが、そういう時に「なるべくわたあめのふんわりさをそのままおとどけ(/・ω・)/ソッ・・・」などとまごまごやっているといけないわけです(笑)。そのせいで、何度かMTGでも「嗚呼、言いたかったことはそこではないのに伝わっていない。なぜ」ということが多々あって、悔しい思いをしました。それはそのコミュニケーションスタイルに合わせた伝え方を習得できていなかったからなので、ここは習得するしか対応策はないのです。

ただ、大事なことは「そういうコミュニケーションスタイルもできるようになる」ということであって、文学部そのもののバックグラウンドやそこで学んできたことではない。むしろ文学部で学んできたことはプロフェッショナルファームでも生かせるし、他の人が持っていないものだからこそ価値となるモノ/視点というのは必ずある。

最近はそんなことを考えながら、逐一言葉や表現にこだわったりして仕事をしています。なんだかそっちの方が楽しいし。

ではでは。

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