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北京留学27日目~国を考える

赤に染まる街
国旗、赤い垂れ幕、赤い提灯。

昨日10月1日は国慶節。7日まで休暇になる。
そして今年は新中国が成立して70周年の節目だった。
当日は天安門で盛大なパレードがあり、CCTVがそれを中継するから大学の食堂ではおじさんおばさんがテレビが見える位置に座って見る。WeChatのモーメンツでも、「みんなスマホでパレードを見てるよ!」とか「中国おめでとう!」といった投稿が増える。

テレビもそうだし、スマホのアプリも国慶節のデザインになっていたり、スーパーではセールがあったり、道端で小さな国旗を売る人がいたりと国全体で国慶節をお祝いしている気分になる。

その前日は新中国成立70周年を記念した表彰式があり、中国の発展に取り組んだ人たちが表彰される様子もまた中継されていた。李先生はこれを見て、涙したと言っていた。李先生は60歳くらいで、中国の変化を身をもって体験している。自分の幼いころから今を思い出したり、国のために力を尽くした人たちを見るととても嬉しくなるそうだ。

自分の国と違う国を見るとき

他人を理解するのは難しい。自分とは違うから。

中国と日本は政治体制が違う。国の歴史も違うし、言語も文化も違う。日本に暮らす私たちの普通が中国では普通ではなかったり、中国の普通が日本ではありえなかったりする。それはみんな十分に分かっていることだ。

でも、それを否定してしまうことがある。
自分のものさしで相手を測って、これが違うあれがおかしいと言ってしまう。その後に「相手を理解することは大切」などと言ったりもする。自分も相手を理解できていないのに。

相手を理解することは難しい。どれだけ理解しようとしても、マジでわからないことはわからないし、自分とは違うというだけで違和感がつきまとってくる。

でも、一歩引いて見てみると自分と相手が違うんだということがわかる。相手の持っている文化や思想が、自分の持っているものさしでは測れないんだということに気が付く。そして自分は批判した相手を下に見ていたり、自分たちのほうが優れているんだとどこかで思ってたんじゃないかとも感じる。

相手のことが理解できなくても、相手は自分にとって理解するのが難しい存在なのだということに気が付ける。

相手を理解するのは難しい。自分とは違うから。
でも、相手を理解できないのは何も不思議なことではないと理解することはできる。相手が自分とは違うものを持った存在であるということを受け止めることはできる。

中国で国慶節を過ごすと

学校中にある国旗も、テレビで報道されるパレードの様子も、国が出来た日の過ごし方も、日本とは全然違ったし日本ではありえないことだと感じた。

でもこれは中国にとっての普通。何もおかしいところなんてなくて、多くの人がこのパレードを見て、自国の70周年の記念を喜び、歴史に心を馳せる。自分の国に、おめでとう、ありがとうと言う。

私たちに、これを否定することなんてできるだろうか。
権力保持のためとか、見せかけとか、悪い国だとか、それは自分と比べているから。比べて、自分の方が良いとか勝ちたいとか相手をおかしいとか思ったりしているから。そんなの、悲しくないか。

私たちが見ていること、考えていることなんて何かを切り取って生み出した部分でしかない。私たちが理解できないことを、理解はできなくても受け止めること。批判などせずに、違うを認めること。そうなったら、いいのにな。

ちょろい女子大生の川添理来です。