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『春霞』Part.2

『春霞』のつづきとなっております。


短編小説です。


「おはようございます。」
昨晩は、意識がまどろんでいる状態で眠りについたらしく、起きたときに状況を理解するのに多少の時間がかかった。カーテンから漏れる光を見て、体をなんとか起こし、寝室らしき部屋を出るとダイニングテーブルに拓哉さんと見知らぬ青年が座っていた。体型は細身でいて、その乱れた髪と服装のイメージから、高身長と認識するのはもう少し後になってからのことであった。
「おはようございます。コーヒーでよろしかったですか。」
「ええ。ありがとうございます。」
そう拓哉さんに返した私は、その青年の斜向かいの席に腰掛けた。

「あの...。」
沈黙に耐えきれず、声を発したと同時にその青年と目が合った。黒縁メガネをかけており、いかにも利高そうだが、どこか柔らかい印象の顔立ちであった。


「言ってなかったですかね。兄弟の...と言っても異母兄弟なんですけど。健介です。」
私の隣、その青年の正面の席に座った拓哉さんはそう紹介した。
「はじめまして。健介と申します。兄さんから話は聞いてます。」
「健介さん、はじめまして。よろしくお願いします。」
簡単な挨拶を済ませるとすぐに、健介さんは椅子から立って、部屋に戻ってしまった。その柔らかな雰囲気は、木製のダイニングテーブルに香ったままだった。
「ご兄弟いらっしゃったんですね。あ。コーヒーいただきますね。」


少し、間が空いた。木漏れ日さすダイニングに吹く一瞬の空気が冷たく感じた。
「健介は、僕の兄弟であり、片割れでもある大切な存在です。僕が生きていられるのは、彼のおかげなんです。決して大げさではなく。」
そう一息に言い放った拓哉さんの目は、私には見えないどこか遠い彼方を見ているようであった。次の一瞬に、彼の周りが霧で霞んでぼやけるようであった。


彼のその目が次に捉えたのは健介さんが残したメモであったようだった。彼はメモを手に取った。


「Rxw ri wkh prxwk frphv hylo.」


「...
...
...
なるほどね。」
彼は微笑したまま、私の方に顔をむけた。
「あまり喋るなと、お叱りを受けました。ヒントはシーザー暗号です。」
はらりと拓哉さんの手から私の手にメモが落ちた。
メモをもらった私は了解したわけではなかったが、彼の方を一瞥すると、彼は微笑したまま頷いた。
メモに目を落とした。すると、その文字列とシーザー暗号というヒントで理解するには十分であった。
「Rxw...
wkh...こっちなら。
...あ。三文字ずらし。
...
...
Out of the mouth comes evil.ですね。
なるほど。」
なんとまわりクドイ。メモに言いたいことを残すだけでもまわりくどいのに。わざわざ丁寧に暗号化まで。
「どうして。このようなことを?もしかして、日常的にされていたりするのですか。それとも私には読まれたくなかった内容だったのでは...?」
「いやいや。そのようなことではないと思います。決して。健介は、僕のことをよく分かってくれていますから。
僕の思考がね。深くまで入り込んでしまわないようにコントロールしてくれているんです。さりげなく。」
暗号化と思考と何の関係があるのだろうか。いささか疑問に思った私は、純粋な興味から質問を続けた。
「シーザー暗号を解くと、思考が軽くなりますか?むしろ混乱しませんか?」
「いえいえ。むしろ単純に”あまり多くを喋るな”と忠告されれば、僕は、その意味を曲がった方向に解釈してしまい、健介の言いたかったことがダイレクトに伝わらないかもしれない。そこで、英語にしたり、暗号を解くという処理を一旦挟むことによって、その分の脳の領域を削る。すると、まっすぐ言葉が伝わる確率が高くなる。健介はそれを分かってこのメモを残しているんですよ。...っと、喋りすぎましたね。怒られてしまいます。」
微笑した彼は、そのまま立ち上がり、カウンターに置かれていたキッチンタイマーをセットした。
その横には、昨日摘んできたオオイヌノフグリが丁寧に置かれていた。


90分



つづく



※フィクションです。

では、次の機会に


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