木を見て森を見ず
他者と仕事をしていると「あ、この人すごくいつも本質的な部分を見ていて賢いな」と尊敬する一方で、自分は本質を捉えられていなくて無駄なことをしてしまっているな、悔しく感じることが多々ある。
他者の脳内を見ることはできないし僕自身が本質的なことをズバッと言える人間ではないので、これもズレている意見かもしれないが、自分が自分に対して「あ、ズレてたな」と感じる時に自分がどういう状態にあったかを振り返ってみる。
木を見て森を見ず
「木を見て森を見ず」
結論、これが一番なのではないかと思う。自分がズレてるなと感じる時は、
「何を実現したいのか」を自分で表現することができず、霧がかかっていて森も木も見えていない状態
「何を実現したいか」を認識していても、自分のこだわりや性格が視野を狭くしてしまい、木しか見なくなってしまう状態
ここは人により多種多様で、気付くのが難しい部分だと思う
例えばブログ記事を書くときに、
枝葉の部分の論理の整合性が気になって先に進まない
苦手を克服したくて、文章の書き方などを調べ始める
細かいレイアウトが気になってしまう
評価、どう思われるかが気になって何度も何度も推敲してしまう
「何を実現したいか」を認識していても、それについての解説書やテクニックなどに従うことに盲目になってしまい、現実との乖離が起きてしまう。「森の管理の仕方」でも、森を構成する木や気候などで状況は変わるだろうが、そうしたことを無視して教科書通りに進めてしまう状態。
アジャイルやスクラムを組織開発に導入するときに、教科書的なノウハウに従うことばかりを考えてチームに歪みが生じるなど
森を見るのは簡単なことではない
「木を見て森を見ず」というと、「じゃあ森を見るように意識すれば良いのか」と思うが、これは誰にでもできることではないと思う。
この比喩でいえば、森の中にいる状態では木しか見えず、森全体を見ることはできない。森の中にいる状態で森全体を見るには、ヘリコプターに乗って上空に出たり、あるいは衛生映像を見たりと、意識的に視座を高めるしかない。しかし多くの場合、普段働く中では木を見ることが仕事の中心で、視座を高めることへの意識が薄まってしまうかもしれない。あるいはその意識があっても、自分のこだわりや性格的なクセなどで、すぐに木に戻ってしまったりする。
それでも森を見続けるために、まずは自分を見つめる
本質は何かを意識することも大事だが、どういう時に自分が本質から外れてしまう傾向があるのかを掴むことも大事だと思う。そうして自分に対する取扱説明書を作っていくのだ。
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